長編時代小説コーナ

2015/05/06(水)11:40

改定・武田源氏の野望

武田信玄上洛の道。(115)

「信玄の戦略」(110章) (三方ケ原の合戦 2) にほんブログ村 にほんブログ村 この三方ヶ原は浜松城の北西に広がる東西二里半、南北約四里の平原である。  そこは農民達の入会地として使われている原野であった。  そうした地形の為に大軍を展開するには絶好の場所であった。    その頃、徳川勢一万余は浜松城を出陣し、武田勢の追撃に移っていた。  家康は浜松城を無視され、武将の誇りを傷つけられ信玄の策略に思いを よせる、心の余裕を失っていた。  徳川勢出陣する。その報告が信玄の許に届いていた。   「矢張り家康、出て参ったか」  信玄の頬に血色がもどってきた、戦国武将としての血潮が滾るのだ。  信玄は蕭然(しょうぜん)とした物寂しい冬の原野を進み、祝田の坂の手前、 根洗(ねあらい)の松と云われる場所で軍勢を止め、魚鱗の陣形で徳川勢を待ち うけた。武田勢は松林に囲まれ、寒風を遮る場所に本陣を定めた。  本陣の横には苔むした石地蔵が祀られている。 「風で躰が冷える、幔幕を巡らせ」    信玄は自分の体調をおもんばかっている。  床几に腰を据え前方に展開する、我が兵の動きを魁偉な眼を和ませ見つめた。  将兵の声、軍馬の嘶き、馬蹄の音が心地よく聞こえてくる。  猛然と軍勢の前後を駆け抜ける伝令の騎馬武者、穂先を天に向け配置に就く 長柄槍隊の偉容、火縄銃を肩にした足軽、それら皆が頼もしく見通せる。  あの場所で徳川勢を蹴散らしてやる。その思いを秘め眺めている。  百足衆の一人、諏訪頼豊が馬蹄の音を響かせ駆けつけて来た。 「敵勢は小豆餅付近に押し出して参りました」    騎馬が興奮し足掻いている。   「うむ」    信玄が大きく肯いた。傍らには馬場美濃守と高坂弾正の両将が控え、 周囲には旗本の今井信昌、真田昌輝等が厳重に守りを固めている。 「美濃、敵の陣形はどのようじゃ」 「物見の報告では右翼は酒井忠次、中央は石川数正、左翼は本多平八郎と 援軍の織田三将との事にございます」  馬場美濃守が臆する事もなく野太い声で報告した。 「いずれも音に聞こえた豪の者じゃ、家康はどうじゃ?」 「家康の本陣は中央に置いておる模様にございます。更に大久保忠世、内藤信成、 鳥居元忠(もとただ)、榊原康正(やすまさ)等が控えておる模様にございます」 「御屋形、敵は全軍で出撃したと思われますな」  高坂弾正が物柔らかな口調で信玄に声を懸けた。 「一万の小勢じゃが、油断は禁物じゃ」 「心得ておりまする」    馬場美濃守が簡潔に応じた。  家康は三方ケ原の入口で十町の距離をたもち、武田勢の動きを見つめている。 「わしの下知まで待つのじゃ」    飽くまでも家康は慎重であった。  彼の目前には三万余の武田軍団が、ひっそりと山の如く横たわり、旗指物が 無数に翻っている。その中に獲物を狙う猛虎が牙を剥いてひそんでいるのだ。  それが判るだけに攻撃の糸口を見え出せないでいる。 「よう粘るわ」    信玄が感心の声を洩らした、たかだか三十一歳の若輩の家康がである。 「既に攻撃態勢は整え申した、一斉に押し出しまするか?」  戦機を感じとっ歴戦の馬場美濃守が訊ねた。  突然に猛烈な寒風が三方ケ原台地を吹き抜け、薄暗い空に浮いた雲が流れ、 真っ赤な夕日が両軍の陣を照らしだした。 「陣形を変える。先鋒は小山田信茂の三千、右翼は美濃、そちが受け持て」 「左翼はいかが計らいまする」   「高坂弾正、そちの勢に任せる」  風が唸り声をあげて吹き抜け、残照が雲間に消えようとしている。 「更に中陣は勝頼と甘利昌忠の騎馬武者といたす、余の合図で進退いたせ」 「これは、面白い合戦となりまするな」    高坂弾正が嬉しそうな笑いをあげた。 「暫くは小山田勢に合戦を任せる、頃合をみて余の合図で右翼、左翼同時に 仕掛けよ」    信玄が厳しい声で命じた。  「拙者と高坂がかき回し、その後に武田騎馬武者が片を付けまするか?」 「その前に小山田信茂に郷人原衆を使えと伝えよ」 「面白うございまするな」  馬場美濃守と高坂弾正が顔を見合わせている。  信玄の言う郷人原衆とは、二百から三百名の投石隊のことである。  この頃の火縄銃の射程距離、殺傷距離は明確な資料が乏しく説明が 困難である。また実戦での弾込めの煩雑は著しく火縄銃の評価を低下させ、 当時の大名は火縄銃の使用に消極的であった。  因みに2005年頃に行われた実験では、口径9mm、火薬量3グラムの 火縄銃は距離50mで厚さ48mmの檜の合板に約36mm食い込み背面に亀裂を 生じしめ、また厚さ1mmの鉄板を貫通した。鉄板を2枚重ねにして2mmに したものについては貫通こそしなかったものの内部に鉄板がめくれ返っており、 足軽の胴丸に命中した時には、深刻な被害を与えるのではないかと推測されて いる。なお、距離30mではいずれの標的も貫通している。   こうした理由で信玄も火縄銃を重要視せず、投石隊を編成していたのだ。  信玄が厳かな声で下知した。 「両人とも部署につけ」   「畏まりました」  両将が草摺りの音を響かせ本陣から去った。法螺貝が炯々と鳴り響いた。 「百足衆」   「はっ」    信玄の声で諏訪頼豊が姿を現した。 「軍勢をゆるやかに北西に移す、小山田勢に後備えを命ずる。祝田の北端まで 移動したら、攻撃態勢を整える。さよう各陣に伝えよ」  百足衆が、本陣から猛烈な勢いで四方に散っていった。 「誰ぞある」    信玄の声に旗本の真田昌輝が本陣に顔をみせた。 「昌輝か、ご苦労じゃが山県三郎兵衛を呼んで参れ」  そうしている間にも、武田軍団はじりじりと陣を移動させている。 「山県昌景にございます」   赤具足の甲冑姿の山県三郎兵衛が精悍な顔を現した。 「そちに特別な任務を与える。すぐに合戦が始まろう、二陣の騎馬武者の攻撃 が終ったら、そちの出番じゃ、家康の首を刎ねるのじゃ」 「はっ。武者とし一期の誉にございまする」   山県三郎兵衛が畏まっている。 「首は冗談じゃが、家康を執拗に追い回せ、浜松城に逃げ帰るまでじゃ」 「機会がござれば、徳川殿の首級頂戴いたしても構えませぬか?」 「それは最善の戦果じゃが、なかなか難しいじゃろう。余り深追いはするな」 「畏まりました」  三方ケ原台地に風が強まってきた、空も薄雲から厚雲に変化している。  そろそろ夕刻が迫っている、徳川勢は移動する武田軍団を追いつつ戦闘 態勢を整えている。陽が落ちれば戦力の差など問題ではない。  思わず家康が兜の眼庇より空を仰ぎ見た、急速に空が鈍色に変化してきた。  家康が待っていた夜の訪れである。  三方ケ原台地に夜の帳が訪れ、家康が前方を見て身震いした。  何時の間にか武田の大軍団が小山のように、家康の目前に接近していた。

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