長編時代小説コーナ

2012/04/21(土)10:40

「改訂  上杉景勝」

改訂  上杉景勝(126)

[上杉景勝] ブログ村キーワード                「改訂  上杉景勝」 (76)  慶長三年八月五日、伏見城で病床にあった秀吉は、秀頼の将来を五大老 に託し、五奉行と誓紙を交換させた。  五大老は帰国中の上杉景勝をのぞき、それぞれ五奉行に誓紙を提出し、 秀頼への奉公と法度の遵守を誓った。  前田利家には大阪城で秀頼を守ることを頼み、三成には朝鮮から全軍の 撤兵を命じた。  同日、秀吉は自ら家康、利家、輝元、景勝、秀家の五大老にあてた遺言を 書いた。 『返すがえす、秀頼事たのみ申し候。五人の衆、たのみ申し上げ候。いさい、 五人の者に申し渡し候。なごりおしく候。             以上  秀頼事、成りたち候ように、此のかきつけの衆として、たのみ申し候。 なに事も、此のほかには、思いのこす事なく候。         かしく、    八月五日、                       秀吉  いえやす、ちくせん、てるもと、かけかつ、ひでいえ、  まいる』  この秀吉の遺言は秀頼の無事な成長を願う思いが、切々と響くと同時に、 秀頼の将来に対する、揺れ動く不吉な予感を感じさせるものであった。  死期の迫った秀吉の妄執のなせる仕儀であったと推測する。  既にこうした誓紙の交換は何度となく行われていたのだ。  八月十六日、諸社寺の病気平癒の祈祷も虚しく、秀吉は波乱のとんだ 生涯を閉じた。享年六十二歳であった。 『露とおち露と消えにし我が身かな 浪花のことは夢のまた夢』  これが秀吉の辞世の句であるが、世の未練を断った秀吉の真実の思いが 伝わる。この世のことなどは夢じゃと、揶揄する秀吉の笑いを感じるのだ。  彼の遺骸は極秘に伏見城に安置された。秀吉の死去がおおやけとなれば、 朝鮮軍や渡海した日本軍への影響が大きいとみた配慮であった。  日本六十余州の天下人としては、あまりにも寂しい末路である。  秀吉の遺骸は翌年の慶長四年の四月十三日に、東山の阿弥陀ケ峰に葬ら れるのであった。  太閤殿下の訃報が会津の景勝にもたらされた。この報せは五奉行筆頭の 石田三成からのものであった。 「とうとう亡くなられたか」  景勝の脳裡に秀吉の闊達として姿が蘇っているが、いよいよ天下が騒がし くなると感じられ、身の引き締まる思いがしていた。  その戦慄は徳川家康の存在であった。 「お屋形、直ぐに伏見に参られませ、五大老としての職責を果たすことが大老 としての身分が保証されます。それが無に帰せば、ただの大名にござる」  素早く兼続が進言した。 「分かっておる。これより騎馬で発つ、何事か変事があれば伏見に知らせよ」  景勝の決断も素早い、軽騎で手練れの家臣を率い会津を発った。 改訂上杉景勝(1)へ

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