長編時代小説コーナ

2015/05/20(水)17:45

改定・武田源氏の野望

武田信玄上洛の道。(115)

「信玄の戦略」(113章) (三河、野田城攻略) にほんブログ村 にほんブログ村  三方ケ原合戦の大勝利は、瞬く間に諸国に広まり、石山本願寺の顕如は、 信玄と勝頼に太刀や虎の皮を贈呈し勝利を祝った。  更に顕如は遠江、三河、尾張、美濃の一向門徒衆に檄を発し、岐阜の近郊に 要害を築かせ、信長勢の支配地に騒乱を起こさせ、信長に脅しを掛けたのだ。  さしもの信長も窮地に陥り、近江の軍勢を撤退させる必要に迫られた。  十二月三日、織田勢は突然、軍勢を返し本国に撤退した。  その時の越前の朝倉義景の態度が、反織田勢として不手際であった。  戦略的に見るなら、信長が撤退を行った時を見逃さず、小谷城の浅井長政と 共闘し、織田勢に追い撃ちをかける。  これが兵法の常道であるのに義景はそれをせず、織田勢の撤兵を見送った。  更に信玄の忠告を無視し、大嶽(おおずく)から軍勢を越前へと引いたのだ。  その報告に接した信玄の失望は大きかった。  信玄が義景に大嶽滞陣を進めた訳は、織田勢が撤退する時の反撃を想定した 為であった。凡庸な朝倉義景は信玄の真意を理解出来なかったのだ。  信玄は将軍義昭に再度、朝倉義景に出兵を促すよう書状を送ったが、義景は 出陣が出来る事が叶わなかった。  ただ時期が悪かった、この季節の越前は豪雪に見舞われていたのだ。  折角、信玄が腐心した信長包囲網は、こうして脆くも崩れたのだ。           (妄執の果て)  この頃、信玄は刑部の陣営で人知れずに病魔と闘っていたのだ。  武田の将兵も知らず、勝頼さえも知らない秘事であった。  織田信長も徳川家康も、動かぬ武田軍団を注視していた。  徳川勢は浜松城に籠城し、家康に従属していた豪族等は武田に降り、 単独で攻めかかる戦力を失っていた。  信玄は本陣で愛用の土瓶をかき混ぜ、自分の余命を考え続けている。  恐らく京までは保たない、これが信玄の偽らぬ本心であった。  この刑部でも、何度となく喀血していた。  その度に全身から力が失せた、だが最近は徐々に力が漲ってきた。  病魔が小康状態となったのか、回復に向かったのか信玄もつかめずにいる。 「人は死ぬ直前に一時的に元気を取り戻すと申すがな」    信玄が低く独り言を呟き、土瓶の薬湯を苦く啜っている。  上洛は自分一人の願いではない、父の信虎の宿願でもある。  越後勢と戦った川中島で討死を遂げたと偽った、山本勘助の願いでもある。  無性に勘助に会いたかった。 「奴の事だ、どこぞで余を見守っておろう」    そんな思いがしていた。  二俣城攻略の策は、信虎と勘助の謀略であった事は承知しているが、 あれ以来、一切、連絡が途絶えていた。  信玄が湯呑みを口にはこび、薬湯を飲み干し苦い笑いを頬に刻んだ。  快癒する見込みのないことを承知で、このように薬湯を飲んでいる 自身への、自虐の笑いであった。  部屋は蒸すように暑い、信玄の肺は外気を受けつけぬほど弱っていたのだ。  早う、春になるのじゃ、余は春を待って美濃に進撃いたす。あの悪逆非道な 織田信長を打ち倒し、京の瀬田に武田家二流の御旗を立てる。  戦国大名として武田信玄は、最後の夢を自分の余命に託していたのだ。 「明朝を期して野田城攻略の軍勢を発する」  信玄の下知が下った日は、一月二十二日のことである。  待ちに待った進軍の下知で全軍から、歓声が沸き起こった。  野田城は長篠城の西南に位置し、刑部より六里ほど西に向かった地点にある。  城は豊川右岸の突端にあり、柔ケ淵の絶壁を防壁とし堅固で聞こえていた。  城主は菅沼定盈(さだみつ)である。  彼は初めは今川家に属していたが、永禄四年より徳川家康に仕えてきた。  翌日の二十三日は、風もない快晴の日和となった。信玄は愛馬に白鹿毛に 跨り、軍団の中陣で馬を駆っている。  快晴にも係らず綿入れの頭巾を被り、眼だけを出し熊の羽織りを纏っている。  一時も早く片づけたい。これが信玄の願いで山県昌景の赤備えと勝頼の率いる、 騎馬武者が先鋒隊として先駆けしていた。  二万八千の大軍が刑部を出発し、豊川の河原に集結を終えたのは正午であった。  蟻一匹、逃さぬ堅固な陣形で野田城を包囲した。  菅沼定盈は眼下に展開する、武田軍団の威容を眺め全滅を覚悟した。  城から見下ろせる南の日当たりの良い場所に、人夫たちが手際よく本営らしき 建物を組み立てている。   「あれが武田勢の本陣か?」 「強襲したいが、届くまでに全滅じゃな」   それほど見事で巧緻な陣形を持った武田勢であった。 「籠城じゃ」    幸いにも兵糧は十分にある、二俣城と違い井戸水も豊富にある。  武田勢の攻め口は、城門の急峻な小道が一筋のみ、一年でも保てる。  その内に、徳川勢か織田勢の援軍も駆けつて来るであろう。  城主の菅沼定盈は覚悟を決め込んだ。  こうして対陣が始まったが、武田勢は包囲したたげで攻撃を仕掛けてこない。  家康は織田信長に救援の使者を何度も遣わし、隙をみては出兵するが、 堅固な武田勢の防衛線に阻まれ、虚しく浜松城にもどるのみであった。 そんな時、東美濃の秋山伯耆守信友より朗報が届いた。岩村城に続き、 明智城をも攻略したとの知らせであった。 信長の足元の東美濃に火が点いたのだ。 「信友、やるわ」   信玄は上機嫌でその朗報に接した。 野田城を包囲し半月が過ぎ、籠城する菅沼勢が仰天する出来事が起こった。 五十名ほどの人夫が、城の崖下を掘りはじめたのだ。 「何事じゃ」   「崖を崩す算段とみた」  「馬鹿な、穴を掘って崖を崩す気か」  城内の将兵が笑いを堪えていたが、 人夫達の真意を悟り真っ青となった。  信玄は甲斐から、金掘り人夫を呼び寄せ崖の下を掘りすすめ、野田城の水脈 を断ち切る戦術にでたのだ。これには城主の菅沼定盈も仰天した。  二月五日、とうとう水脈が切れた。籠城の将兵は絶望感にうちひしがれた。  菅沼定盈は城内の甕(かめ)等に、水を貯え十日ほど籠城を続けたが、水の 渇望により、二月十五日に城を開き武田の軍門に降った。  またしても徳川の最重要拠点の野田城も、二俣城同様に水の手を断たれ落城 したのだ。  野田城が墜ち、徳川勢は三河での合戦が不可能となり、武田勢は磐石と成った。  信玄は野田城を山県三郎兵衛に守らせ、自ら軍団を率い野田城の東に位置する、 鳳来寺に軍を進めた。 「御屋形さまは何処に向われるのじゃ」  将兵達は次の目標を岡崎城と思っていたので、全員が不審そうにしている。  鳳来寺は由緒ある山寺で、鳳来寺山の山頂付近に建てられ真言宗の寺院である。  本尊は開山の利修上人の作で、薬師如来が祀られてある。    寺の本堂に至るには千数百段の石段を登らねばならない、途中の参道は鬱蒼と した霊木の杉林に覆われ、大木は緑に苔むし尊厳な雰囲気が漂っている。  武田軍団は山裾や峰々の林のなかに宿舎を建て滞陣した。 「御屋形さまに何が起こったのじゃ」    全将兵が不審を感じていた。   「いや、戦勝祈願と聞いておるぞ」    それぞれが密やかに語り合っている。  信玄は野田城攻略後、ほとんど誰にも姿を見せることがなかった。  寒気で風邪をこじらせ、労咳がいっそう悪化していたが強靭な気力で保って いたのだ。  「余は死なぬ」   何度となく信玄は気力を奮い立たせていた。  馬場美濃守と高坂弾正、警護頭の今井信昌の三名は信玄の病を知っていた。      

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