カテゴリ:そのほか
一昨日の 高槻公演、音楽はとても良かった。
期待通りのほんとうに良い音楽だったと思います。 ですが、舞台として一つのイベントとしてみたら ほんとうに大失敗だったと僕は思っています。 客観的に舞台全体を見る人間が居ないまま 前日のリハーサルから本番にかけて進めてしまったのです。 (企画書作成の初期の準備段階から必要な仕事だったかもしれません。) 特に講演の部分を見た時に、まず音響の問題がありました。 そして構成の問題。 しかし、音響に問題があったからといって、次回から音響をどうこうしましょうということが適切な解決策だとは思いません。 露見した穴のひとつひとつを埋めていこう。という対処では今回の問題解決にはならないと思いました。 音楽の方も結果オーライでは済まない事前の準備での不備が多々ありました。 専門の音楽ホールや多目的ホールは既に設備や専門家としての訓練を受けた人員が用意された場所です。 しかし、教会のようなイベント用の空間で無い場所を使いその場を『舞台』として作って行く場合、 専門の音楽ホールや多目的ホールと比べて設備の何が足りないのか。 今、目の前のキャストに、お客さんに、スタッフに、 そう、今、目の前で何が起こっているのか。 誰がどういう気持ちでこの舞台を捉えているのか。 舞台技術を把握しイベントとしてキャストと客席を如何に繋ぐかを瞬時に察知し動くことのできる人間が舞台袖には必ず必要です。 しかし、いませんでした。 特に講演時がそうでした。音楽は演奏者がプロであれば自分たちで客観視し対処する経験と方法を持ち合わせています。今回は特に良いメンバーばかりだったと思います。その上で今回は音楽監督というポジションと最上の人材もしっかりとありました。また今回のメンバーにとって教会はホームグラウンドといっても良い場所です。 スタッフにも音楽のプロは居ました。 そのことはちゃんと結果にも現れました。 僕自身、音楽の経験をそのまま講演も含めたイベントに応用してしまおうとしたところに最大の問題点があったと思います。 しかも、講演時舞台を客観視することのできる人間が袖に誰もいませんでした。 多種多様な会場、キャストに対応できる人間が居ませんでした。 つまり、舞台監督も居ない、ステージマネージャーすら全く居ない状態で講演という未知の分野に臨んでいたことになります。 「舞台監督」「ステマネ」という名前をあてがって誰でも良いからいれば良いというわけでもありません。 素人仕事では「舞台ごっこ」になってしまいます。 恥を忍んで言えば今回の講演時はまさに主催者が「舞台ごっこ」をさらしてしまった時間だと思います。 キャストやスタッフの顔見知りである場合は許容できたかもしれません。 音楽マニアであれば後半の演奏で満足できたかもしれません。 ですがそのどちらでも無い方にとっては今回の催し自体全てが「舞台ごっこ」でしかなかったと思います。 その方たちのお時間を「舞台ごっこ」で無駄にしてしまった、と思うと本当に胸が痛くなります。 今度の芦屋公演では僕はキャストになる瞬間は一切ありません。 舞台監督の視線とステージマネージャーとしての動きこの二つに専念することが可能になります。 音楽と歴史と宗教とを繋ぐ 言葉では言えても実現することは容易ではありません。 内容だけに囚われていては舞台として世に出すことは出来ないのだ。 そう、改めて痛感しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 29, 2015 01:09:58 PM
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