長編時代小説コーナ

2011/11/23(水)10:53

伊庭求馬活殺剣

伊庭求馬活殺剣(78)

         「影の刺客」(68) 「今夜が最後の押し込みとなろう、忍び込みの刻限は四つ半(午後十一時)と する。皆共、抜かるなよ」  頭の甲戌が覆面越しから、全員を見廻し低い声で命じた。  不気味で決死の空気が、異様に漂った。 「本郷に向かった乙丑(きのとうし)は、戻ってきますか?」 「この警備では戻れまい、隠れ家に引き返すじゃろう」 「あと一刻ほどありますな」 「それぞれ二人一組となって行動いたせ、引き上げの合図は笛の音じゃ」  甲戌の命令で男達は、座敷の壁に身をもたせ沈黙した。 (治済の命を奪うことが出来るか、・・何名が生き残って戻れるか)  甲戌が一座に視線を廻し、内心で呟いていた。  静寂が田沼屋敷の廃屋を覆っていた。  「若山豊後はおるか?」  主水の野太い声に応じ、若山豊後が一同を割って顔をみせた。 「屋敷には変化はないか?」 「今のところ変わった様子は見られませぬ」  嘉納主水と山部美濃守に河野権一郎が、大篝火の近くに腰を据え、 若山豊後が緊張した顔つきで傍らに待機している。  一方、火事場に駆ける天野監物等は、凍える迎え風を受け先を急いで いた。黒い空を染めていた、炎がやや弱くなったような感じする。  前方から乱れた足音が響き、威勢の良い声がした。 「火付盗賊改方の旦那ではございやせんか?」 「誰じゃ」 「へい、あっちらは町火消八番組の、わ組を与かる頭の才蔵と申しやす」 「なんと・・、町火消の頭か」  暗闇から刺子(さしこ)半纏(はんてん)をまとった、いなせな中年の男が 現れた。手に鳶口(とびぐち)を持っている。 「火事の様子はどうじゃ」 「へい、直ぐに消えます」 「なにっ」 「出火場所は本郷の古寺でございやす、付け火にございやすな。ですが 何か可笑しんで、そちらに駆けつける途中でござんした」 「可笑しいとは、どういう意味じゃ」  天野監物が不審そうに訊ねた。 「付け火をするにしはて町屋から、離れた場所の古寺でございやす。 他に類焼する危険のねえ場所なんでございやす」 「そんな場所の古寺に放火か?」  天野監物が闇を透かし見て応じた。 「いくら風が強くても大蛇池を越えて火の粉が、飛び火する心配はありや せん。今頃は竜吐水(りゅうどすい)で消火を終えた時分にございやすよ」  頭の才蔵が仔細に火事場の様子を語った。  その言葉に天野監物の顔が険しくなった。 「そういう訳であっちらは、ここでご無礼いたしやす」 「頭、礼を言うぜ」 「滅相な、それじゃあ失礼いたしやす」  わ組の才蔵が言い置いて駆け去った。 「奴等の仕業じゃ、類焼せぬように離れた古寺だけ放火するとは解せぬ」  火事と喧嘩は江戸の華と、もてはやされた言葉は、それだけ頻繁に火事と 喧嘩が起こった証拠であった。  八代将軍の吉宗は、享保の改革の一環として、江戸の防災化をめざし、 土蔵造りや瓦屋根の普及に努め、享保五年に南町奉行の大岡忠相は、 町方にイロハ四十七組の設立を命じたことから、始まった組織である。 「皆、奴等は火事騒ぎを起こし、我等の力を分断しその騒ぎに乗じて 一橋家を襲うつもりじゃ。もう、襲われておるやも知れぬ、駆けるぞ」  天野の下知で面々が血相を変えて駆けだした。  その頃、田沼屋敷に潜んでいた曲者が音を消して動き出した。  次々土塀を飛び越え一橋家の広壮な庭に散っていった。  邸内では強盗提灯を照らした、警備の士が慎重に巡回している。  樹木の翳から二人一組となった曲者が、背後から襲いかかり音もなく、 小刀で突き殺し、斃した死骸を樹木の影に隠し屋敷に接近していた。  まるで獲物を狙う獣のような俊敏な動きである。 「豊後、屋敷の様子はどうじゃ」  主水が愛刀の政国を抱え訊ねた。 「庭の警備は打ち切ったようです、ずいぶんと強盗提灯が少なくなりました」 「なにっ」  主水が素早く立ち上がった。 「もう四つ半を過ぎました。この寒さで屋敷に引き上げたのではありませんか」  河野権一郎が、のんびりした声をあげた。 影の刺客(1)へ

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