頂き物のアユを塩焼きにして思うこと
昨日の昼は素麺とアユの塩焼き。実家のご近所さんからのお裾分け。吾妻川支流での釣果らしい。吾妻川は群馬県北西部の河川、八ッ場ダムの建設地。もともと、吾妻川は万座・草津温泉から強酸性の温泉排水が流れ込む死の川。今は、温泉排水が中和され、魚も住める様にはなっているが、海からアユが遡上する訳はない。食卓に上ったのは川に放流された琵琶湖アユ。川で捕れた天然アユと言い張り家族に食べさせてみる。何やら有難がり好評。物は美味しんだけどちょっと複雑。 アユは秋(9-2月)に川の下流で産卵し、仔魚は、海・河口で5cm~10cm程度の若魚に育ち、翌春(4-5月)に川を遡上し、上流で成魚となる。秋に川を下り産卵をして一生を終える一年魚。友釣りが普及するまではたいへん高価な魚だった。アユの成魚は約1m四方程度の縄張りを持ち、川底の石に生える藻を主食とする。よって、餌釣りが効かず、縄張りから出ない為、網・簗にもかからない。投網で捕るにしても密度が低く網に入る匹数は限られる。固定の網や簗で捕れるのは川を遡上する若アユ、産卵に下流に戻る落ちアユ。食べ頃の成魚を捕るのは難しい。ちなみに、友釣りが普及するまで、アユ漁法で最も効率が良かったのは鵜飼い漁。鵜飼い漁が現在まで伝承された最大の理由である。 友釣りは、囮のアユをを他のアユの縄張りで泳がし、追い払いに来たアユを囮に仕掛けた針で釣り上げる漁法。現代の友釣りの原型は伊豆の川漁師の漁法。江戸末期(1845~1867年)には伊豆を中心に東は関東利根川水系、西は長良川水系まで拡がっていたことが文献から確認できる。しかし、本格的な普及は大正期。伊豆の川漁師達が鉄道の普及で各地の川に出稼ぎに出かけたことが原因。友釣りの初見は江戸時代後期、天保3年(1832年)伊豆の代官所への嘆願書。駿河湾に注ぐ狩野川で「アユの友釣り」の禁止を求める既存漁法の川漁師達の訴え。友釣りが行われていたことを示す文献は元禄十年(1697年)「本朝食鑑」京都八瀬川(現在の高野川)の記載が最古、次が文政九年(1826年)「乍恐奉願上口上」紀州日高川の記載。どちらも現代の友釣りとにつながっているかと言えば、ちょっと怪しい。 友釣りの仕掛けは囮が着けて泳ぐ為、水中抵抗が生産性を大きく左右する。水中抵抗が大きければ囮が直ぐに弱わるからである。伊豆の川漁師達は、テグスが使うことでこの問題を乗り越えたと見られる。テグスは、ヤママユガの幼虫から絹糸腺を取出して、中の液状絹を酢中で糸に引いたもの。江戸中期頃、大坂で「テグス仲間」が確認できるのでテグスの釣り糸使用は江戸前期に遡ると見られる。ちなみに、テグスは、中国で漢方薬の梱包材として使用されていた糸。中国からの漢方薬輸入で日本に入ったと言われる。テグスの原料となるフウ蚕、シンジュ蚕は日本に生息しないから長崎出島経由で中国から原糸を輸入し国内で釣り糸に加工していた様である。輸入物であるテグスはかなり高価なものらしく、寛文6年(1663年)~慶応3年(1868年)までの犯科帳に記録されたテグスの抜け荷密売件数は193件、約年1件の割合。わかっている物だけでこれなのだから実態は・・・。 当然、釣り糸は消耗品。高価なテグスを使うなら高値で売れる魚を釣るしか、割があわない。テグスは 裕福層相手の大都市近郊漁業、主に瀬戸内海の一本釣りに使用されることになる。 江戸後期(1800年代)の愛知県半田で粕酢造りが開発され食酢の大量生産が始まる。食酢は海路で江戸に運び込まれ値段が急落、日本に大量に自生するクス蚕からテグス代用品が安価で作られるようになる。本物のテグスに比べると強度は落ちるが長さのいらない川釣りならば十分。水深が浅く鵜飼い漁ができない中小河川が多く、代用テグス生産に必要な安価な酢の通り道、伊豆でアユの友釣りの技術が発展したのではと思っている。 現在は養殖アユが全盛。琵琶湖アユは遡上性がないから生簀養殖には最適。季節には東京のスーパでも売られるようになっている。また、琵琶湖アユは縄張り意識が強く、レジェー用の友釣りには最適、各地の川で放流されることとなっている。川で釣れたと言っても、スーパで売ってる養殖アユとどの位差があるものだろうか?。個人的にはそんなに差がない気がしてならない。だって、養殖アユでも十分おいしいのだから。参照資料 日常生活(食品) ブックマークプラス by SEO対策 経済と株式 経済ニュース 株取引