1177500 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

長編時代小説コーナ

長編時代小説コーナ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

龍5777

龍5777

Favorite Blog

5人で会食! New! 韓国の達人!さん

マリーゴールドに恋… New! 千菊丸2151さん

スマホでEPSON EW-05… New! Pearunさん

^-^◆ あか・あお・… New! 和活喜さん

春休み中に食べたサ… flamenco22さん

Comments

 人間辛抱@ Re:何故、安保法制が必要なのか。 (08/09) どうもお久しぶりです。 新型コロナウイル…
 http://buycialisky.com/@ Re:士道惨なり(11)(12/10) cialis muscle paincialis daily use side…
 http://buycialisky.com/@ Re:改定  上杉景勝(12/11) cialis 5 mg prezzo in farmaciaanti cial…
 http://buycialisky.com/@ Re:騒乱江戸湊(04/28) cialis in spanien kaufenavoid counterfe…
 http://buycialisky.com/@ Re:「改訂  上杉景勝」(04/21) what happens if a woman takes viagra or…
 http://viagraky.com/@ Re:士道惨なり(11)(12/10) offshore viagra &lt;a href=&quot; <sma…

Category

Freepage List

Calendar

Apr 23, 2009
XML
カテゴリ:戦国雑記。
 

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 


        「織田信長を考える」(二十四)

 信長の当面の敵は石山本願寺であるが、本願寺の軍事力を担う雑賀衆を

彼は標的とし、翌年の天正五年の二月十三日に京を発ち、紀州の紀ノ川河口

に向かった。

 雑賀衆とは紀伊の国、雑賀を中心とする本願寺門徒の集団であった。

 彼等は雑賀五組からなり、鉄砲や水軍をもった石山本願寺の重要な軍事力

を構成していた。信長の出陣は太田源太夫の率いる雑賀三組と、根来寺の

杉坊が信長に味方をするということで出陣したのだ。

 彼等は鉄砲集団として名を馳せていた。特に雑賀五組とは、雑賀荘、十ケ

郷、宮郷、中郷、三上荘の五つの地域集団であったが、十ケ郷の鈴木孫一は

強烈に信長に対抗した。彼は別名、雑賀孫一として有名であった。

 織田軍は河口の湿地帯に阻まれ苦戦したが、翌三月には雑賀荘、十ケ荘の

二組が信長に降伏した。

 信長は同月の十五日に孫一等、七名を赦免し、和泉、佐野に佐久間信盛を

置いて帰陣した。こうして石山本願寺の抵抗勢力を徐々に攻略していた。

 この頃から信長は家臣の中から次ぎ次ぎと離反者を出している。

 これは信長の生まれ持った気象のなせることかも知れない。

 主従関係で信長は打算的な側面が顕著であった。信長は家臣を含め人間

関係というものが、信頼と温情の上に成り立つという考えが希薄であった。

そのせいか織田家の軍律は、峻烈を極めていた。将兵とも信長の怒りを恐れ、

軍紀は厳しく、つねに将兵は信長の顔色を窺がっていた。

 その軍律も信長の気象で、度々、場当たり的な処罰を行っている。

 織田家にあっては、そうした事が当たり前であった。信長は神の存在にちかく,

信長も当然にそのように振舞っていたのだ。

 信長は自分に勝る者はいないという、異常までの自己過信を抱いていた。

 過去の例をみても分るように、不可能を可能としてきた自信の表れである。

 ブレーンを用いないないのも、そうした過去の成功の所為かもしれない。

 更につめるて見れば、他人を信用しない男であった。

 それは父の信秀の病死により、跡目相続争いで味わった肉親への不審感も

尾を引いていたのかも知れない。

家臣達は己の利益追求の道具、もしくはコマとしか見ていなかったのだ。

はじめは浅井家の旧臣、磯野丹波守が逃亡したのだ。

 彼は信長にかなり信用を得ていたが、一夜にして居城を捨て出奔した。

「ご折檻なされ、逐電つかまつり候」こうした書置きを残しての逃亡劇であった。

 こうした時期の十月に、松永久秀が背いたのだ、久秀は将軍義輝を殺した

大逆人であったが、信長は彼の才能を惜しんで家臣に取り立てた。

 しかし四年前の天正元年に武田信玄の上洛時に、一度、信長に背いている。

 だが信長は久秀の才略非凡を惜しみ、敢えて咎めなかった。

 彼の持つ能力は天下布武を目的とする信長には、兵器や軍勢などよりも

数倍も勝る武器であった。信長は久秀より多聞城を召し上げ、信貴城を与え

優遇した。

 昨年の本願寺攻めが再開されると、佐久間信盛に属し天王寺砦の城番をつ

とめていた。しかし、八月に突然として砦を引き払い、本願寺と内応して信貴城

に籠城したのだ。この松永久秀の謀反の報せは信長を驚かせた。

 信長は久秀を手許に引きとめようとして、松井有閑を久秀の許に差し向け

た。「思うところを存分に申せば叶えてやる」と帰参を促している。

 こうした譲歩にも係わらず、松永久秀の反抗態勢は本格的であった。

 彼は石山本願寺と上杉謙信、毛利家とで信長を挟撃する態勢を整えていた。

 これに対する信長の報復は凄まじいものであった。

 久秀が人質として出しておいた二人の子供を、情け容赦なく処刑したのだ。

 ここにも信長の残虐性を見る思いがする。武器が無用となれば捨て去るま

で、信長はそう考えたに違いない。十月一日、織田勢の先鋒隊が片岡城を

陥落させ、三日には、総大将として信忠が着陣して信貴城を包囲した。

 猛攻撃をうけた久秀は敗戦を自覚し、信長が所望していた名物の平蜘蛛茶

壷を打ち砕き、天守閣に火を放ち城とともに果てた。

 信長という武将は革命児であると同時に、己の信用を失墜させた者には容赦

なく厳罰をもって臨み、残虐非道な報復をする男であった。

 それは一種の狂気ともいえる振る舞いを平気でやっている。

 だがここで信長の心理状態もみておかねばなるまい。それは上杉謙信の不

気味な動きがあったのだ。

 信長はようやく石山本願寺を孤立に追い詰めたのだが、閏七月八日に、

上杉謙信は能登攻略の軍勢を越中の魚津城から出陣させていた。

 この動きは松永久秀と石山本願寺の策謀と映っていた。

 それ故に、松永久秀の手腕が必要であった。

 上杉勢は九月十三日に能登の七尾城を包囲し、十五日には念願の攻略を終

えて十七日には加賀に入っていた。信長の恐れは上杉勢の動向にあった。

 既に信貴城には松永久秀が籠城している。

 九月二十五日に信長の恐れていた敗戦の報せがあった。

 七尾城の陥落を知らない、織田勢三万余が柴田勝家に率いられ北上し、

加賀の手取川で謙信の指揮で完膚なく破れ去っていたのだ。

 これにはさしもの信長も恐怖した、勝利の勢いで上杉勢が安土に押し寄せた

ら織田勢は壊滅するかも、この恐れが久秀へ向けられたのだ。

 幸いにして上杉謙信は手取川の手前で軍勢を留め、そのまま帰国していっ

た。間一髪の差で信長は難を逃れたのだ。

                            続く






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Apr 24, 2009 03:37:24 PM
コメント(32) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.