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Jan 26, 2015
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「上洛への布石」(91章)


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        (疾(と)きこと風の如く)

 この永禄十一年から、元亀三年までは四年の年月があるが、

信玄はこの間、関東に出兵し、北条氏政と激戦を繰り返し、北条勢は

武田勢の鋭鋒の烈しさに押され、小田原城に籠城して守り切った。

 こうして数々の合戦を行いながら、信玄は織田信長の養女を勝頼の

正室に迎え、織田家との友好関係を強め始めた。

 この間の信玄の動きは激しく、また謀略も凄まじいものがあった。

 こうした動きを見せながら、彼は上洛を視野においた施策を打っていた。

 今は駿府城を占拠し、氏真の使っていた書院で今後の事を熟慮していた。

 信玄は脇息を躯の前にうつし、両肘を乗せて思案に耽っている。

 このまま駿河に居座っては危険である。万一、北条勢と徳川勢が手を結ぶ

というような事態とも成れば、武田勢は袋の鼠となる。

 なんせ補給線が伸びきっており、そこを腹背から衝かれることになる。

 そうなれば我が軍の難戦は目に見えている、信玄が意を決し声をあげた。

「誰ぞある」  

「はっ」  

 警護の士がすかさず廊下に姿をみせた。

「馬場美濃守と内藤修理亮の両人にすぐに参るよう伝えよ」

 間もなく廊下に草摺りの音が響き両名が姿を現した。

 馬場美濃守は黒糸縅の甲冑で、内藤修理亮は浅黄縅の甲冑を身に纏っている。

「御屋形、何事にございます?」 

 馬場美濃守が戦場焼けした声で主に声を懸けた。

 信玄が北条勢の予測と我が軍勢の弱点を述べた。  

「御屋形は北条勢が出て参るとお考えですか?」

「それで如何成されます」

 両人とも当然という顔つきで疑問を呈した。

「年明けと同時に、一旦、軍勢を引き上げる」  

「甲斐に戻ると仰せになりますか?」

 内藤修理亮が柔和な口調で念を押した。

「このまま居座っては不味い、軍勢を引いても駿河は既に武田家の領土じゃ。

何時でも出撃できる、じゃが、一戦もせずに引くは業腹。薩唾峠で北条勢を

叩き甲斐に帰還いたす」  

 信玄が語り終え、二人の宿老を見廻した。

「良きご思案かと存じまする」  

 内藤修理亮昌豊が笑みを浮かべた。

 北条勢に一泡吹かせて兵を退く、此れこそが我が御屋形じゃ。

「両人に異存がなければ、撤退の下知をいたせ」  

「ははっー」

 長年、信玄と戦塵を潜り抜けた二人には、信玄の考えが手にとるように判る。

 北条勢が駿河に進攻してきても、滞陣を続ける事は可能であるが、御屋形が

仕掛けた、越後の内乱も年明けには終る筈である。

 本庄繁長は上杉輝虎に降伏するだろう、そうなれば上杉勢が再び関東制圧に

乗り出す事は目に見えている。

 北条勢は即刻、駿河から軍勢を引き関東で越後勢と対決せねばならない。

 既に越後の状勢は刻々と信玄に伝えられていたのだ。

 本庄繁長も上杉家から離脱し、戦国大名と成る目算は十分にあった。

 輝虎が信玄に通じ謀反を起こした、椎名康胤の居城松倉城を攻撃する為に

越中に軍勢を発した機に、繁長は輝虎に不満を抱く豪族を味方に付けようとし、

密書を送った。その密書を送った主な人物は次の通りである。

 鮎川盛長一族、揚北衆の色部勝長、黒川実氏、黒川清実の近親者。

 更に揚北衆の重鎮、鳥坂城主の中条景資であった。

 だが、これが裏目に出たのだ。中条景資はそのまま密書を輝虎に提出した。

 こうして繁長の謀反は発覚したのだ。驚いた輝虎は、即座に陣を引き払い

春日山城に帰還し、繁長の居城である本庄城攻略の準備を進めた。

 それを知った本庄一族の鮎川盛長が忠誠を誓うと、揚北衆は次々と上杉方に

寝返った。

 こうして本庄繁長は信玄の援軍が来るまで籠城を続けたが、武田家の援軍は

豪雪の影響で間に合わず、彼は輝虎の軍門に降った。

 こうした情報は越後に潜む、忍び者から逐一、報告を受けていた。

 それ故に武田家の主従は驚く様子も見せなかったのだ。

「美濃守、秋山信友に余の下知を伝えてくれえ」

 信玄が何事か思案し、馬場美濃守に言葉を懸けた。

「伯耆守に?」  

 馬場美濃守と内藤修理亮が顔を見合わせた。

「急ぎ伊那高遠城にもどり、伊那衆を率い遠江に進攻いたせと申せ」

「なんと徳川家と事を構えまするか?」  

 両人が驚きの色を浮かべた。

「威嚇じゃ。家康、いささか図にのっておる。我等を甘くみると何時でも

天龍川沿いから、見附方面に大軍を送り込み遠江を占拠するぞとの脅しじゃ」

「これは驚きましたな、早速、そのように伯耆守に伝えまする」

 この一事は駿河から武田勢が引きあげても、調子に乗って駿河を奪おうなど

と思うなよ。との信玄の家康に対する威嚇の伝言であった。

 秋山信友は余の武将ながら、一人でこの戦国の世を乗り切る器量がある。

 信玄は小姓から従ってきた信友を信頼していた。事実、彼は信玄没後も美濃

に勢力を張り、長篠合戦後も信長の十万の軍勢と戦い一歩も引かなかった猛将

として名を轟かした武将である。

 また美濃の岩村城の攻撃では無血開城させ、城主の未亡人を自分の室として

いる。彼女は織田信長の叔母であった。秋山信友は豪胆な武将であった。

 永禄十二年(一五六九年)、武田勢は駿府から一斉に軍勢を引き、薩唾峠に

布陣した。一月、今川氏真の要請で北条氏政率いる一万五千名が駿河に進駐

するために薩唾峠で武田勢と対陣したのだ。

 信玄は合戦の帰趨も気にせず、甲斐に一隊を率いて戻って行った。

 武田勢の総大将とし馬場美濃守が指揮し、初春の四月まで睨みあったが、

両軍とも仕掛けず、何も得るものもなく双方は軍勢を引き払った。

 別命を受けた秋山信友は、伊那衆を率いて天龍川を南下し、今川の属城を

陥とし遠江の引馬城の東の見附に進攻し、徳川家の武将、奥平貞能(さだよし)

と合戦に及んだ。そこは遠江の中間地点にあたり、家康は信玄の盟約違反とし、

抗議を申し送ってきた。

 信玄は自分の知らぬ事と抗弁し、秋山信友に軍勢の引き上げを命じた。

 十分に威嚇が出来たと信じたのだ。だが、この強攻策が裏目となった。

 武田信玄信じられぬ、いつ背信するか判らぬ。家康はこの疑惑で信玄を恐

れた。いかに今川家の属城を攻略中といえども、遠江に進攻した事は許せぬ。

 家康は掛川城包囲網の本陣で、信玄の本心を考え続けていた。

 未だに掛川城は屈せず、五月を迎えていた。家康は今川氏真に使者を送った。

 この城を開城し遠江を引き渡せば、武田から駿河を奪い氏真殿に献上いたす。

と説き、五月六日に講和を結び掛川城を開城し、家康に引き渡したのだ。

 氏真夫婦は宿老の朝比奈泰朝等と共に、伊豆の戸倉城まで退き北条家を頼

った。ここに東海の覇者、今川家は事実上滅亡したのだ。

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Last updated  Jan 26, 2015 08:30:21 PM
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