2012/10/19(金)13:13
改定 「上杉景勝」
[上杉景勝] ブログ村キーワード
「改訂 上杉景勝」 (89)
兼続の反駁書は厳しい文面でなおも続く。
『当国については、さまざまな雑説が京、伏見に流布され、内府も
御不審の由、仕方のないことに候。会津は遠国で主、景勝は若輩にて
候、このことが雑説を生むことになりますが、いたって苦しからず。尊意
を安んぜられ、このような流説に御心を労されますな』
『景勝に上洛を御命じなされるが、二年前に国替えし程なく上洛をいたし、
昨年の九月に下国いたした。それを承知に再度上洛せよとは何時、
国の仕置きをいたすべきか得心が参りませぬ』
『景勝に別心なき旨、誓紙を差し出せと申されますが、誓紙なんぞは
何枚書いても意味はございませぬ。景勝が律儀の人物であることは故太閤
殿下が、もっとも良く存じておられました。
その心は今も変わりはございませぬ。
この世間の朝変暮化とは、縁ななき者とお考え頂きたい』
『武具を集めておることを非難なされておられますが、上方武士は今焼
茶碗、炭取瓢といった人蕩しの道具を所持される言われますが、当家の
ごとき田舎武士は、槍、弓箭(ゆみや)の道具を支度仕ります』
『景勝に逆心あって籠城いたすならば、国境の出入口を塞ぎ、道路を
こぼつことが戦略でありましょう。それを十方に道路を作っております。
もし天下の大軍に包囲されれば、十方に兵を出し防戦せねばなりませぬ。
当家のみでは人数も足りず、やがては攻略されてしまいます。道路開発は
敵意のない証拠とお考えくだされ』
全十六ヶ条からなる直江状(なおえじょう)から抜粋したが、景勝主従には
誰からも非難される謂れがない自負があった。
それも故太閤殿下の遺命で領内統治を優先させることが、豊臣政権への
忠節と考えていたのだ。
さらに五大老の独りとして同僚の家康ずれに、とやかく言われる筋合い
はないという思いもあった。
家康は大阪城西ノ丸で憮然とした顔つきで直江状を読み終えた。
垂れ下がった瞼から怒りの色を浮かべた眸が血走っている。
「正信、わしはこの歳までこのような無礼な書状を見たことがないわ」
傍らの謀臣、本多正信に呟き呆然した態度であったといわれる。
この有名な直江状は慶長五年四月十四日に書かれていた。
改訂上杉景勝(1)へ
久しぶりに上杉景勝の続きを書きましたが、何かしっくりしません。
書き終えた内容と文章、これが今、書いた文章とどこか一致しませんが、
お許しのほど・・・・龍