改定・武田源氏の野望
「上洛への布石」(92章)にほんブログ村にほんブログ村 (疾(と)きこと風の如く) 信玄は甲斐に戻り、次々と謀略の手を関東に伸ばしていた。 既に駿河はほぼ武田家が支配し、遠江は徳川家康が治めるだろう。 三国同盟で均衡を保っていたが、今川家の滅亡により武田家は、背後の関東の覇者、北条家対策が急務と成ったのだ。 現に今川氏真の要請で北条家は大軍を発し、駿河を取り戻そうとし、武田勢と干戈を交えたのだ。 その為に信玄は関東の諸大名に武田に味方をするよう働き掛けていた。 真っ先に常陸の佐竹義重が信玄の呼びかけに同意した。 その為に北条家は常陸の佐竹義重、下野の茂木治清に背後を襲われ、その打開策として長年の宿敵であった、上杉家との同盟を進めていた。 まさに奇怪な暗躍が水面下に行われ始めたのだ。 なんとしても上杉家と同盟を結ぶ、武田家に敵対したからには仕方のない事である。併し、これは北条家にとっては屈辱的な同盟であった。 北条家の当主の氏政は父の氏康の命で三国峠に近い、上野の領土の割譲と、人質まで上杉家に出し、ようやく越相同盟を成立に導いたのだ。 それが元亀元年(一五七0年)四月のことであった。氏康の三男である北条三郎を養子に迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入り景虎という己の幼名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。 十二月に上杉輝虎は法名の不識庵謙信を称する事になる。 信玄の関東侵略と北条家に対する圧力は烈しさをましていた。 既に信玄は永禄十一年に信長の斡旋で将軍、足利義昭を通じ上杉家との和睦を試みていたのだ。同年八月には上杉家との和睦が成立した。 まさに権謀術策を絵に描いたような手並みを見せたのだ。 一方、越後の上杉家も関東侵攻に飽き飽きしていたのだ。 雪解けを待って三月に豪雪を掻き分け、関東に進出し北条家に降った、豪族に攻め寄せると、彼等はこぞって上杉家に恭順を示すのであった。 その彼等を先鋒に北条勢と合戦に及ぶと北条勢は、堅城で名高い小田原城に籠り、亀が首をすくめたように合戦を回避するのだ。 こうして対峙し秋が深まる時期、越後勢が降雪を恐れ国許に引き上げると、待っていたかのように、越後勢に降った豪族は北条家の傘下に入るのである。 こうした事が毎年繰り返されていたのだ。 謙信も家臣達もこのような状況の関東攻めに呆れ返っていた。 武田勢は四月に駿河から甲斐に引き上げ、六月には北条領土である伊豆の三島攻めを行い、休む間もなく八月には信濃佐久郡から西上野を経由して、北条領に進攻し鉢形城、滝山城の二城を瞬く間に陥し、二万の大軍で北条勢の居城である小田原城を包囲した。 北条勢が常套戦略である籠城策をとったために、信玄は城下に火を放つよう下知し撤兵を開始した。 武田勢が小田原から相模川に沿って撤退中、北条勢に追い撃ちをかけられた。 これを信玄は待っていたのだ。 追撃する北条勢に対し、甲斐との国境にある三増峠の要地に数千の軍兵を隠し、待ち伏せ戦術を策していたのだ。 そうとは知らず北条勢が攻撃を仕掛けるゃ、埋伏していた軍勢が俄かに立ちあがり反撃し、これを粉砕し意気揚々と甲斐に撤退を完了したのだ。 まさに信玄は見事な陽動作戦を演じてみせたのだ。 この時期に北条家は救援の使者を何度となく、謙信の許に差し向けていたが、上杉勢はいっこうに動こうとはしなかった。 これは上杉家の戦略転換の所為であったが、北条家は知らずにいたのだ。 時を同じくして上杉家は、関東から越中制圧に戦略転換をしていたのだ。 越後勢、頼むに足らず。これが北条家の思いであったろう。 この時期、武田家は充実の時を迎えていた。国力が富み兵は最強と成った。 甲斐、信濃、西上野、東美濃と版図は拡大し、軍制改革を進めはじめた。 信玄は本格的な水軍の編成を考え始めたのも、この時期であった。 前年に伊豆に進攻した際、旧今川家の海賊衆が武田勢を大いに助けた。 義元の時代には、今川家は三人の海賊衆で水軍を編成していた。信玄はその三人を武田家に帰属させたのだ、岡部忠兵衛、伊丹大隈守、興津摂津守の三名である。信玄は岡部忠兵衛を海賊衆の頭に命じ、改名させ土屋貞綱と命名した。更に伊勢、北畠家の遺臣を召抱えた。 小浜景隆、向井正勝等の伊勢海賊衆が武田水軍に加わったのだ、これは織田信長の率いる、九鬼水軍に対抗するための施策で、強力な水軍完成を信玄は求めていた。 大安宅丸(おおあんたくまる)一艘と軍船五十艘が武田水軍の編成であった。 信玄の威勢は将軍、足利義昭の知るところとなり、信玄の動向は天下注視の的となっていた。その原因は武田軍団の精強さにあった。 武田信玄の声望が高まるにつれ、織田信長の評判が悪し様になっていった。 将軍家を蔑ろにし、神仏を信ぜずに一向門徒衆との抗争を繰り返し、伊勢長島一揆の鎮圧では、人とは思えない残酷な仕打ちで門徒衆を殺戮した。 併し確実に勢力を伸張させ、将軍義昭の政治活動に制約を加えていたのだ。 更に姉川の合戦で織田徳川の連合軍は、浅井朝倉の連合軍を完膚なく叩き、北近江も織田家の勢力圏となっていた。 元亀元年九月十二日に顕如が信長が本願寺を破却すると言ってきた。 と、本願寺門徒衆に檄を飛ばした。三好三人衆攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田勢を突如攻撃し、そのまま本願寺勢は石山本願寺を出て、十四日に淀川堤で織田勢と直接激突した。この戦いは織田勢優勢に終わり、本願寺勢は石山本願寺に返り、本格的な籠城の構えを見せた。 一方の謙信は越中の富山城その他の城を陥し、関東制圧に乗りだし始めた。 この時期に三河も信玄にとり見逃せぬ形勢となってきた、徳川と姓を変えた家康は、居城を岡崎城から浜松城に移し、本格的に遠江支配を目論み始めた。 その一環として武田家との関係を絶ち、上杉謙信に起請文を送り、同盟を結び、武田家と駿河支配をめぐり、完全な敵対関係となった。 いよいよ天下の覇権をめぐって世の中が騒然となってきたのだ。 そうした情況下の元亀二年一月十六日、信玄は大軍を発し電光石火の勢いで北条家の属城の深沢城を葬り、完全に駿河一国を制圧してしまった。 ここに武田家二代の念願が果たされた年となった。信玄五十歳の時である。