長編時代小説コーナ

2013/10/16(水)12:51

最後の幕臣、小栗上野介の生涯。

真の幕臣、小栗上野介(145)

     「小栗上野介忠順」(107)  翌朝、上野介は愛馬に乗って駿河台の屋敷に戻って行った。  既に横浜の町は活気を呈し、日本人や外人の姿が散見される。  上野介は小高い道に馬を止め、目の前の広大な横浜港を眺め廻した。  日本の千石船に雑じって列国の艦船が停泊し、黒煙を挙げている。  今に幕府海軍の艦船が港内を埋める日が来る、そう感じていた。  一人残された美代は昨夜の上野介の澄み切った眸子を思いだし、何事も なければ良いがと心の内で念じていた。  上野介の寵愛をうけ何年になるのか、昨夜の自分の狂態が脳裡を過り頬を 染める美代であった。  慶応三年(一八六七年)四月一日より、世界初の試みとしてパリで万国博が 開催されることと成った。  幕府には前年に仏国のナポレオン三世から、日本の参加と慶喜の渡仏の 要請を受けていた。これに興味を示した西洋列強は真剣に参加を検討してい たが、慶喜は公務多忙を理由に、弟の徳川昭武を代表者とし派遣した。  幕府が日本の唯一の政府である事を、列国に印象付ける目的のための参加 であった。幕府は等身大の武者人形や伝統芸術の茶室を展示し、大いに東洋 の神秘を列国の人々に披露し、列国の紳士淑女の関心を集めていた。  使節団の一行は昭武を先頭に、日本の政府が幕府であることを大いに 宣伝した。併し、この万国博に薩摩藩が秘かに参加していたのだ。  薩摩藩は懇意とするモンブラン伯と結託し、薩摩琉球国として出展していた。  こうしてパリを舞台とし幕府と薩摩藩の宣伝戦が始まったのだ。  薩摩藩の主張は幕府も薩摩藩も、同じ資格を持つ独立した藩侯国で、日本 には古来から朝廷と言う政府が存在し、帝が日本の君主であったが幕府が 武力でその地位を奪ったのだと、大いに宣伝に努めた。  そうした謀略を考え進めた人物がモンブラン伯であった。  薩摩藩は更に勲章を作り、列国の名士に贈り関心を集めていた。  こうして幕府の使節団は薩摩藩の謀略に翻弄され、遅れをとっている。  更に薩摩藩は幕府の展示物の前に、薩摩藩の藩印を無断で掲げ、さも薩摩 の展示品のように見せつけていた。随分とえげつない行為をしたものだ。  この時の写真が現在も残っている。  この一事を以てしても薩摩藩は幕府よりもはるかに上手であった。  こうした騒動が起こってもナポレオン三世は、幕府に好意をもっている為に、 些かも薩摩藩の暗躍には、動揺を示さなかったが、財界は烈しく動揺した。  六百万ドルの借款の使用目的が、幕府軍隊の増強の為で軍艦や武器等の 購入資金と成り、薩摩藩、長州藩を倒す計画と知り、彼等は借款に消極的と 成った。彼等は商人で幕府が薩摩、長州藩に敗れた場合を考え借款締結に 躊躇した事は推測に値する。  万一、幕府が負けるような場合があれば、みすみすお金をどぶに捨てると 同じであり、工場や製鉄所の建築費用とし使用されるならは担保とし、それら 設備を差し押さえ、投資金額の回収は可能であるが、武器購入の資金と成ると 簡単ではない。彼等が二の足を踏むことは当然であった。  このような経緯で六百ドルの借款締結は暗礁に乗り上げた。  こうして薩摩藩は情報戦に於いても幕府に勝利した。それだけ薩摩が強かで あった。こうした情報は使節団より逐一報告を受け、上野介は切歯扼腕してい る。パリ財界人は未だに借款への締結を決めかねていた。  日本の政府は徳川幕府と信じていたのに、この万国博で薩摩琉球国として 新たな藩侯国が参加してきたのだ、彼等の言い分は、 『帝のみが日本の君主で、幕府はその武力で権力を略奪し私くした。元来より 幕府も薩摩琉球国も、対等な地位を持った藩侯国である』  と盛んに宣伝したいた。  これによりパリの財界人を困惑させ、ロッシュもこの事を憂いて上野介に 相談していた。      小栗上野介忠順(1)へ

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