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May 1, 2011
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カテゴリ:そのほか
キリシタン大名高山右近は戦国時代の武将です。
摂津国に生れ、奈良は宇陀の沢城にて
フランシスコ・ザビエルの弟子で琵琶法師の
ロレンソ了斎より洗礼を受けキリシタンとなります。

このロレンソが一体どのような説法を説いたのか?
琵琶法師の声で響き、戦国の世の人々の心に届いたであろう
キリストの教え、聖書の言葉、そして祈りの歌声とは?
大変に興味の湧く所です。

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右近は後に摂津国の高槻城主となります。
右近の布教により城下の六割の領民がキリシタンとなりました。

高槻は本能寺の変の後、安土からセミナリヨも移転されますが、
それ以前に日本で最初にパイプオルガンが演奏された地でもありました。

現在でも城下の千提寺は隠れキリシタンの里としても知られ、
信長当時の高槻は日本でも最も栄えたキリシタンの町の一つでした。

最も有名なザビエルの肖像画もこの右近の城下で描かれたとも考えられるもので、
やはり、千提寺の民家で発見されています。
現在は神戸市立博物館の収蔵品となっています。

千提寺のキリシタン遺物資料館には
「どちりなきりしたん」“Doctrina Christiana”
「ぎやどぺかどる」“Guia de Pecadore”
などの資料とともに、ローマ法王のメダル等、
日本では長崎と摂津の二カ所にしかない遺物もあります。
当時の日本のキリシタン達が全国各地で同じ祈りを捧げていた証拠にもなります。

また、秀吉時代の長崎で殉教した26聖人も全てが京都や大阪など、
信長と明らかに右近の影響の及ぶ範囲でのキリシタン達であった訳です。

続く徳川幕府以降のキリシタンへの更なる抑圧と徹底した排除を考えると、
当時の日本の中心に位置する都や摂津の地のキリシタンへの弾圧は
それらの及ぼす影響力を考えると相当に徹底されたものであった筈です。
そのために消え失せてしまったキリシタンの遺物は計り知れない量にのぼる、、
そう考える事の方が自然だと思います。

ところで、日本で初めて活版印刷された書物はキリスト教の聖歌でした。
1601年長崎で出版された「サカラメンタ提要」です。

江戸時代初期の出版ではありましたが、
地理的にも中央の地から離れていたこともあり、
弾圧の目の届かぬ隙もあったのでしょうか?
辛うじて出版された典礼の書でした。

先の千提寺のキリシタン遺物資料館の例を見ても、
日本各地でミサの際に歌われていた聖歌が納められている、
と、いう可能性は十二分にあると考えられます。

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当時のミサの具体的な資料は秀吉、そして徳川幕府の手で、
ことごとく焼き払われたことでしょう。
この「サカラメンタ提要」のみが当時のミサの姿を残す唯一の手がかりなのです。





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Last updated  May 2, 2011 05:36:45 PM
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