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テーマ:暮らしを楽しむ(383609)
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第一朗読ミカ 7・14−15、18−20
ミカの預言 〔主よ、〕あなたの杖をもって 御自分の民を牧してください あなたの嗣業である羊の群れを。 彼らが豊かな牧場の森に ただひとり守られて住み 遠い昔のように、バシャンとギレアドで 草をはむことができるように。 お前がエジプトの地を出たときのように 彼らに驚くべき業をわたしは示す。 あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。 神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。 主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。 どうか、ヤコブにまことを アブラハムに慈しみを示してください その昔、我らの父祖にお誓いになったように。 福音朗読ルカ 15・1−3、11−32 ルカによる福音 〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。 「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 【任意・3月23日 聖トゥリビオ(モングロベホ)司教】 1538年頃、スペインに生まれる。 サラマンカで法律学を学び、1580年にリマの司教となり南米に赴いた。 使徒的な熱意に燃え、しばしば教区会議を開くことによって、教区民の信仰生活の刷新をはかった。 教会の権能を擁護し、教区民を頻繁に訪れて人々の世話をし、インディオたちに対しても特別な配慮を示した。 1606年に死去。 (カトリック中央協議会刊/日本カトリック典礼委員会編・監修『毎日の読書』より) 聖書本文は 日本聖書協会刊「新共同訳聖書」からの引用です 人生の歩み カトリックの教えQアンドA/草野純英 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.03.23 07:29:36
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