長編時代小説コーナ

2010/05/11(火)11:53

伊庭求馬無頼剣(15)

伊庭求馬無頼剣(107)

      「上人、我等は今後の策を練らねばなりませぬ、いかなる事情でご息女を お匿いなされた」  求馬が上人の感傷を断ちきるような口調で訊ねた。 「拙僧は斉藤殿が直参とは知っておったが、目付筆頭の要職で公儀隠密団の 黒雲組副頭領とは知らなんだ。まして、そちが配下であった事も初耳じゃ」 「どなたの紹介にござる?」 「江戸のさる寺の住職よりの口利きでの、何も詮索せずに匿っておった」 「いかにも上人らしい」 求馬が苦笑で応じ言葉を継いだ。 「相変わらず暢気なことですな、それが上人たる所以でもありますが、老中 筆頭の堀井讃岐守が、血眼で行方を探索していることは事実にござる。特に この寺にそれがしが居ることも糸路殿にとっては不利、一刻の猶予もござらん。 それがしを糸路殿に会わせて頂きたい」  求馬の皮肉な口調にも怒らず、小坊主を呼び出した。 「離れに居られる糸路殿をお連れいたせ」  廊下から小坊主の足音が途絶えるのを待って、 「この寺が隠密供に知れることは明白じゃな」  何時もと変わらぬ温顔で求馬を見つめ、上人が念を押した。 「左様、奴等はそれがしも追っております、遅かれ早かれ、この寺は奴等に知 れることになりましょうな」 求馬が平然とした態度で言いきった。 「そなたはいかがいたす?」 「それがしは命を捨てた無頼漢、身は腰の孤剣で護る所存。襲いくる者は全て 斬り捨てるまでにござる」 「またもや修羅道にもどるか」 上人が顔を曇らせた。  廊下に静かな足音が響き部屋の前で止まった。何かためらう風情を感じた 上人が声をかけた。 「糸路殿かの」   「はい、なんぞご用と伺いましたが」 澄んだ若い女人の声を三人は聞いた。 「お入りなされ」 上人に促され襖が静かに開き、若い美女が姿を見せ、怪訝 そうに部屋の中を見回している。 「何も心配はいりませんぞ、どうぞ楽になされ」  上人は糸路を部屋に招じ入れた。どこか儚そうな憂いを含んだ美貌が三人を 魅了した。 「斉藤糸路と申します」 折り目正しい所作で挨拶をした。  黒々とした艶やかな髪、整った目鼻立ちと眸子の輝きが三人を引き付けた。  仕立ての良い衣装が武家娘らしくよく似合っている。そうした糸路の容姿を 見た求馬は一瞬、息を飲み込んだ、亡妻に生き写しであった。数年前の出来事 が走馬灯のようによぎった、既に忘れさっていた胸の痛みが再び蘇った。  まるで夢を見ている思いである。 「いかがいたした」 上人の声で我に返り視線を糸路にもどした。 「貴女が斉藤岩見殿のご息女にござるか?」 「はい」 糸路は答え、目の前の浪人の視線の強さに驚いて俯いた。  上人からは何も知らせれていないが、この痩身の武士に運命的な出会いを 感じた。 「貴女に酷い話だが心してお聞きいただく、お父上がお亡くなりになられた」 「それは真にございますか?」  求馬の言葉に糸路が顔色を無くした。求馬は傍らの猪の吉を指差し、 「この者がお父上のご最後の一部始終を観て参った」  町人姿の猪の吉を糸路はすがるように見つめた。 「猪の吉殿、お聞かせいたせ」 上人に促され猪の吉が正座に座りなおした。 「あっしは猪の吉と申しやす。伊庭の旦那に頼まれ、貴女様のお屋敷を探りに めえりやした」 猪の吉は屋敷の出来事を見たまま全てを語った。  糸路は涙を堪えて聞き入っている。そのような理不尽が許されてよいのか、 悲しみと同時に憤りが湧いていた。 「父は配下に裏切られ、亡くなったのですね」 「左様、公儀隠密団黒雲組の副頭領の貴女の父上は、配下の手にかかり無念 の最後を遂げられた」 求馬が乾いた声で告げた。 「父上が・・・・」 「ご無念は察するが、武家の習いとして気丈に振舞われよ」  上人が暗澹たる顔で糸路を励ましている。 伊庭求馬無頼剣(1)へ

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