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世界の向こう

2008.06.19
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黒いセミロングという無駄のない髪型を見れば分かると思うが、私は極力シンプルに生きるようにしている。それは要するにスマートであるようにしている、ということである。

例えば朝ごはんはトーストとサラダとココアで、これを絶対に揺るがしはしない。めざましテレビで美味しそうなフレンチトーストを見たからといってそれを我が生活に取り入れたり、真夏だからと言ってグレープフルーツ・ジュースをグラスに注ぐようなことは断じてない。いや、後者は時折ある。しかしそれは許されるのだ。なぜならグレープフルーツ・ジュースという飲料が極めてスマートだから。

もう幾つか例を挙げよう。私は学校に行くのに愛用のハンドバッグ以外は持たない。いかに荷物が多くても、である。持って良くものの多い日を見越して、荷物の少ない日に体操着やらを学校に持っていく。休み前や、試験週間の金曜日などは例外である。

ハンドバッグの中も実にシンプルである。勉強用具のほかには、ベージュのブックカバーに包まれた文庫小説(今は宮沢賢治だ)、小銭入れ、ハンカチ、弁当箱にしている小さなタッパー、それから携帯音楽プレイヤーが入っているのみである。私は毎朝電車に乗るとイヤフォンを装着しクラシックあるいはフォーク類の音楽をランダムに流して、本を捲る。スマートだ、どこまでも。



しかしこんなスマートな私にも、実を言うと恥ずかしながらシンプルに生きれない時代というものがあった。まことに恥ずかしい。



中学生から高校卒業までの間、私はイギリス、ロンドンで生活した。その間に通った土曜日だけの日本人補習校は、当時の私にとって幸せの宝庫であった。

特に高校一年生はもう、巨大な風呂に一年中浸っているような気分だった。しかしこの年に、私はシンプルかつスマートな人生を歩まんとする決断を下すこととなる。



「三浦さん」と彼は私のことを呼んだ。確か当時彼は中学二年生だった。
土曜日、私は補習校が終わると誰もいない教室でトランペットを吹くことを習慣としていた。現地校は週に二日しか放課後空いている日がなく、かといって自宅で練習するのは近所迷惑である。そのため、そんなふうに練習をしていた。

彼は毎週階下からやってきた。沈黙を守る校舎に金属製の階段が鳴る音がカンカンと聞こえ、やがて彼はやってきた。伊藤なんとか、という名前だったように記憶している。伊藤なんとか君は毎週放課後にショルダーバッグと本を持って現れた。彼は相当の読書家であるように見えた。コナン・ドイルであったのが次の週にはモームになっていたり、その次の週には宮沢賢治になっていたりした。

最初のころは(私のほうが二年も年上だったし)上から目線、というと少しあれだが、そんな態度で後輩として話していたが、徐々に私のほうが劣っているように思えてきた。伊藤なんとか君が長机に座って本を読む姿はなんというか神秘性を秘めており(まあ夕日の当たり具合もあったのかもしれない)、これは決して恋ではなかったと断言できるが、尊敬以上の何かに値するように感じた。(繰り返すが、まあ夕日の当たり具合も一因であったのかもしれない)

ともかく、普段ははしゃいでるガキ丸出しの伊藤なんとか君のクールな一面にショックを受けた私は、それに対当すべく冷静で美しい先輩になることを決意した。

クラリネットを吹くときは決して表情を変えない。長く演奏していると、これは相当辛くなる。しかし毎晩行った顔面における筋肉の強化によって見事成し遂げた。
口数は減らす。もともとあまり話さない人間だったため、これは特に苦には感じなかった。



「音楽は波よ」と、何度か言った覚えがある。伊藤なんとか君は私がそう言う度に本から顔を上げ、「音楽は・・・波」と呟いた。空中に消えゆくような弱々しい言葉からして、おそらく彼は私の最大にクールな名言を理解はしていなかったはずである。そして勿論、私とて理解などしていなかった。



伊藤なんとか君は高校入学のため日本に帰国した。私たちは厳かな握手で別れを惜しんだ。私はなんというか、(これは決して恋ではないが)いろんな色の糸がからまり、その上からオレンジマーマレイドを垂らしたような気持ちになった。伊藤なんとか君は私の唯一の男友達であり最大の友人であった(と私は思っていた)から、それは確かに寂しかった。ロンドンはその日雨であった。


伊藤なんとか君はもう高校二年生のはずである。日本にいるということ以外はどこにいるのかも、何をしているのかも分からない。メールアドレスを渡したのに、そのIDにログインするパスワードを忘れてしまったのでメールを見るにも見れず、そして誰からも彼の噂を耳にすることはなかった。



私は今日もシンプルである。日に日にそのシンプル性は完全に近づいているように思う。梅雨を思うとなんだか暗い気分になるが、私は雨自体はそれほど嫌いではない。アスファルトを打つ雨音を想像しながら目を瞑り、ベッドサイドランプを消した。暗闇が訪れる。今日もおしまい。もう、何も思い出すことはないのだ。





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最終更新日  2008.06.19 22:15:27
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