長編時代小説コーナ

2011/08/05(金)17:00

騒乱江戸湊

伊庭求馬無情剣(105)

           「騒乱江戸湊(101)」 (大団円)  五十嵐次郎兵はそんな中で満身創痍となり、獅子奮迅の働きを示していた。  彼は襲いくる捕吏を血祭りにあげ、逃れるべく堀割りへと駈けた。 (御前の隠れ家も襲われたな、大丈夫であろうか)その思いが胸中を走ってい た。血濡れた大刀を手に隠しておいた猪牙船へと近づいた。  その姿を闘いの中で見つけた天野監物が猛然と追いかけた。 「待たぬか―」  天野監物が声を張り上げ、五十嵐次郎兵の背後から襲いかかった。  振り向いた五十嵐次郎兵が、凄まじい片手斬りで応戦した。  その攻撃は凄まじいものであった、天野監物が素早く後方に退いた。  五十嵐次郎兵は柔和な顔を一変させ、鬼の形相となっている。 「貴様がこの集団の頭じゃな」  天野監物が叱咤し、草叢を踏みしめ接近を始めた。五十嵐次郎兵が すかさず正眼に構えをとり、猛烈な突きの攻撃を仕掛けた。  天野監物が躱した瞬間、草に足をとられ転倒した。五十嵐次郎兵が 見逃さず猪牙船に飛び乗り、竿で土手を突いた。猪牙船が岸部を離れた。 「卑怯な、とって返せ」  跳ね起きた天野監物を嘲笑うかのように、五十嵐次郎兵を載せた猪牙船 が闇に消えていった。 「天野、怪我はないか?」  お頭の河野権一郎が陣笠を被った姿を現した。 「大事はござらんが、首謀者と思われる男を取り逃がしました」  天野監物が歯噛みをしている。 「焦るな、この一帯は町奉行所の捕り方が厳重に監視しておる」  既に奥山の闘いは終止符をうたれ、縄をうたれた浪人が捕吏によって 引き立てられてゆく。  一方、嘉納主水の指揮する御用船が両国橋に近づいていた。 「猪の吉、奴等はどこぞに消えたようじゃ」  主水が猪の吉に声をかけた。この神田川一帯は葦が繁り波打っている。 「旦那、奴等は大川対岸の篝火に気づき、堀割りに逃げ込んだようですな」 「どういたす?」  主水の問いに猪の吉が夜空を仰ぎ見た。  相変わらず黒雲が早い勢いで流れている。 「九つ半(深夜一時)に近い刻限です。篝火を消し下せえ、鳳凰丸に気附かれて は、まずいことになりやす。我々は永代橋の船手組の番屋に行きやしょう」 「分かった」  主水が御用船の舳先に仁王立ちとなって、提灯を大きく二度振った。  その合図を見た大川東岸に、煌々と輝いていた篝火が一斉に消された。  船団は御用提灯を消し闇夜の大川を懸け声をあげ、永代橋の船手組の番屋 の船着場に接岸した。 「大目付殿、闇公方の一味は一向に現れませんな」  向井将監が陣笠に陣羽織姿のいでたちで現れ、塩辛声をあげた。 「奴等は大川に出れずに、近辺の堀割りに潜んでおります。丑の刻限も近い、 鳳凰丸に気づかれてはならぬ。永代橋警備の篝火と灯りを消して下され」 「分かりました、皆共、全ての灯りを消すように合図をいたせ」  主水の下知で向井将監が配下に命じた、暫くすると永代橋周辺の明かりが 消え、大川一帯と江戸の町は暗闇の中に沈みこんだ。  ただ朧月が時々顔を見せ、千代田のお城の屋根に微かな月光を投げかける のみとなった。それにつれ西風がやや穏やかとなってきた。 「大目付殿、我等も出動いたす。ここより南の浜御殿までの堀割りを全て 封鎖いたし、一方では周辺の堀を探索いたす。そうなれば奴等は袋の鼠です」 「遣って頂けるか?」 「船手組の面目にかけてもやりましょう」 「かたじけない、我等はここで万一に備え待機いたす」  六万坪地の岸部に船手組の御用船十艘が、暗闇にまぎれ潜んでいる。  あれほど荒れ狂っていた海面が、穏やかなうねりに変わってきた。 「伊庭さま、大川の明かりは全て消されました」  船手組の水主与力が報告に現れた。 「そろそろ鳳凰丸が現れる刻限です。回頭を始めたら三十三間堂から出撃 いたす、奴等が投錨を終えたら短弓の用意を願います」 「分かりました」  求馬が上空を仰ぎ見た。朧月が雲に隠れ江戸湾は暗闇に覆われている。 「これは幸先が良い」  求馬が御用船の舳先で独語した。 騒乱江戸湊(1)へ

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