1177847 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

長編時代小説コーナ

長編時代小説コーナ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

龍5777

龍5777

Favorite Blog

スマホ充電ケーブル… New! Pearunさん

リュウちゃんの日記… New! flamenco22さん

^-^◆ …… 人と人の出… New! 和活喜さん

名探偵ポアロ ゴルフ… 千菊丸2151さん

ツツジが満開でした よりすぐりさん

Comments

 人間辛抱@ Re:何故、安保法制が必要なのか。 (08/09) どうもお久しぶりです。 新型コロナウイル…
 http://buycialisky.com/@ Re:士道惨なり(11)(12/10) cialis muscle paincialis daily use side…
 http://buycialisky.com/@ Re:改定  上杉景勝(12/11) cialis 5 mg prezzo in farmaciaanti cial…
 http://buycialisky.com/@ Re:騒乱江戸湊(04/28) cialis in spanien kaufenavoid counterfe…
 http://buycialisky.com/@ Re:「改訂  上杉景勝」(04/21) what happens if a woman takes viagra or…
 http://viagraky.com/@ Re:士道惨なり(11)(12/10) offshore viagra &lt;a href=&quot; <sma…

Category

Freepage List

Calendar

Dec 26, 2007
XML
カテゴリ:武田家二代の野望
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 
この小説も終盤です、応援をお願いいたします。

 この三方ケ原合戦の大勝利は、瞬く間に諸国に広まり、石山本願寺の

顕如は、信玄と勝頼に太刀や虎の皮を贈って勝利を祝った。

 更に顕如は遠江、三河、尾張、美濃の一向門徒衆に指示を発し、岐阜の

近郊に要害を築かせ、信長を脅かした。

 信長は窮地に陥り、近江から軍勢を引きあげる必要に迫られ、十二月三日

に突然、軍勢を返した。その時の越前の朝倉義景の態度が不自然であった。

 戦略的にみるなら、信長が兵を引いた時期、小谷城の浅井長政と共に織田勢

に対し、追い撃ちをかける、これが常道であるのに義景はそれをせず、織田の

撤兵を見送り、大嶽(おおずく)から軍勢を越前に引いたのだ。

 それを知った信玄の失望は大きかった。直ちに将軍義昭に書状を送り、再度

朝倉義景に出兵を促すよう、申し送ったが義景は出馬を見送ったのだ。

 ただ、時期が悪い。この時期、越前は雪に埋もれていたのだ。

          (妄執の果て)

 信玄は刑部の陣営で病魔と闘っていた、武田の将兵も知らず、勝頼さえも

知らない秘事であった。織田信長も徳川家康も動かぬ武田軍団を注視してい

た。既に徳川勢は浜松城に籠城し、家康に従属していた豪族が武田に降り、

単独で攻めかかる力を失っていた。

 信玄は本陣で愛用の土瓶をかき混ぜ、己の余命を考え続けていた。

 恐らく京までは保たない、これが信玄の偽らぬ思いであった。

 この刑部でも、何度となく喀血していた。その度に躯から力が失せる、だが、

最近は小康を得て徐々に力が漲ってきている。

 本当に病が小康情況となったのか、信玄自身もつかめずにいた。

「人は死ぬ直前に一時的に元気を取り戻すと申すがな」  信玄は独り言を呟き

土瓶の薬湯を口にしていた。上洛は己一人の願いではない、父の信虎の念願

でもある。越後勢と大合戦を演じた川中島で討死を遂げたと偽った、山本勘助

の願いでもある、無性に勘助に会いたかった。

「奴の事だ、どこぞで余を見守っておる」  そんな思いがしていた。

 二俣城攻略の秘策は、父の信虎と勘助の謀略であった事は承知しているが、

あれ以来、一切の連絡は途絶えていた。

 信玄は湯呑みを口にはこび、苦い笑いを浮かべた。快癒する見込みのない己

が何故に、このような薬湯を飲んでいるのか、自虐の笑いであった。

 部屋は蒸すように暑い、信玄の肺は外気を受けつけぬほど弱っていたのだ。

 早う、春になるのじゃ、余は春を待って美濃に進攻いたす。あの、悪逆非道な

織田信長を打ち倒し、京の都に上り武田家二流の御旗を瀬田に立てる。

 戦国大名として武田信玄は、最後の夢を己の余命に託していたのだ。

「明朝を期して野田城攻略の軍を発する」

 信玄の下知が下った日は、一月二十二日のことであった。

 野田城は長篠城の西南に位置し、この刑部より六里ほど西に向かった地点に

ある。城は豊川右岸の台地の突端にあり、柔ケ淵の絶壁を防壁とした城は、

堅固そのものの城で聞こえていた。

 城主は菅沼定盈(さだみつ)である。彼は初めは今川家に属していたが、永禄

四年より徳川家康に属した。

 翌日の二十三日は、風もない快晴の日和となった。信玄は愛馬の白鹿毛に

跨り、軍団の中陣で進んでいた。快晴にもかかわらず綿入れの頭巾を被り、

眼だけを出し熊の羽織りを纏っていた。

 一時も早く片づけたい、これが信玄の思いで山県三郎兵衛の赤備えと勝頼

の率いる、騎馬武者が先鋒として出撃していた。

 二万八千の大軍が刑部を出撃し、豊川の河原に集結を終えたのは正午であ

った。蟻一匹、逃さぬ陣形で野田城を包囲した。

 菅沼定盈は、眼下に展開する武田軍団の威容をみつめ全滅を覚悟した。

 城から見下ろせる南の日当たりの良い箇所に、人夫たちが手際よく簡単な

本営らしき建物を建てている。  「あれが武田の本陣か」

「強襲したいが、届くまでに全滅じゃな」 それほど見事で巧緻な陣形である。

「籠城じゃ」  幸いにも兵糧は十分にある、二俣城と違い井戸水も豊富に

ある。武田勢の攻め口は、城門の急峻な小道が一筋のみ、一年でも保てる。

 その内に、徳川勢か織田勢の援軍も駆けつけるであろう。

 こうして対陣が始まったが、武田勢は包囲したたげで攻撃を控えている。

 家康は織田信長に救援の使者を遣わし、何度となく出兵するが、堅固な

武田勢の防衛線に阻まれ、虚しく浜松城にもどるのみであった。

武田家二代の野望(1)へ






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Dec 27, 2007 11:14:58 AM
コメント(8) | コメントを書く
[武田家二代の野望] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.