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長編時代小説コーナ

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伊庭求馬孤影剣

Apr 10, 2008
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カテゴリ:伊庭求馬孤影剣
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 山国というに真っ先に鯖寿司が眼に入った。卵焼き、蒲焼、馬肉鍋、香の物が

ならび、大皿には葡萄、梨、柿などが盛られていた。

 一目で次郎兵衛の好意と知れた。

「お蘭はどうした?」  求馬がお蘭の姿が見えなく訊ねた。

「風呂でさあ、男女に別れた檜風呂ですぜ」

「わしも一風呂浴びて参る」  「ごゆっくり、あっしは飲んで待ってますよ」

 求馬が宿衣に着替え、脇差のみを持って廊下を伝っていると、女中とすれ違っ

た。  「風呂は何処じゃ?」

「廊下を突きあたり右手にございます」  女中が答え先を急ごうとした。

 求馬が、すれ違いざまに女中の腕をねじりあげた。

「何をなされます」  「お駒、何処まで付きまとう」

 女中はお駒の変装であった。  「わたしは軍使ですよ」  「軍使とな」

「本当ですよ、闘牙の三十郎からの言付けを伝えに来ただけです」

「なに、闘牙の三十郎の使いと申すか?」   

「明日の暮れ四つ(午後十時)この旅籠の裏に寺があります、そこの鐘衝堂で待

っておりますよ。確かに伝えましたよ」  お駒が求馬の手から逃れて告げた。

「何人じゃ」  「闘牙の三十郎は、何時でも一人です」

「判った。ところでお駒、猪の吉が恋しいか」 「はい、惚れてしまいましたよ」

 お駒が切れ長の眼を潤ませて求馬を見つめた。

「連れ出したらどうじゃ」  求馬が含み笑いを残し離れていった。

「旦那、間違いなくお出でになりますね」  「間違いなく参る」

 お駒に一言のこし風呂場へと向かった。見るからに立派な風呂場である。

 求馬がゆったりと風呂に浸かっていると、「旦那っ」 隣りからお蘭の声がし

た。  「まだ風呂におったか」

「はいな、旦那に嫌われないように磨いておりますのさ」

「馬鹿め、早くもどって夕餉でも食べよ」  「一緒にもどりましょうよ」

「わしは出る」  ざぶっと湯の音を響かせ求馬が飛び出した。

 三人はご馳走を楽しみ甲府の夜を満喫した。もとより求馬は闘牙の三十郎の

事は一言も口にしなかった、心配させない配慮である。


 求馬の痩身が武蔵屋の脇道を伝っている、闇空には朧月が浮かび薄っすらと

小路を照らしだしている。道が途絶えると寺の門前にたどり着いた。

「闘牙の三十郎か」  独りでに相手の名が口をついて出た。

 異様な構えが脳裡を過ぎった、雪駄の音を響かせ鐘衝堂に着いた。あたりは

静寂につつまれ、樹木の間に闇が覆っている。

 殺気の漲りを感じ、ひたっと求馬が足を止めた。すでに村正の鯉口はきってい

た。  「伊庭求馬か?」 忍び声が微かに流れた。  「闘牙の三十郎か?」

「伊庭、闘う前に訊ねる、ここから江戸に引き返す考えはないか?」

「絵図はどうする」  「わしにとっては無用な物じゃ」

「ひとつ訊ねる、六紋銭は江戸から甲府までに多くの仲間を失った。すでに往年

の影の軍団の力は失せたとわしは感じておる」  求馬が冴えた声を発した。

「伊庭、まさにその通りじゃ、貴様を倒さぬかぎり、我等の仲間は死に絶える。

その為に貴様をここに呼び寄せた」

「わしを倒せるか」  求馬が言下に乾いた声をあげた。

「とうあっても江戸には戻らぬか?」  「影の軍団を抹殺いたす」

 求馬の声と同時に「ざっー」  空気を裂いて飛苦無が痩身をめがけ飛来し

た。求馬が闇をついて左手に疾走し村正が光芒を放った。

「がっ」  刃が縦横に振るわれ飛苦無が地面にことごとく落ちた。

 闇夜にきな臭い匂いと殺気が入り混じっている。

「見事じゃ」  声と同時に忍び装束の男が、松の大木から降り立った。

 鉢金の厚い錏頭巾に見覚えがあった。  「闘牙の三十郎か?」

「伊庭求馬、貴様の命を貰いうける」  声とともに無反りの大刀が闇を割って

求馬の痩身を両断すべく、頭上に襲いかかってきた。

 求馬が雪駄を脱ぎ捨て、村正を口に銜えて後方に躯を反転させて防いだ。

 その度に鋼のような三十郎の体躯が躍り、無反りの大刀が二度、三度と

求馬の痩身に襲いかかったが、すべて虚しく宙を斬り裂く羽目となった。

 とんと求馬が三間の距離をおいて佇んだ時には、村正が左下段へと構えら

れ、ひたっと停止していた。得意の逆飛燕流の構えに入ったのだ。

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Last updated  Apr 10, 2008 11:43:34 AM
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Apr 9, 2008
カテゴリ:伊庭求馬孤影剣
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「伊庭さまにございますか、遠路ご苦労さまにございました」

 男は玄関先に座り丁寧な挨拶で、三人を出迎えた。

「そなたが主人殿かの?」  求馬が乾いた相貌をみせ尋ねた。

「わたしは番頭の伊兵衛と申します、主人が奥でお待ちいたしております」

「猪の吉、お蘭を頼む。わしは用を終えてから部屋に行く」

 猪の吉に長合羽を手渡し、求馬は着流しとなって村正を手に奥にむかった。

流石に老舗の旅籠だけあり、廊下は磨かれ庭には大きな池が作られ、悠々と

緋鯉が泳いでいる。

「この部屋にございます」  伊兵衛が襖のまえで膝をつき声をかけた。

「お入りいただけ」  部屋から野太い声がした。

「どうぞ」 伊兵衛が襖を開け入るよう促した。

 うっそりと求馬は部屋の入り口に佇み、乾いた視線をなげた。

 部屋には逞しい体躯の五十年配の男が待ち受けていた。

「この屋の主人の武蔵屋の次郎兵衛と申します」

 贅沢な着物の肩が盛り上がっている。  「お座り下さい」

 求馬は促され、村正を右手に持ち替えて座布団に腰を据えた。

「失礼ながら、嘉納さまの書状を拝見させていただけますかな」

 野太い声に貫禄と恐れをしらぬ気迫がこもっている。

 求馬が懐中から主水の書状を無言の裡に差し出した。

「拝見いたしまする」  素早く眼を通し、丁寧にたたみ直し返した。

「嘉納殿の手紙がみたい」  無言で次郎兵衛が分厚い封書を差し出した。

求馬は無造作に封書をあけ、書状に眼を落とした。紛れもなく主水の筆跡で

ある。そのまま読み下し書状を己の懐中にねじこんだ。

 その行為は無言の裡で行われた。  「委細は承知いたした」

「まずは茶なぞ召しませ」  次郎兵衛が自ら茶をたて勧めた。

「伊庭さま、些か情勢が変わりました」  求馬を茶を啜り無言でいる。

「早飛脚の便りで判明いたしましたが、阿部正弘さまが何者とも知れぬ刺客に

襲われたそうにございます」  瞬間、求馬の双眸が鋭くなった。

「その者共は錏頭巾の忍び者かな?」

「左様に、幸いにも嘉納さまの手の者が駆けつけ大事には至らなかった由」

「何名、斃しました」 「八名とのこと」  次郎兵衛が簡潔に応じた。

「水野忠邦、苛立っておる、曲者は水野の操る影の軍団と異名をとる信州上田

の六紋銭と名乗る忍び集団」  求馬の言葉に次郎兵衛が興味を示した。

「ほう、嘉納さまは何も知らせては参られませぬ。奴等は信州の土着の者に

ございまするか」  「左様、それがしが話すと思われたのでしょうな」

「それでも伊庭さまは、このまま上諏訪に行かれますか?」

 求馬がはじめて破顔し、次郎兵衛に己の考えを述べた。

「道中のはじめは、しっこいほどの襲撃をみせたが、最近はとんと止んでおる。

その隙に江戸で阿部殿を狙ったが失敗いたした。察するに奴等の損害は甚大

なものと推測いたす」

「奴等が、貴方さまを倒さぬ限り、水野の復権は難しくなりまするか?」

「左様、それがしの持つ絵図を奪わぬ限り、水野は老中首座から失脚いたす」

「貴方さまへの風当たりが強まりますな」

「死生天にあり、これがそれがしの生きざま、ご案じあるな」

 次郎兵衛が求馬の顔を凝視した、この時代に生死を超越した求馬の覚悟の

凄さに驚嘆したのだ。  「これで失礼いたすが、無心がござる」

「何なりと申し付けて下され」

「この旅の決着は信州の台ケ原か教来石かと勘考いたす。我等からの連絡が

途絶えたら屍を野に晒したと思し召し、次なる策をお考えあるよう、嘉納殿に

お知らせ下され」  「判りました」  求馬が部屋の入り口で振り向いた。

「二、三日ほど厄介になります、それまでに嘉納殿への便りを認めます。江戸に

飛脚便で送っていただきたい」  「畏まりました」

「次郎兵衛殿、なかなかの腕とみました」  「新影流を少々」

 次郎兵衛の声を背に受け、求馬は廊下を伝って去った。

「驚いたものじゃ、あのような遣い手が幕府に居ったのか」

 武蔵屋次郎兵衛が驚嘆の面持ちで消え去る足音を耳にしていた。

 彼は、甲府勤番の行状を探る隠れ目付であった。代々、世襲とし市井の宿の

主人として、勤番者の動静を大目付に報告する事が任務であった。

「旦那、主人との話は終りやしたか?」

 求馬が部屋に現われると、酒でご機嫌な猪の吉が訊ねた。

「終った」  部屋には豪勢な食事が用意されていた、これは次郎兵衛の心遣い

と求馬は感じた。  「猪の吉、二、三日逗留いたす」

「そいつは嬉しいね、旦那、六紋銭を待つ積りですかえ」

 猪の吉の問いを無視し、求馬は膳部の前に腰を下ろした。

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Last updated  Apr 9, 2008 01:25:14 PM
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Apr 8, 2008
カテゴリ:伊庭求馬孤影剣
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「いいじゃないか、お駒さんは別嬪だよ」  「師匠、本気で怒りますぜ」

「肌を許しあった仲でしょうが」  お蘭が笑いを堪えている。

(畜生、二人でおいらを虚仮(こけ)にする。併し、お駒のアマ本気で惚れたの

かな)猪の吉はお駒の痴態を思い浮かべた。正直なところ女の躯があんなにも

気持ちがいいとは思ってもみなかったのだ。

「猪さん、やにさがった顔をしているよ。もっとしゃっきり為さいな」

「なんとでも云っておくんなせえ、婆さん酒をもう一杯くんな」

「お客さん、雨があがったようじょ」 酒を置いた老婆の声で初めて気づいた。

見る間に黒雲が流れ去り、青空が広がっている。

「お客さんは運がいいね、富士が見られるなんてね」

 真っ青な空に雲を突き破り、富士山の威容が見事に見渡せる。

「裏富士じゃな」  求馬もはじめて見る光景であった。

「甲斐の富士は日本一と申しますだ」  茶屋の婆さんが自慢した。

「甲斐(嗅い)で見るより駿河(するが)いいて昔からの言い伝えだよ」

 猪の吉が駄洒落を云い、すかさずお蘭の反撃を喰らった。

「猪さん、あんたは助平の固まりだね」

 三人は茶店を後にし富士山を背にして西に進み石和宿に着いた。

 ここで甲州道中は青梅街道と合流する、ここから甲府までは一宿の距離であ

る。この甲府は戦国時代には武田家三代の居館が、置かれた甲斐の中心地で

あった。また武蔵の秩父と結ぶ秩父往還、甲斐と駿河を結ぶ身延街道が交差

する交通の要衝でもあった。

 この地に相応しい城として築城された城が甲府城で、別名を無鶴城とも云わ

れていた。享保九年(一七二四年)甲府藩主であった柳沢吉保が大和郡山へと

転封されたのち、甲斐は幕府の直轄地となり、再び藩主が置かれる事はなかっ

た。幕府は甲府城の守衛として甲府勤番支配をおいた、定員二名、従五位下諸

太夫、役高三千石、ほかに手当てが千石支給され、与力十騎、同心五十名を率

いた。さらに甲府勤番二百名を小普請組から任命した。

 こうして甲州道中を勤番士が往復するようになったのだ。だが最近は行跡

不良な幕臣が処罰として甲府勤番を命じられるようになり、これを甲府勝手

小普請と言われ。幕臣からは山流しと呼ばれ恐れられていた。

 甲府での宿場町は、甲府城の西の一帯にあたる甲府柳町にあった。

 交通の要と甲斐の中心地に相応しい宿場町として旅籠の数も多く、淫売宿や

岡場所の類も増えていた。まさに天領の威光を背景とした宿場町で夜間の治安

は年々と悪くなっていた。

 因みに天保時代の幕府の直轄地である天領は、全国で四十二箇所にまたが

り、総石高は三百十余万石であった。

 三人が甲府柳町の木戸をくぐったのは暮れ六つ頃であった。雨と途中での

道草で遅くなった。

「秋祭りですよ」  旅籠町に入るや、お蘭が疲れを忘れた声をあげた。

 町の広場には、見世物小屋が並び人々が群れていた。

 露天の食物屋も店開きをしている、そうした喧騒の中を三人は歩んでいた。

「旦那、何処に泊まりやす」  猪の吉が旅籠を物色しながら訊ねた。

「町の奥に武蔵屋という旅籠がある筈じゃ」

「武蔵屋ですかえ」  猪の吉とお蘭が顔を見合わせた。

「嘉納主水殿と打ち合わせの旅籠じゃ」

「あっしが探ってめえりやす」  猪の吉が雑踏の中を駆け去った。

 その様子を露天商のよしずの翳から覗いている男がいた。

「とうとう現れたか」  頬被りした男が低く独語し、頬被りを取った。

 精悍な顔が現れた、男は六紋銭の浅間の鶴吉であった。この宿場で求馬

一行の到着を待ち受けていたのだ。

「旦那、見つけやした。大きな旅籠ですよ」  猪の吉がもどって来た。

 求馬は案内されるまま雑踏に流され、痛いほどの視線を感じとっていた。

「ここですよ」  三人が足を止めた。なるほど豪華な旅籠である。

 玄関から客引き女が飛び出してきた。 「ご三人さま、いかがでしょう」

「伊庭が着いたと主人殿に取り次いではくれぬか」  「主人にございますか」

「早くいたせ」  求馬がうっそりと玄関に痩躯を入れた。

「ご三人さまだよ」  手代が大声で出迎えに出てきた。

 三人が足を濯いでいると中年の男が姿を見せた。

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Last updated  Apr 9, 2008 12:54:50 PM
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Apr 7, 2008
カテゴリ:伊庭求馬孤影剣
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「猪の吉、今の様子から察し、六紋銭は暫くは襲ってこぬな」

「何故にございやす」  猪の吉が求馬の言葉に不審顔をした。

「雇われ浪人に襲わせるとは面妖(めんよう)じゃ。考えられることは奴等の

損害が思いのほかに大きいのかも知れぬな」

 求馬が双眸を光らせ、峠の下り道を見下ろしている。

「成程、ずいぶんと始末しやしたからね」  納得顔の猪の吉である。

「さて雲行きが怪しくなってきた、先を急ごう」

 求馬の言葉でお蘭が、はっとして上空を仰ぎ見た。雲が凄い勢いで流れて

いる。三人は懸命に山道を下った。 

「お蘭、見てみよ」  求馬が途中で足を止め指差した。

「まあー」  お蘭が喜びの声をあげた、木立の間から集落が見えた。

「あれが駒飼宿ですかえ」  猪の吉も眼を細めて見入った。

「笹子峠もすぐに終る、ゆっくりと下ろう」

 お蘭が安堵の色を浮かべ、竹筒の水を美味しそうに飲んでいる。

「駒飼宿には七つ(午後四時)には着けよう。今日はそこで終りじゃ」

「へい、そういたしやすか」  猪の吉も大賛成のようだ。

「この峠が終えると盆地に入る、甲斐の西にあたる国中だ」

「甲斐は盆地の国と云いやすね、いよいよ甲斐に着きやすか」

 猪の吉が感慨深い顔をしている。

「猪さん、駒飼宿とは変な名前ですねえ」  またもやお蘭が揶揄った。

「師匠、もう止しておくんなせえよ」  猪の吉が閉口している。

 二人が駄洒落を喋りあい、求馬は黙々として歩んでいた。

 一行はその日、駒飼宿で一泊し笹子峠の難路を走破した疲れを癒し、

翌日、甲府に向かって旅立った。

 生憎とこの日は雨となった。三人は雨にうたれ鶴瀬宿に辿り着いた。

 この宿場には小さな関所が設けられていた。

 求馬は長合羽をまとい、関所の役人に三人の道中手形をみせ、ついでに

大目付の嘉納主水の書状を手渡した。

 この関所は甲府から出張った甲府勤番役がつとめている関所である。

 大目付、直々の書状を改めた役人は丁寧に三人をぐうした。

「お役目ご苦労に存ずる」と低頭し木戸を通してくれた。彼等からみた三人の

取り合わせは、大目付直々の密命をおびた一行と映ったようだ。

「流石は大目付の書状ですな、お調べもなく通してくれやしたぜ」

 改めで猪の吉が大目付の権威に驚いていた。

「まあ、あれは葡萄の木ですね」  お蘭が感嘆の声をあげた。

 街道の両側は葡萄の木で埋められていた。  「ここが勝沼じゃ」

「勝沼は葡萄の産地ですぜ、師匠は知らなかったのかえ」

 猪の吉が昨日の借りを返している。  「なにさ、あたしだって知ってますよ」

 お蘭が負けずと言い張った。勝沼は葡萄の名産地として知られ、江戸の神田

市場へも出荷されていたのだ。

「あんなにふさふさと実るなんて初めて見ましたよ」

「茶店がある、一休みしょう」  「葡萄を頂きましょうよ」

 お蘭が顔を上気させ、まるで小娘のようにはしゃいでいる。

 三人は茶店の奥に足を入れた。茶店には老婆が一人で番をしていた。

「お客さんは旅のお人かの」  「江戸からだよ」

「さあ、合羽を脱いでそこに掛けなされ」

 三人は雨に濡れた合羽を脱いで、老婆の指した場所にかけた。

「なにを召されるかの」  「婆さん、葡萄に冷や酒を二杯頼まあ」

「こんなに大きな葡萄は初めて・・・・美味しくて甘いわ」

 お蘭が夢中で葡萄を食べている、求馬と猪の吉は冷や酒をあおっていた。

「旦那、ここからは栗原、石和と通り甲府ですな」

「ようやく旅の半分じゃな」  求馬が乾いた声で応じた。

 街道を篭を背負った百姓女が足早に西に向かっている、茶店を通りすぎ足を

止め小汚い笠を上向かせた。

「あのアマ} 猪の吉が眼を剥いて唸った。女は鶯のお駒であった。彼女は、

にっと白い歯をみせた、お蘭も吃驚して葡萄を持ったまま見つめている。

「ご一行さん、先に行きますよ。猪さん、わたしはあんたにぞっこんさ、今度、

逢ったら可愛がっておくんなさいよ」

「あん畜生め」  猪の吉が飛び出そうとした。

「やめんか」  求馬が珍しく頬を崩して止めにはいった。

「旦那、なんで止めなさる。あのアマは六紋銭ですぜ」

「どうやら、お主に惚れたようじゃな」  求馬の言葉にお蘭が吹きだした。

「笑いごとではありやせんぜ、六紋銭に知れたら血の雨だ」

「甲府に着けば奴等に知れる、お駒を止めようと関係はない。それにしてもお駒

は本当に真剣かも知れぬな」

 お蘭が、たまらず笑い声をあげた。  「師匠も師匠だ」

 猪の吉が、恨めしそうな顔をして求馬とお蘭を見つめた。

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Last updated  Apr 7, 2008 11:03:13 AM
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Apr 5, 2008
カテゴリ:伊庭求馬孤影剣
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 三人は求馬を先頭にして頂上から山道を下りはじめた。

 お蘭にとって下りは、登りよりもきつい道中となった。足元が滑るので、

小さな潅木の枝や蔦を握って下りねばならなかった。

 頂上から少し下りた所に平坦な箇所があり、赤い鳥居が祀られていた。

 天神祠と称され、奥に小さな石塔が苔むしていた。求馬が歩みを止めた。

 森閑とした静寂の中で名も知らぬ鳥がさえずっている。

 猪の吉が、すっとお蘭の傍らに寄り眼が鋭くなっている。

「祠の裏に隠れずに出て参れ」  求馬が乾いた声で誰何(すいか)した。

「流石は元公儀隠密の手練者だけはありますね」と、女の声がした。

「あれはお駒だ、くそっ、あのアマ」  猪の吉の顔色が変わった。

「猪さん、女のお守りですか。わたしは恋焦がれて探し廻りましたよ」

「お駒、伊庭の旦那に殺されるなよ。引導はおいらが渡してやるから」

「楽しみですねえ、また可愛がってあげますよ」

 お駒の艶っぽい声に挑発され、「畜生」猪の吉が苦い声を洩らした。

「先生方、お願いしますよ」  お駒の声で祠の裏から三人の浪人が姿を

現した、いずれも荒んだ容貌ながら剣気を秘めた凄腕と知れる。

 求馬が振り分け荷物をおろし、うっそりと佇み冴えた声をかけた。

「六紋銭の忍び者はどういたした」  「これは、わたしの計画ですよ」

「笹子峠に鶯のお駒か、洒落にもならぬな」

 求馬の声で三人の浪人が同時に抜刀した。求馬は半眼となり二尺四寸の

村正を抜き放ち左下段の構えとなった。彼の得意技である秘剣逆飛燕流の

構えである。瞬間、左手の浪人が仕掛けようと動いた。

 求馬がそれに合わせ躯を移動させた、辺りに壮絶な空気が漂った。

 右手の浪人が上段に構えを移し、一気に求馬を袈裟斬りとすべく猛然と

踏み込み、鋭い一撃をみまってきた。

 半歩、求馬の痩身が左にひらき村正が跳ね上がった、それは躱す暇もない

凄まじい反撃であった。白い光芒が浪人の左脇腹から右首筋に抜け、血潮と

ともに痩身が風を巻いて中央の浪人に襲いかかった。

 村正を跳ね飛ばそうした浪人の刃と村正が交差し、紙一重の差で村正が

対手の頭蓋を真っ二つに両断した。清冽な山の中に血の臭いが漂い、血飛沫

をあげ二人の浪人が、崖下に転落していった。

 残りの一人が正眼に構えなおした、初めてみる早業を求馬が披瀝したのだ。

「ぴゆっー」と血糊を素振いて求馬が対手の正面に構えを移した。

 一人残った男は大兵の浪人で、どっしりとした正眼の構えでいる。

 求馬は対手の仕掛けを看破した、突きでくるとみたのだ。剣法では突きの

一手がもっとも攻撃力がある。全ての剣法で突きほど利のある業はない、しか

し、突き損じれば、たちまち攻守転じて不利となるは言を待たない。

 長い膠着状態が続いている、お蘭が顔色を無くし見つめている。

 焦れた対手が、じりっと正眼で前進をはじめた。

「だっー」と声と同時に電光の突きが正眼の切っ先から生まれ、求馬の胸元に

伸びてきた。求馬は躯をひらきながら、片手殴りで相手の浪人の右胴を水平

に薙いだ。浪人の大刀が求馬の肩先を掠め、躯が停止した。

 暫く二人はもつれるような体勢で制止した。  「旦那っー」

 お蘭が悲鳴にちかい声をあげた、それを合図のように浪人の躯が地響きを

あげて転がった。求馬が懐紙で血糊を拭い、村正が鞘に納まる音がした。

「お駒とやら、そちの得意技はなんじゃ」  「畜生」

 切れ長の眸を光らせ妖艶なお駒が無念の形相をしている。

「逃げてみよ、必ず仕留める」  求馬が乾いた声で挑発した。

 お駒がじりっと腰を低め後退している。

「待っておくんなせえ、お駒はあっしが始末しやす。今日のところは見逃して

おくんなせえ」  猪の吉が必死で声を張り上げた。

「お駒、命冥加よな、そちに猪の吉が惚れたようじゃ」

「旦那、それはねえでしよ」 猪の吉が情けなそうにしている。

「お駒、去れ」  求馬の一喝でお駒が素早く峠を下って行った。

「猪さん、お駒さんには甘いねえ」

 お蘭に揶揄われ、猪の吉が顔を赤くした。

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Last updated  Apr 5, 2008 11:18:52 AM
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Apr 4, 2008
カテゴリ:伊庭求馬孤影剣
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      (十一章)

 翌日は曇天の朝であった。三人は厳重な身繕いを終え旅籠の玄関で草鞋を

履いていた。  「お客さま、無事に峠を越えてくだされ」

 番頭が見送りに出てきた。  「雨はどうじゃな?」

「今日一日は保つと思いますだ」  「そうか、世話になった」

 求馬が袴をはいて軒下を踏み出した。  「昨夜の鍋は美味かったぜ」

 猪の吉が道中合羽を身につつみ、番頭に言葉をかけ表に出た。

「有難うございましただ」  番頭の声を背中に聞き、道行き衣を羽織った

お蘭が、杖を手にし赤い蹴出しをみせ二人の後を追って行った。

「番頭さん、あの女(ひと)に惚れただべえ」

 小女が揶揄い番頭が赤くなった。  「雨が降らねば良いがの」

 番頭が小首をかたむけ奥に去った。

 鬱蒼と樹木が繁った山並の上空には、重苦しい雲がかさなり天候の荒れ

る様相を見せている。  「旦那、大丈夫でしょうな」

「番頭の言葉を信ずるだけじゃ」  「看板がありやすよ」

 猪の吉が行くてを指差した。狭い街道には、「此処より笹子峠」と書かれ

た古い標識があった。標高三千三百余尺の笹子峠は江戸日本橋から、下諏訪

に至るなかで最大の難所として知られていた。

 この峠を越えると甲斐の国となる。道はゆるやかな勾配で登り坂となってきた。

 樹木が街道を覆え隠し、時々、笹子川の流れが見える。

 一町ほど進むと樹齢何千年と思われる杉の大木に行き着いた。

「これが有名な、矢立の杉じゃ」  「大きな杉ですな、内部は空洞ですぜ」

 猪の吉が感心の面持ちで見つめ、お蘭も足を止めて眺めている。

「故事じゃが、合戦にゆく武者がこの峠を越える時、矢をたて戦勝を祈願した

と云われておる」  求馬が説明し古木の梢を見あげている。

「そんなに古くから使われた峠ですかえ」  猪の吉が周囲を眺めた。

 この先からは街道と言うよりは立派な山道であった。

「驚いたね、山歩きだよ」

「そうじゃ、黒野田宿から頂上まで一里十五町、下りは二十一町と云われる。

頂きまでは一刻半はかかろう、足場も悪くなる気をぬくな」

「はいな」  渓谷より吹き上がってくる風は冷たくお蘭が頬を赤くしている。

 求馬を先頭に黙々と峠を登った。時々、崖崩れなどで道が途絶え迂回しなが

らの行程であった。  「お蘭、大丈夫か?」  「はいな」

 気丈に答えお蘭が杖をついて従っていた。

 途中で猪の吉が足を止め何事かしている。 「猪の吉、何をしておる」

「へい、六紋銭に備えて飛礫の用意ですよ」  流石に歴戦の猛者である。

「襲いくるなら頂上じゃ」  

「そうですな、こんな小道では身動きがとれやせんな」

「猪の吉、何刻じゃ」  「まだ五つ半(九時)頃と思われやすな」

「そうか、平坦な場所で少し休息しよう」

 お蘭には、もう一刻ほども進んだと感じられたが、まだ四半刻(三十分)ほど

しか経ってない事を知らされた。三人は道の傍らの平坦な場所で休んだ。

 求馬と猪の吉が煙草を燻らしている、お蘭は竹筒の水で軽く咽喉を潤した。

「笹子峠の由来を知っておるか?」  求馬がお蘭に声をかけた。

「あたしには無理ですよ」 お蘭が額の汗を拭いながら答えた。

「この峠は鶯の名所で知られておる。「笹子」とは鶯の幼鳥を云うそうじゃ。

満足に鳴けない頃の鶯の名じゃ」  珍しく求馬がさかんに言葉をかける、

お蘭を勇気づけるためであった。一行は悪戦苦闘してようやく峠の頂に着いた

頃は正午を迎えていた。小さな切り通しのような頂上であった。

「ここが笹子峠の頂上ですか?」  「そうじゃ、よく頑張ったの」

「何にもねえ頂上だね、ここで腹ごしらえでもしやすか」

 猪の吉が、日当たりのよい場所を選んでお蘭を休ませた。江戸育ちのお蘭の

足では、番頭の言葉どおりには進めない。しかし、ここからは下りにかかる、

無理をする必要もなかった。

 求馬が握飯を口にしながら五感をすませているが、なにも不審な気配はない。

「お蘭、草鞋を脱いで足の裏を揉むことじゃ、楽になる」

「はいな」  握飯を食べ終わったお蘭が草鞋を脱いでいる。

「ここから下りになる、峠の先は駒飼宿じゃ。その先には関所がある鶴瀬宿じ

ゃが、どちらに泊まるにしても明日には甲府に着く」

「甲府で何か起こりやすな、あっしにはそんな予感がしゃすよ」

 猪の吉が思案顔で求馬を見つめた。  

「まずは無事に峠を下ることじゃ」

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Last updated  Apr 6, 2008 01:46:12 PM
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Apr 3, 2008
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 求馬がうっそりと座敷に入り、床の間に佩刀の村正を立てかけた。

「すぐにお茶をお持ちいたしますだ」  番頭が誰に言うでもなくに語りかけた。

「冷酒を頼みた、・・・番頭、尋ねたいことがある」

「はい、何でございますだ」  番頭が恐るおそる求馬をみつめた。

「明日、笹子峠を越えたいが天候はどうじゃ」

「雲の様子では大丈夫でございますだが、少しは雨に降られましょうな。

余りひどいようでしたら、遠慮のうお帰り下せい」

 云い終えて番頭が足音を忍ばせ、戻っていった。

 暫くして小女が盆に茶と大徳利に湯呑みを載せて現れた。

「お風呂はこの突き当たりにございますだ。何時でも入れます」

「温泉ですか」  すかさずお蘭が訊ねた。

「温泉だが自慢にございまいだ」  小女が盆を置いて座敷を去った。

「お蘭、すまぬが酒をくれ」  「はいな」  お蘭が湯呑みに注ぎ分け

求馬と猪の吉の前に差し出した。  「こいつは済みません」

 求馬と猪の吉が咽喉を鳴らして飲干している。

「美味いねえ、こうして飲むのが一番だ」  「あたしも頂きますよ」

「お蘭、飲んだら旅の汚れを落として参れ」  「はいな」

 三人が酒で道中の疲れを癒しながら、窓の景色を眺めている。

「旦那、あそこが笹子峠にございやすな」  猪の吉が指さした。

 甲州道中随一の難所として知られる、標高一0九六メートルの笹子峠が

遠望できる。お蘭がみつめ息を飲み込んだ。

「お蘭、心配は無用じゃ、もし天候が荒れたらここに引き返す」

「ご免くだされ、夕餉は何刻頃が宜しゅうございますだ」

 番頭が神妙な顔つきをみせ訊ねたが、求馬が無視し逆に問い返した。

「女連れで笹子峠を越えるに何刻ほどかかる?」

「そうでございますな、順調ならば二刻半には越えましょう」

「そうか、ならばゆっくりと食事が摂りたい。六つ頃に用意いたせ、今晩の

ご馳走はなんじゃな?」

「こんな山奥にございますだ、麦飯にとろろ汁、当旅籠の自慢の鍋物に香の物

にございますだ」  「鍋の具はなんじゃな」

「はい、猪の肉に大根、里芋、ネギ、ゴボウなどで味噌じたでにございますだ」

「猪の肉か、美味そうじゃな」

「はい、精がつきますだ」  番頭が満足げにもどっていった。

「あたしは気味が悪いよ」  お蘭が猪の肉と聞いて顔をしかめた。

「まず、食ってから文句を云いなせいよ」  猪の吉がけしかけている。

「猪さんも食べたことがあるのかえ」

「初めてでさあ、猪の吉が猪の肉を食うなんて洒落にもなりやせんよ」

「それでは風呂にでも行くか」  求馬が立ち上がった。

「万一の用心もありやす、あっしは後で入らせて頂きやす」

「悪いの、一風呂浴びてまいる。お蘭、行くぞ」  「でも・・・・」

「いいて事よ、師匠も汚れを落としてきなせえ」

 猪の吉が湯呑みに酒を注ぎ、「あっしはこれだ」とにっと笑いを浮かべた。

「じゃあ、悪いが頼みますね」  お蘭がいそいそと求馬の手拭も持って風呂場

へと向かった。明日は敵地に向かう勝負の日だ、たまには旦那と一緒に入んな

せえ、万一てな事もある、猪の吉の心遣いであった。

「まあ、素敵」  お蘭が露天風呂ではしゃいでいる。岩を巧に配した露天風呂

は、自慢したとおり見事な景色を見せてくれる。

 求馬も目前に広がる雄大な光景に見蕩れている。お蘭が恥じらいもなく全裸

で旅の汚れを落としている。白練りの肌に温泉の水滴が付き、夕陽を浴びて

きらきらと輝いている。柔らかな肩の曲線、乳房からふくよかな下腹部への

曲線が女盛りを感じさせる。 「旦那、お背中を流しましょうか」 「頼む」

 求馬が背中を向け、お蘭が丁寧に垢をこすりとり、「ほっ」と切なげな吐息を

吐いて求馬の背中に頬ずりをした。抱いて欲しいと心の底で願っていた。

「我慢いたせ」  求馬の声に、「はい」と小さく答え温泉に浸かった。

 自分の秘所が潤っている事が悲しかった、女体の不可思議さを知らされた

お蘭であった。  「旦那、今度はきっと抱いてくださいな」

 求馬は無言でお蘭と並んで温泉に浸かり、乾いた横顔を見せていた。

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Last updated  Apr 3, 2008 12:10:17 PM
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Apr 2, 2008
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 翌日の早朝、明け六つ(午前六時)三人は旅籠を出た。朝靄が流れ、

名の知らぬ小鳥のさえずりが一帯をおおっている。

 猪の吉を先頭に、お蘭、求馬とつづいた。小道を進み大月橋を渡ると街道に

出る、ここから下花咲、上花咲の二宿を通過し下初狩、中初狩、白野の三宿

を通り、阿弥陀仏海道から目的の黒野田宿に向かう強行軍である。

 甲州道中は国中に向かっていた。街道は旅人の姿が時折、見られる程度で

閑散としている。荷物を運ぶ大八車の姿も見受けられない。

「旦那、やけに静かですな」 猪の吉が鋭い眼差しで辺りを眺め声をかけた。

「笹子峠のせいじゃ、あの峠で甲州道中は寸断された情況だ。物資の流れが

途切れるのじゃ」  「成程ね」  求馬の言葉に猪の吉が応じた。

 街道の小藪から小さな犬のような獣が横切った。

「あれはなんですか?」  お蘭が興味をしめした。 

「狐だよ」  「へいー」  お蘭が熊笹の中を覗きみた。

「噛みつかれやすよ」  猪の吉の脅しでお蘭があわてて街道に戻った。

「旦那、茶店がありやす」  「少し休んでいこう」

 三人は粗末な茶店の腰掛で休んだ、茶店には腰の曲がった老人が一人で

店番をしていた。  「爺さん、地酒はないかえ」

 早速、猪の吉が訊ねた。  「濁酒(どぶろく)ならありますだ」

「三杯くんな」  猪の吉の注文を聞きながら、お蘭が周囲を眺めている。

 街道は徐々に道幅が狭くなっている。どんぐりのなる楢や山欅、榎、桜、

などの樹木が枝を伸ばし、街道を覆いつくしている。

「なんだか恐いような道ですね」  お蘭が気味悪そうにしている。

「お待ちどうさんで」  老人が欠けた飯茶碗を盆に乗せて運んできた。

 口にしたお蘭が悲鳴をあげた。  「これは酢じゃないか」

「今年は失敗での」  老人が、ほっほっと嬉しそうな笑い声をあげた。

 求馬は平然とした顔で飲んでいる。  

「旦那、これが酒ですかえ」  猪の吉がぶつぶつ云いながら啜っている。

「あたしは駄目ですよ、お茶をおくれな」  お蘭が音をあげた。

「爺さん、赤鞘の大刀を差した足の悪い侍が通らなかったかえ」

 猪の吉が村松三太夫の消息を探っている。

「昨日、笹子峠を越えるといって通っただ」  猪の吉の眼の色が変わった。

「旦那っ」  「心配はいらぬ」  求馬がぼそりと呟き茶碗を空けた。

「爺さん、黒野田宿はあとどれくらいだね?」

「そうじやのう、一刻と四半刻(二時間半)くらいかの」

 茶店をあとにして三人は街道を進んだ。大月から桂川が流れを変え水音が

しない、鬱蒼とした山並の道をひたすら歩んだ。

「驚いたねえー、これが五街道のひとつとはね」  猪の吉がすっとんきょうな

声をあげた。ようやく阿弥陀仏海道を抜けたようだ。

「師匠、あと十二町(約一.三キロ)くらいですよ」

「有難う、気張らなきゃあね」  お蘭の足取りが軽くなった。

 ようやく宿場の入口に辿りついた、ひなびた宿場である。

「まったく人気がねえや、これが黒野田宿かえ」

「白野、阿弥陀仏海道と黒野田宿の三宿で一宿駅を担っておるのじゃ」

 求馬が、うっそりと宿場に沿った街道を進んでいる。どれも似たような茅葺

屋根の小汚い旅籠が並んでいる。求馬が一軒の旅籠の前で足を止めた。

「旦那、この宿ですかえ」  猪の吉が玄関に入った。

「誰も居ねえや、誰が居るかえ」  大声を張り上げた。

「へい」  声がして奥から薄汚れた顔の小女が現れた。

「客だよ、三人だ」  「ちよっくら待ってくんなせいな」

 小女が足濯ぎの桶を運んできた。  「客はいるのかえ」

「おまえさん方だけだ」 「驚いたね、笹子峠を越える最後の旅籠と言うのに」

 猪の吉が呆れ顔をしている、奥から中年の男が姿をみせた。

「これはこれは、ようこそ」  「おめえさんは?」

「番頭にごぜいやす」 「一晩、厄介になるぜ」  「有難うごぜいますだ」

 建てつけの悪い廊下を案内され、黴臭い座敷に通された。

「部屋はこれだけかえ、もう少しましな部屋はねえのかえ」

 猪の吉が一朱金(十六枚で一両)を差し出した。

「こがいな大金では、つり銭がございませんだ」

「一番、上等な部屋にかえてくんな、風呂はあるだろうな」

「へい、露天風呂がごぜいやすだ」  番頭が次ぎの座敷に案内した。

「ここなら上等だ、続き部屋も頼むよ」  「黴臭い宿だねえ」

 お蘭の姿をみた番頭がびっくりしている。

「番頭さんかえ、女を見たことがないのかえ」

 お蘭の揶揄いで番頭が顔を赤らめた。

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Last updated  Apr 2, 2008 11:29:43 AM
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Apr 1, 2008
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 傷口から流れ落ちる血が橋の上を濡らしている。求馬が村正を握り痩身を

ゆっくりと三太夫の間合いの中に入れて来た。

 それを見た三太夫の垂れ下がった目蓋の奥に恐怖の色が浮かんだ。

 正眼に構えた大刀の切っ先を求馬に向け、じりっと三太夫が後退した。

「この勝負はあずける、いずれ借りは返すぜ」

 濁った声をかけるや、踵(きびす)を廻し脱兎の勢いで駆けだした。

 猪の吉の手から、再び飛礫が飛んだ、躱す間もなく右の太腿を直撃され

転等したが、素早く起き上がり足をひきずって逃走に移った。

「やい、飛礫野郎、今度会ったら命をもらう、おいらを甘くみるなよ」

 捨て台詞を残し街道の旅人を驚かしながら逃げ去った。

「旦那っ、大丈夫ですか」  お蘭が金切り声で駆けよった。

「騒ぐな、大事はない」  求馬が乾いた双眸で街道の彼方に消えてゆく

村松三太夫の姿を見つめていた。

「旦那、一筋縄ではゆかねえ男ですな」  「猪の吉、助かった」

「いらぬお節介をいたしやした」 猪の吉が興奮した声で照れている。

「うるさい男が一人増えたな」  ようやく求馬が抜き身を鞘に納めた。

 緊張していたお蘭に、谷底の桂川の清流の音がもどってきた、緊張のあまり

猿橋の景観を忘れ去っていたのだ。

「さて大月宿に向かうか」  求馬が柳行李を担いだ。

 大月宿は小盆地のなかにある。ここから郡内往還道が桂川に沿って分れ、

この往還道を利用し富士講の人々は、富士登山口の吉田へと向かうのである。

 またこの一帯は戦国時代、小山田氏の所領として続いた地域で甲府西部の

国中に対し郡内と呼ばれていた。ここには武田家を裏切りで滅亡させた、

小山田信茂の居城、岩殿城の跡があった。

 お蘭の身を気遣い、求馬はここの旅籠に早めの宿泊をした。

 この地は温泉の宝庫でこの旅籠も温泉宿であった。さっそく三人は温泉に

浸かり、一日の疲れを癒した。

 ここら辺りは男女混浴で、お蘭も肩の傷口を油紙で押さえて入浴した。

 上鳥沢宿から大月宿は、猿橋宿と駒橋宿の二宿を越えたばかりの近場で

あった。刻限はまだ八つ半(午後三時)を少し過ぎた頃で宿泊客は誰も居ない。

「お蘭、疲れはないか?」  「はいな」  求馬の問いにお蘭が湯の中から

答えている。 「鳥沢からはきつい道中でしたから、ゆっくり浸かって下せえ」

 猪の吉が一足はやく部屋に戻っていった、こうも間近でみるお蘭の裸体は、

猪の吉には目の毒であった。  「猪さん、気をつかいましたね」

「馬鹿め」  求馬が苦笑した。  「旦那っ、・・」

 お蘭が上気した顔を見せてもじもじしている。求馬の目の前に豊かな乳房が

湯のなかで透けて見える。

「お蘭、まだ真昼間じゃ」 ざぶっと湯の音をあげも求馬が浴槽から出ていった。

「なにさー、つまんない」  お蘭が恨めしげに後姿を見つめていた。

 座敷では猪の吉が寛いでいた。

「旦那、村松三太夫は素通りで先に進んだようです」

 猪の吉は風呂からあがり、帳場で三太夫の動きを探ってきたのだ。

「奴は足を引きずっていたそうですぜ」

「この先には笹子峠の難所がある」 求馬が塗れ手拭を干しながら答えた。

「奴はあの傷です、甲府までは大丈夫ですよ」

「お主もそう思うか」  「へい」  「まずは六紋銭の動静じゃな」

 二人が今後の相談をしている。  「ああー、良い湯加減でした」

 お蘭が汗を拭いながら現れた、ゆっくりと疲れをとった所為か顔色がいい。

「明日は強行軍じゃ、七宿目の黒野田宿まで足を伸ばす。そこで一泊し翌日は

笹子峠を越える」  「はいな」  お蘭が上気した顔で肯いた。

「さて、今夜はゆっくりと飲むか」  「そうですな、師匠の全快祝いですな」

  猪の吉の言葉に、「嬉しいねえ」と、お蘭が妖艶な笑顔をみせた。

「それじゃあ、夕餉前の一杯といきやすか、帳場に頼んできます」

 猪の吉が座を立つた。  「ここは盆地ですね、周囲の景色の綺麗なこと」

 お蘭がうっとりと連綿とつづく山並の風景を眺めている。

 ここに来て紅葉が目立ってきた、本格的に秋の訪れがきたようだ。

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Last updated  Apr 1, 2008 11:08:22 AM
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Mar 31, 2008
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 翌朝の五つ(午前八時)三人は、旅籠の者に見送られ甲州道中を西に

向かった。  「今日もいい天気だね」  猪の吉がご機嫌である。

 手甲、脚絆も新しく草鞋の感触も心地よい。お蘭も新しい道行き衣を

羽織り、紅紐の草鞋に菅笠をかむり新しい杖を手に勇んでいた。

 求馬のみ黒羽二重の着流し姿で、柳行李を振り分けに肩に担ぎうっそりと

歩んでいる。街道は桂川を離れ山道となっていた。かなりの急坂が続いている。

「師匠、大丈夫かね」  猪の吉がお蘭の身を案じさかんに声をかける。

「大丈夫ですよ」  お蘭の体調も完全にもどったようだ。

 山並が重なりあって緑一色であった景観が変化を見せはじめてた。

 所々に紅葉がはじまり、薄い紅色や黄色が交じっている。

「もう、秋なんですね」  お蘭が菅笠を上向け景色に見蕩れている。

「上鳥沢宿から二十六町で天下の三奇橋に数えられる猿橋がある。渓谷の

水音が聞こえるだろう」

「はいな」  求馬に教えられ、お蘭が嬉しそうに肯いた。

 橋のたもとは苔の生えた石垣が積まれ、蔦が縦横に這っている。それに

鬱蒼とした大木が橋を覆い隠すように枝を伸ばしていた。

 手摺につかまり、お蘭が下を覗いている。

「目が眩みそう、落ちたら命はありませんよね」

 三人は橋の中央に足を止め奇景に見入った、眼下は深い渓谷で桂川が白い

泡立ちをみせ流れ下っている。この猿橋は橋脚がない、ハネ木造りという工法

で作られていた。浮世絵師の安藤広重が天保十二年に訪れ、この猿橋の絶景

に驚嘆し、「絶景言語に堪えたり拙筆に写し難し」と絶賛したと云われる。

「凄い眺めだねえー」  猪の吉が感に堪えない声をあげている。

「お蘭っ、猪の吉、この場を離れよ」  声と同時に求馬が前方に疾走した。

「あれは」  猪の吉が驚きの声をあげた、向こう側から侍が駆けて来る。

「探したぜ。村松三太夫だ、忘れたとは言わせねえ」

 赤鞘の大刀を腰にぶちこみ、求馬の目前に足を止めた。

「鳥沢の旅籠から眺めていたな、おいらの眼は節穴ではねえ」

「わしが斬れるか?」  黒羽二重の着流しで求馬がうっそりと佇んだ。

 渓谷から吹き上がる風で裾が煽られている。

 三太夫の垂れ下がった目蓋の奥の眼が瞬いた。ゆっくりと自慢の赤鞘から

大刀を抜き正眼に構えをとった。風の音が響く静寂の世界に殺気が漲り、

お蘭と猪の吉が息をつめて見守っている。

 三太夫が徐々に突きの体勢に構えを移している、求馬が鯉口を緩め左の指で

軽く鍔を押した。

「きえっー」  凄まじい懸け声と共に猛烈な突きが、求馬の胸元に伸びた。

 同時に求馬の痩身が、ふわっと宙に舞い橋の欄干に飛び乗っていた。 

「あっ」  お蘭が蒼白となった。足を滑らせれば千尋の谷底に落下する体勢を

求馬がとったのだ。三太夫の攻撃が頓挫(とんざ)した。

 鵜飼流は猛烈な突きの攻撃で相手の体勢をくずし、真っ向唐竹割りとする

一撃必殺の剣であったが、求馬は躯を欄干の上に置く事で三太夫に攻撃を

許さぬ体勢を作ったのだ。

「おのれ」  三太夫が正眼に構えを移し喚いた。完全に業を封じられたのだ。

 斬り込めば求馬は、三太夫の頭蓋を割る一撃必殺の攻撃をする、それを

躱す業は三太夫にはない。 「村松三太夫、ここで命を落すか」

 冴えた求馬の声が皮肉をおびて聞こえる。

「畜生」  三太夫が呻いた、相手は橋の欄干上に居る。長引けばこちらが

有利、三太夫が後方に身をうつし持久の策をとった。

「あの野郎、旦那の疲れを待つ積りだな」  猪の吉の眼が鋭くなった。

 お蘭が瞬きを忘れ、食い入るように求馬の姿を見つめている。二人には長い

時間であったが、それは瞬時の出来事であった。

 いかに忍びの術にたけていようと、求馬の体力にも限界がある。

 猪の吉が飛礫を握りしめ啖呵をきった。

「やい化け物、ここに飛礫の猪の吉さまが控えているぜ」

 村松三太夫の相貌が歪んだ。  「大川での飛礫はおめえかえ?」

「そうだ、今度は仕留めるぜ」  「糞っ」  三太夫が思いだした。

 猪の吉の手から飛礫が、三太夫の眉間を狙って放たれた。

 素早く大刀を顔面の前で上段に移し、大刀の柄で飛礫を払い落とした。

 体勢に隙ができ、見逃さず求馬の躯が宙に躍り、村正が三太夫の頭上に

襲いかかった。三太夫は本能的に大刀を水平とし両手で受けた。

 凄まじい衝撃で三太夫の躯が後方に弾き飛ばされた、すかさず村正が白い

光芒の帯を引き三太夫の肩先に襲いかかってきた。

 肩袖が千切れ左肩から血潮が迸った。  「ちえっ」と舌打ちの声がし、

辛うじて三太夫が構えを立て直した。

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Last updated  Mar 31, 2008 11:19:03 AM
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