長編時代小説コーナ

2011/11/26(土)12:00

伊庭求馬活殺剣

伊庭求馬活殺剣(78)

         「影の刺客」(71) 強盗提灯の灯りに、男の素顔が顕となった。左頬に刀傷の痕が ある、精悍な面構えの男である。 「貴様等に捕えられる訳にはいかぬ」  挑発の声をあげた、甲戌が火付盗賊改方の群れに飛び込んだ。  大刀が闇の中を一閃、二閃と奔りぬけ、血飛沫があがった。  どっと火付盗賊改方の包囲網が広がった。  その隙を見逃さず、甲戌の長身が内濠の淵に逃れでた。 「囲んで斬り捨てよ」  その言葉を合図のように、甲戌が思わぬ行動をとったのだ。  長身を宙に躍らせ内濠をめがけ飛び込んだ、水飛沫があがり甲戌の 姿が内濠に没した。 「濠に飛び込んだぞ、探すのじゃ」  強盗提灯が水面を照らしているが、甲戌の姿は再び現れることはなかった。  その時、嘉納主水が正国を手にし、一橋家の表門から現れた。 「大目付殿、大事はござらぬか?」  山部美濃守が真っ先に訊ねた。 「心配はご無用にござる、逃げ延びた曲者はござるか?」 「五名が逃れでましたが、三名は討ち取りました。だが残念ながら二名は 取り逃がしました」  山部美濃守が無念そうに報告した。 「大目付さま、その中の頭と覚しき男が濠に飛び込みました。多分、凍死した と思われます」  若山豊後が主水の側に寄りながら告げた。 「なんと逃れぬと悟り、内濠に身をなげたか」  主水が内濠に視線を落とした、濠に薄氷が張りつめている。 「山部殿、屋敷で七名を討ち取りました。これで奴等は終わりにござるな」  主水の体躯から、まだ剣気が立ちのぼっている。 「嘉納殿は居られるか?」  表門から一橋家の警備頭、井坂隼人が凄惨な姿を現した。 「井坂殿、かなりの手傷とお見受けいたすが、大事はござらぬか?」 「これしきの傷は、かすり傷にござる。大殿のお言葉をお伝いいたす。 今宵の働き見事であった、そこもとのお蔭で危うい命が助かった。この 働きは上様に上申いたすとの仰せにござった」 「これは拙者のお勤め、上申なんぞはお止め下されとお伝いありたい。 ・・・して警備の方々の被害はいかほどにござる」 「ただ今、調査をしておりますが、死傷者が二十名を数えるほどの激闘で ござった」  井坂隼人が苦しげな口調で答えた。  主水と山部美濃守が絶句した。思いもよらない損害に唖然となっていた。 「嘉納殿、大殿の言上しかとお伝い申した」  井坂隼人が肩を落とし引き上げていった。 「組頭っ」  本郷の火事場に向かった、五名が息をきらして戻ってきた。 「曲者の襲撃がございましたか?」  天野監物が性急に訊ね、 「かたがついたところじゃ。奴等は一名を残し全滅した」 「畜生、肝心の時に間にあわねえとは情けねえ」  天野監物が無念そうに夜空を仰いだ。 「火事場の様子はどうであった」  山部美濃守の問いに天野監物が町火消、わ組の頭の言葉を伝えた。 「天野、他に類焼せぬような古寺に放火したと申すのか?」  傍らの主水が天野の言葉に、敏感に反応した。 「町火消の頭が不審そうに申しておりました」 「面白くないの」  主水が腕組みをして考え込んでいる。 「我等を分散させるために仕組んだ放火じゃ。併し、類焼せぬような心くばり をする奴等とは、思われぬ」  主水が厳しい声を発した。 「矢張り一橋さまを狙うための、権力争いですかな」  山部美濃守の眼差しも険しさを増している。 「左様、権力争いで一橋さまのお命を狙うための、陽動策ならば放火は、 慎重にせねばなりませんな」 「嘉納殿、町人に迷惑を与えぬ策としたら、それしか考えられませぬな」 「誰が黒幕じゃ、一橋治済さまの命を狙う者は」  主水の言葉に全員が沈黙した。  幕閣の権力争いと考えてきたが、それとは全く異にした事件に進展して いるようだ。 「山部殿、遣ることは一つ、逃げ去った曲者を捕えることです」 「承知にござる。残りは一人、それも手傷を負っております。明日から 徹底的な探索をいたします」 影の刺客(1)へ

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