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長編時代小説コーナ

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小説 上杉景勝

Mar 2, 2007
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カテゴリ:小説 上杉景勝
  石田三成の手が関白秀次にも伸びた、それは秀吉がお拾を得たことから

はじまった不幸な出来事であった。秀吉に嫡男が誕生したことで秀次の立場が

微妙に変化した。秀次は関白となると異常な性癖を見せはじめた。

  殺生を好み、女にも凄まじい興味を抱きはじめた。白昼、公然と辻斬りを

おこなったり、妊婦の腹を割いて楽しむなど、悪逆非道を行った。

  秀吉は名護屋城に出陣するさいに、豊臣家二世の主と定め、細々とした

訓戒を与えたが、秀次はその誓約を裏切ったのだ。

  人々は殺生関白と陰口をたたき秀次を恐れた。だが、天下の継承者となった

秀次に接近する大名が日毎に増えた。それは世の中の趨勢(すうせい)である。

  伊達政宗を筆頭として池田輝政、浅野幸長、最上義光、細川忠興等の武将

であった。太閤秀吉はお拾を得て継承問題に悩んでいた。

  一旦は秀次にと考えを纏めたが、嫡男の誕生で心が揺れ動いていた。

  そんな秀吉の心の迷いを三成はいち早くさっした。最近の関白秀次の行状は

いちじるしくない、ここに眼をつけ増田長盛と秀次の身辺を洗い出し秀吉に報告

した。こうした情報に接し、太閤秀吉は関白秀次に対し信頼を失っていった。

六月末、秀次に謀反の疑えがかけられた、訴えたのは石田三成であった。

謀反のきっかけとなったのは、病死した蒲生氏郷の遺領問題であった。

  氏郷の遺領を遺児の秀行に認めようとする秀次に対し、秀吉が反対したの

だ。その対立する事態の収拾を図ろうとした、秀次の朝廷工作の献金が謀反と

見なされたのだ。秀吉は我が命に反対する関白秀次に激怒した。

「三成、関白秀次を糾弾いたせ、どのような釈明も受け入れてはならぬ」

  秀吉の怒りは頂点に達していたのだ。

「殿下は、さほどに関白殿を毛嫌いされてか」 これが偽らない三成の感慨であ

った。太閤秀吉は、三成に秀次の切腹を命じてきた。

  豊臣家の行く末を思うと、三成は前途に暗雲を禁じえなかった。ここは秀次を

たて、お拾さまの成人を待つのが上策とは思ったが、ここに至っては秀吉の命に

従うしか道はなかった。

  文禄四年七月三日、秀次は石田三成と増田長盛の糾明をうけ、翌日には

官職を剥奪されて高野山に追放された。秀次は、その日のうちに切腹を命じられ

命を絶った。さらに八月二日、秀次の正室以下の妻妾、子等三十九名が京の 

三条河原で斬殺された。

  この事件から太閤秀吉は、人代わりしたように残虐非道となっていった。

  この一件で伊達政宗が秀次との連座をとわれ居直っている。

「太閤殿下が関白殿下に天下を譲られたので取り入ったまでのこと、もし、これ

を咎と思し召すなら是非もなき、我が首を刎ねられよ。本望なり」 

  決然と言い放った。流石は奥州の曲者伊達政宗だけはある。

「政宗、わしの誤りじゃ。そちと同じ境遇ならばわしもした、今回は見逃そう。

じゃが、わしを少し甘う見たようじゃな、わしの後継者はお拾じゃ。忘れるでな

い」  天下の主、秀吉が細い眼を光らせた。

「ははっー」  奥州の覇者、伊達政宗の脇の下から冷や汗が滲み出ていた。

  この事件の功績をかわれ石田三成は、秀次の遺領をついで佐和山城十九万

四千石の大名に取り立てられた。時に三成、三十六歳であった。

  こうして三成は豊臣政権のなかで、五奉行としての地位を築いてゆくことに

なるが、秀次と連座を疑われた大名達からも敵として憎まれることになる。

  慶長二年(一五九七年)一月、明国との講和交渉が不調に終わり第二次朝鮮

の役が再開された。先陣は、またしても小西行長と加藤清正が命じられた。

  両人は出陣日を待たずに渡海し、烈しい先陣争いを繰りかえし先を争った。

  二月二十一日に、秀吉は在朝諸将の陣立を発表した。総勢十四万一千五百

名を八陣に編成し、諸将連の布陣を定めた。

  今回の秀吉は名護屋城に下向せず、伏見城から指示を出していた。

  明国も二月十一日に、朝鮮救援を決定し戦闘準備に入った。

小説上杉景勝(52
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Last updated  Mar 2, 2007 09:54:02 AM
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Mar 1, 2007
カテゴリ:小説 上杉景勝
  こうした会話が交わされ、直江山城守兼続は九月から念願の定納員目録の

作成をはじめた。景勝主従は、此の年から内政の充実を最優先として力を注ぐ

ことになった。

  明けて翌年の一月十七日、上杉景勝は越後、佐渡両地の金山支配を秀吉

から命じられた。その朱印状には直江山城守を代官となし、金銀の運上額を確

かめるようにと認められていた。景勝は内心、名護屋城で大見栄をきった己の

失敗を悟ったが、後の祭りでであることを知らされたのだ。

  浅野長政より朝鮮出兵の軍事費の増大に対応するための施策の、一環との

知らせを受けた。同時に、この春に石見から金銀採掘の技術者が訪れ、石見

銀山の最新技術が伝授されるとの連絡が書き添えてあった。このお蔭で相川金

山、銀山の採掘量は飛躍的に伸びたのである。

  文禄四年となり、日本と朝鮮で数々の出来事が起こった。二月となり上杉家

にとり運命的な人物が亡くなることになる、会津九十万石の領主、蒲生氏郷が

急死したのだ。

「限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」

  四十歳の若さで死去した氏郷(うじさと)の辞世の句である。

  彼の死は巷間(こうかん)に色々な憶測を呼ぶことになる。謀殺、毒殺死、

などなどであった、

  氏郷は織田信長の娘婿であった。彼は信長と秀吉に従って数々の武勲をた

てた武将である。

  秀吉は氏郷の器量を買うと同時に、過去の煌びやかな栄光に嫉妬していた。

これを疎ましく感じ、会津に移封されたと氏郷は思った。彼にとり左遷人事であ

った。「たとい小禄なりとも都近くにあれば、やがては天下も望めよう。会津では

遠すぎる、何が出来ようか。志は虚しくなった」と嘆いたといわれる。

  彼には大志があったのだ。会津に移ってから体調を崩し、臥せることが多く

なった。彼には奥羽守護としての大役があった、伊達、最上への牽制役としての

任務と徳川家康の監視役であった。

  彼の資質を妬んだ石田三成の讒訴(ざんそ)による、秀吉の毒殺説などが風

聞として流れたが、それを裏付ける証拠はない。むしろ秀吉と三成は氏郷の

器量を買って会津に移封したのだ、根も葉もない風雪であった。

  ともあれ、会津の要衝の地は十三歳の氏郷の倅の秀行が継ぐ事になる。


  朝鮮でも異変が生じていた。初戦の華々しい連勝も制海権を失い、

大明国が大軍を擁し、朝鮮救援に駆けつけてからの日本軍は、漢城を失い、

釜山近郊まで押し詰められていた。

  依然として朝鮮の亀甲(きっこう)水軍は優勢で、充分な物資の補給のないま

まで戦いを繰り返していた。そんな最中に日本兵の朝鮮軍への投降が激しさ

を増していた。朝鮮軍はそんな日本兵を降倭(こうわ)と呼んでいた。

  その数は数千名にのぼったと云われている。

  初めの頃は、朝鮮軍は降倭を殺害する方針であったが、練達した戦闘力と

優秀な鉄砲技術をもつ日本兵を、貴重な戦力とみて朝鮮軍は「投順軍」と名づけ

た部隊を編成し、日本軍同士を戦わせるようになった。

  その代表的人物が、金忠善(キムチュンソン)であった。忠善は加藤清正の

部下で沙也加(さやか)と云う。彼は戦況が有利な時期に朝鮮軍に投降した、

秀吉の朝鮮侵略戦争への抗議を示すものであった。こうした現状を石田三成は

正確に秀吉に報告した、秀吉の矛先は加藤清正に向けられた。

  朝鮮で苦戦する諸将達は、三成の報告に激怒したが秀吉の信任のあつい

三成の言い分が勝り、彼等は太閤から叱責をうける羽目となった。

  諸将にも言い分はあったが、三成は事実を告げることを厭わなかった。

  奉行としての立場を貫いたのだ。三成に多少の情けがあれば事は大きくなら

なかったが、彼は律儀にも一切の隠し事もなく報告した、これが石田三成という

男の性格であった。 

  朝鮮在陣の武将は、三成の讒訴(ざんそ)と感じた。彼等のほとんどが秀吉

子飼いの武将連であったことが、のちに豊臣家を不幸にする要因となった。

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Last updated  Mar 1, 2007 10:22:31 AM
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Feb 28, 2007
カテゴリ:小説 上杉景勝
  朝鮮在陣の小西行長と明の遊撃将軍の沈惟敬(チンウエイチン)が講和の

折衝をはじめていた。

  秀吉の条件は明の皇女の降嫁と朝鮮南四道の割譲、さらに加藤清正が

捕らえた二人の朝鮮王子の返還が主な内容であった。

  だが交渉は難航した。秀吉と明の講和の条件が一致をみなかったのだ。

  小西行長と沈惟敬は、窮余の策として偽の降伏書簡を共同で作成した。

  小西行長は家臣の内藤如安(じょうあん)を講和使節にしたて、明皇帝のもと

に向かわせ、沈惟敬は贋作をもって明皇帝の使節として秀吉のもとに使者を

派遣した。講和を引き出す二人の苦肉の策であった。この二人が講和の折衝を

もった城が、上杉勢の築城した熊川倭城であったのだ。

  こうした模索の中でも、朝鮮在陣の諸将は苦戦を続けていたが、漢城を撤退

し釜山まで後退していた。一方、秀吉は朝鮮南半分は譲れない姿勢をみせ、

沿岸地域に八万名の軍勢を滞陣させ、和戦両様の構えをとっていた。

           (思惑)


この文禄三年(一五九四年)は、有力大名が積極的に領国統治の強化に乗り出

していた。ここ春日山城でも景勝と山城守兼続が強化策を相談していた。

「お屋形さま、我が家の朝鮮の役は終りましたな」

「終ったが、まだ合戦は続いておる。我等は豊臣政権下で過分な期待をもたれて

おる」  「何時、軍役負担を命じられるか分りませぬな」

「そうじゃ。上杉家の領土が固まった今の時期に為すべきことがある」

  景勝が例の顔つきを見せて兼続を見つめた。

「越後、佐渡、信濃四郡、出羽庄内三郡が、我が上杉家の領土にござる」

  兼続が指を折るようにして数えている。

「公称、九十万石じゃ、朝鮮の軍役を参考にいたせば兵員動員数は四万五千名

となる」   「九州地区の大名の軍役と同じならばですな」

  景勝の言葉に兼続が素早く反応した。

「山城、来年あたりには太閤検地があろうな。その前に領国内の家臣とその知行

高、軍役数をまとめねばならぬ、定納員数目録の作成が急がれるな」

  景勝の顔色が真剣にみえる。  「軍制の効果的運用に必要じゃ」

「早速、かかりましょう」  「手立てはあるか?」

「まずは家臣から知行定納高を差し出させます、それに以前の検地数を勘案い

たし目録を作ります」  兼続がうてば響くように答えた。

「出来るか?」  「目安はございます」  兼続の答えに景勝の顔に安堵の色が

刷かれた。  「山城、直ぐにかかるのじゃ」

「はっ、それに五十騎衆と地方在番衆なども顕かにせねばなりません」

  五十騎衆とは旗本のことであり、在番衆とは自身の知行地を持たない占領地

や国境地帯の砦などにつめている者達を云う。

「これが出来ますれば、国内統治が具体的に見られます」  「うむー」

  兼続は早速にも実施し翌年に完成させ、三年後には「古越後御絵図」と言わ

れる大型の絵図をも作成するのであった。  「山城、期待いたしておる」

「これからは領国治世の舵取りには心いたさねばなりませぬ。さらに我が家の

軍役数を増やさねばなりませぬ」

「山城、わしも盲ではない。悪戯に徳川殿や伊達殿に軽んじられる隙はみせぬ」

「今のお言葉で安堵いたしました」  兼続が剽悍な眼差しの景勝を仰ぎみた。

「関東では江戸の改修工事が盛んに行われていると聞きおよぶ」

「お耳に達しておられましたか」  兼続の白皙の相貌がゆるんでいる。

「わしにも全国の形勢はよめる、まして徳川殿の思惑もな」

  景勝の言葉には重要な意味がこめられていた。江戸では新田開発の名を借

りた大改修工事が行われていた。家康の命をうけた伊奈忠次が、普請奉行とな

って前年から、隅田川に千住大橋の架設工事を行っていた。

  これ自体は問題ではないが、橋の完成で奥州街道との交通が確保されるの

だ。これは対伊達家との関係から、推量すると大いに疑惑がもたれる。さらに

その資材である木材の提供者が、天下の曲者である伊達政宗よりの提供と知れ

ばなおのことである。  「伊達、最上と徳川家の連合が真実となりましたな」

「そうじゃ、我が家にとっても由々しき事態じゃ。多摩川にも河川工事が始まった

ようじや」 何処から仕入れた情報か、景勝の浅黒い顔が引き締まっている。

「完成の暁には東海道と直結いたしますな、軍用大橋としたら問題ですな」

「そちもそう読むか」

「太閤殿下の物狂いと年齢を考えますと将来の禍根かと存じます」

「なんと申しても二百万石の大大名じゃ。それも朝鮮の役では出血がまったくな

い、末恐ろしいことじゃ」

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Last updated  Feb 28, 2007 09:14:36 AM
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Feb 27, 2007
カテゴリ:小説 上杉景勝
  この知らせを受けた秀吉は、制海権を奪われ補給の途絶えることを恐れ、

巨済島に城を築き、陸上から朝鮮水軍に対抗するよう命じてきた。

  この日本水軍の弱体から、日本軍は補給を断たれ困難な戦いを強いられる

ことになる。上杉勢に石田三成から熊川浦につなぎ城築城命令が発せられた。

  このつなぎ城とは、海上よりの物資の補給がままならず、陸路から補給物資

を搬送するのでその安全のために、釜山から熊川、昌原(チャンウオン)から晋州

(チンジュ)に至る戦略的な拠点に倭城を造る、これをつなぎ城と呼んだ。

 兼続は、直ちに地形を調査し熊川浦邑城(ゆうじょう)の南東約半里の、熊川浦

西側の高地に熊川倭城の築城に取りかかった。この邑城とは朝鮮の村を意味

する言葉であり、倭城とは倭寇(わこう)の倭をとり日本式の城を云う。 
 
  南面、東面は断崖で、北面はゆるやかな傾斜をもち海に下る地形で、唯一の

陸続きの西側斜面は、小山が連なり南北から沢が深く切れ込んでいる地形で

あった。山頂からは鎮海湾(チンヘイ)が一望でき、敵が海上から攻め寄せると

頭上から攻撃できる絶好地であった。

  上杉勢は気候風土の違う環境下で困難な工事に取りかかった。

  景勝の武将の一人である、藤田能登守信吉の配下三百十名中四十名余り

が病死したとの覚書書が残っている。

  こうした悪環境のなかで上杉勢は越年し、朝鮮で築城された倭城の最大規模

の、つなぎ城を完成させた。これは直江山城守の功績であった。

  この城の熊川浦から西に向かえば、巨済島の北岸をへて全羅南道(チョンラ

ナンド)に至り、東に向かえば釜山に通じる交通の要衝であった。

  こうして異国の地で元旦を迎えた時期、秀吉から慰労の書簡が届いた。

  これも石田三成の好意であった。こうして築城工事の目処がついた八月下

旬、秀吉からの帰国命令を受理し、上杉勢は合戦をせずに九月八日に名護屋

城に帰還した。

「景勝、よう成し遂げた。熊川倭城は我が国の誇りじゃ」

  秀吉は上機嫌であった。  「山城の縄張りのお蔭にございました」

  こうして特別に秀吉から感状を賜った景勝が、威儀を正している。

「景勝、わしに世継ぎが生まれたわ」秀吉が顔をくしゃくしゃにしている。

「なんとー。祝着至極にございます、勿論、男子(おのこ)にございましょうな」

「淀がでかした。拾(ひろい)と命名したは」 「お拾さまにございますか」

「五十七歳のわしにとっては拾い者じゃ。拾で良い」

  太閤が豪華な衣装を羽織り、ひたいから汗を流している。子とは、そのよう

に可愛いものなのか、景勝には分らぬ心境であった。

「景勝、拾を頼むぞ」  喜びを面に表した秀吉が、景勝の手をとり真剣な面持ち

で頼んでいる。

「殿下、勿体無いお言葉にございます。我が家訓は義と信にございます、必ずお

言葉に添い奉ります」  武骨者の景勝が精一杯の世辞を云っている。

「おう、言うてくれるは」  秀吉は「お」の字をつけずに呼ぶように厳命しながら

も、自らお拾と呼びはじめた。

  こうして家臣を多く失った上杉勢は春日山城に帰還した。


  この文禄二年は朝鮮で戦う日本軍にとり最悪の年となった。明国からの援軍

を待っていた朝鮮軍が一斉に蜂起した。

  制海権を失った日本軍は、武器兵糧の不足に悩みながらも激戦を繰りかえ

し、続々と南下して漢城に集結していた。

  そうした最中に石田三成が朝鮮奉行として渡海し、朝鮮に在陣する諸大名を

指揮することになった。三成は加藤清正と鍋島直茂に平壌から漢城に撤退を命

じた。恐れていた明の大軍が提督の李如松(リジョショウ)に率いられ、日本軍を

破って漢城に進撃を開始したのだ。

  日本軍は籠城戦は不利と悟り、秘かに漢城から撤退し五万名で碧蹄館(へき

ていかん)に兵を潜ませた。筑後柳川藩主の猛将、立花宗茂(むねしげ)が奇計で

明軍を撃破した。これが日本軍最後の大勝利であった。

  その後、敗戦と後退を繰りかえし、朝鮮義兵の三万との会戦を幸州(ヘンジ

ユ)で行い、敗れて漢城を撤退した。

   こうした背景をうけた秀吉は、明との講和を模索し始めた。

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Last updated  Feb 27, 2007 09:38:57 AM
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Feb 26, 2007
カテゴリ:小説 上杉景勝
  城の一室で石田三成と直江山城守の二人が密談をかわしていた。

「山城守殿、上杉勢はしばらく名護屋城に留まっていただく」

「後詰にござるか」  山城守が白皙の顔で三成を凝視した。

「いずれは渡海していただくが合戦には加わることのない部署についていただく」

「石田殿、我等は合戦覚悟で名護屋にまかり越しました」

  山城守が相貌を引き締め不平を口にした。

「ここだけの話にござる」  三成が声を低めた。

「太閤殿下は、今年で五十六歳の高齢になられます」  「・・・・・」

「お世継ぎのないまま、甥の秀次さまに豊臣家をお譲りいたす積もりにござる。

併し、秀次さまではいささか心もとない。万一のことを考えますと上杉家、前田

家、宇喜多家、小早川家が頼りとなりましょう」

  石田三成の童顔の風貌が険しくなっている。

「石田殿、何故に徳川殿に朝鮮渡海を命じなされぬ」

  山城守の問いに、三成が苦い顔をした。

「それがしも殿下に徳川殿の朝鮮渡海を進言いたした。だが、殿下は遠慮なされ

た」 「あの殿下が、遠慮されましたか」

「左様、殿下は卑賤の身から今の地位を得られたが、徳川殿は故信長さまと

天下布武の合戦を一緒になされた仲、どうしても心の内では身分の差がござる」

「うむ、・・・・しかし関東六カ国を有する大大名にごさるぞ」

「殿下は徳川殿を警戒する気持ちと頼る気持ちが半々にござる、これはそれがし

の見立て」  石田三成がずばりと語り、さらに言葉を継いだ。

「六月には会津の蒲生氏郷(うじさと)殿に若松城の大改修を命じてあります。

会津は奥州の曲者伊達政宗と徳川殿への備えの要と考えております」

  直江山城守には、秀吉と三成の思惑が手にとるように分る。秀吉は徳川家康

を恐れているし、関東に移封した負い目がある。一方の三成には徳川家のこれ

以上の勢力拡大には重大な懸念がある。

「唐入りはお止めなされ」  唐入りとは大明国攻めのことである。今回の朝鮮渡

海は、そのための布石である。朝鮮を攻略し余勢をかって大明国に侵攻する。

  これが秀吉の壮大な計画であった。

「それがしも山城守殿と同意見にござるが、殿下の気象では諦めざるをえませ

ん」  珍しく知恵者で知られた石田三成が渋い顔をした。

「我が上杉家は徳川殿の牽制役にござるか。そのために戦闘のない部署につ

け、戦力の温存を図りますか」

「左様、景勝さまは義に対し一徹者で戦狂いにござる」

  石田三成が破顔し、山城守も薄っすらと笑みをもらした。

  ようするに徳川家康とそれに加担する伊達政宗の牽制として、我が家と

蒲生家を利用する三成の思惑が、透けてみえた。

「今後の豊臣家の行く末を頼みます」  石田三成が低頭した。

「顔をあげられませ、石田殿の権力と我が上杉家の武が合体いたせば、恐い

ものはござらん。不肖、山城はご貴殿の意に添いたてまつる」

「かたじけない」  ここに二人の謀将が手を握ったのだ。

「石田殿、国許から兵糧米三千石が届くころにござる。何方にお渡ししたらよい

ものか、ご教授願いたい」

「お心くばりかたじけない、奉行の増田長盛殿に交付願いたい」

「なるほど、増田長盛(ましたながもり)殿が兵站奉行にございましたな」

  こうした細々とした会談を終えた兼続は、与えられた宿舎にもどった。

先に戻った景勝は、すでに大杯を手にしていた。

「石田殿と話はついたか?」  兼続は会談の模様をつまびらかに報告した。

「山城、いずれはそのような事態が訪れような」

  景勝が灯火に顔を照らされ、にやりとした。彼にもおおよその見当はついて

いた。  「山城、まずは軍規を引き締めよ」

  兼続は景勝の意をくみ陣中掟を定め、軍勢の綱紀(こうき)粛正を図った。


  朝鮮では日本軍が漢城を拠点として朝鮮全域に進攻していた。朝鮮農民は

義兵を組織して各地に義兵が蜂起し始めた。

  小西行長、加藤清正、黒田長政、島津義弘(よしひろ)らは平壌をめざし北上

していた。そうした時期に上杉家に出陣の命が下った。

  景勝と兼続は五千名の兵を率い、文禄元年(一五九二年)六月六日に名護屋

城を出陣し、同月の二十日に釜山を経由し熊川浦(ウンチョンポ)に着陣した。

  この熊川浦は朝鮮水軍の根拠地で知られ、日本水軍の脇坂安治(やすは

る)、九鬼嘉隆(よしたか)、加藤嘉明(よしあき)等は巨済島(コジェド)付近で、

朝鮮水軍司令官の李舜臣(イスンシン)の率いる、亀甲船団に苦戦を強いられて

いた。

小説上杉景勝(49
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Last updated  Feb 26, 2007 09:18:50 AM
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Feb 24, 2007
カテゴリ:小説 上杉景勝
  天正十九年(一五九一年)十月、総奉行に浅野長政が任じられ、壮大な

兵站基地の建設が始まった。と同時に九州、西国の諸大名に翌年の三月一日

をもって朝鮮渡海の命が下った。

  秀吉は養子となった甥の秀次(ひでつぐ)を関白の位につけた。これは豊臣家

の後継者としての配慮からの人事であった。

  諸大名の動員兵数は知行高と地方に応じて課せられた。九州、中国地方は

百石につき五名。西国、四国は四名。遠国の越後などは二名が基準であった。

  因みに肥後の加藤清正は、十九万五千石の所領で一万名の軍役を申しつけ

られ、越後の上杉家は九十万石ながら五千名の動員令が下された。

  いかに九州地方が朝鮮に近いといっても、著しい違いがあったのだ。

  こうして第九軍十六万余の大軍が朝鮮に渡海するのである。

  翌年は年がかわり文禄元年となり、四月十二日に小西行長(こにしゆきなが)

の第一軍一万八千余名が、軍船七百艘で対馬を出航。夕刻に釜山(ぷさん)に

入港し、船内で一泊した。翌十三日の六時頃から上陸を開始し一気に釜山城に

攻め込んだ。この時代の日本は鉄砲では世界有数の戦力を有していた。

  釜山城攻撃の小西行長軍団は、釜山城を包囲し優勢な鉄砲隊の攻撃で

釜山城を二時間で陥す、華々しい朝鮮での初戦果をあげた。

  ついで加藤清正、鍋島直茂(なおしげ)らの第二軍。黒田長政らの第三軍も

朝鮮に上陸し、朝鮮の首都漢城(ハンソン)をめざし凄まじい進撃を開始した。

  四月二十九日の早朝、朝鮮国王は漢城から逃亡し平壌(ピヨンヤン)に奔っ

た。日本軍は総力を挙げて五月三日に漢城を陥した。

  この知らせは太閤秀吉を驚喜させ、関白秀次に対し翌年の出陣を命じた。

この戦勝報告で秀吉は、朝鮮、明国、天竺(テンジク)までの征服を披瀝(ひれき)

している。その構想は壮大なものであった。後陽成天皇と公卿衆を明の北京に

移し、関白秀次を大唐(明)関白に任じる。

  朝鮮国王には羽柴秀勝をもって任じ、秀吉自らは寧波(ニンポー)に移り住

み、日本、朝鮮、明、天竺(インド)にわたる大帝国を作り上げる構想であった。

  この考えの底には秀吉の権限が、天皇を越えたことを物語っている。

  越後上杉家の軍勢五千が三月一日に春日山城を出陣した。京都に逗留した

後に四月上旬に肥前の名護屋城に着陣した。

  景勝と兼続主従は早速にも、太閤殿下の秀吉に拝謁した。

「景勝に山城、参ったか」  秀吉は上機嫌で二人を迎えた。

「漢城の入城、おめでとう存じまする」  景勝が平伏し祝辞を述べた。

「小西行長と加藤清正の二人が、先陣争いをして頑張っておる」

「武将冥利に尽きまするな。我等の渡海日は何時にございます」

「景勝、そう急くな、暫くは兵を休ませよ。命令は三成から知らせる」

  豪華な衣装を纏った秀吉が、顔を皺だらけとして機嫌よく答えた。

「景勝さま、今後は山城守殿と拙者で事を運びますが、宜しゅうございますか」

  石田三成が景勝に問いかけた。

「石田殿と山城は盟友、拙者に遠慮はご無用にござる」

  景勝が例の顔色をみせ肯いた。

「景勝、わしは大阪より黄金造りの茶室を運んで参った。客として迎えたい、あと

をついて参れ」  「はっ」

  秀吉が気軽に城内を先導し、景勝が小腰をかがめ追従してゆく。

「見よ、港を」  秀吉が指をさした。名護屋城の西に玄界灘が広がり、数百艘の

軍船や兵糧船が帆をあげている。まさに壮観極まる眺めである。

「見事な光景ですな」  「わしのお気に入りの場所じゃよ」

  太閤の秀吉が、しわ深い風貌をゆるめ渡海する軍船の群れを愛でている。

  景勝は秀吉自慢の黄金造りの茶室に案内され、秀吉が亭主となった茶を喫

している。「景勝、この茶室を誉めぬか」 秀吉が自慢げに景勝に声をかけた。

「なんの、黄金ならば殿下にも負けませぬ。上杉には佐渡がございます」

  景勝が、にべなく答えた。

「そうじゃった、そちは日本一の黄金持ちであったの」

  秀吉が思いついたように細い眼を光らせた。

「採掘に励み、朝鮮攻略の軍用金として殿下に差し上げます」

「良くぞ申した。それでこそ越後の上杉景勝じゃ、誉めてとらす」

  秀吉が満足の笑い声を発した。

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Last updated  Feb 24, 2007 10:17:56 AM
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Feb 23, 2007
カテゴリ:小説 上杉景勝
  直江山城守兼続は、その足で景勝の居室に向かった。

  景勝は居室の窓をあけ、ぽつっりと孤独で酒を呷っていた。

「御免こうむります」  「山城、奥に参っていたか」

「久しく仙桃院さまにお会いいたさず、申し訳なく思っておりましたが。ご尊顔を

拝し嬉しい日にございます」  「母上は元気であったか?」

「いたってお健やかにお過ごしにございました」

「そうか、側に参れ。沢庵じゃが一献参るか」  「頂戴いたします」

  気心の知れた主従は一刻(二時間)ほど盃を交わした。

  景勝は黙々と大杯をあおっているが、心なしか青味をおびた頬に苛立ちの色

が浮かんでいる。 (苦悩しておられる) それが兼続には手に取るように判る。

「そのように飲まれますな、お躯に障りますぞ」

「合戦もない世になり、なにが面白い。飲まずにおれまいが」

「ご心境は分ります。しかし一国を統べる国主としての態度とは申せませんな」

「分った」  珍しく景勝は素直(すなお)であった。

「いらざる雑事を申し上げました」 主従が視線を合わせた、兄弟同士のような

暖かい思いが通いあった。いずれ真実を語り合う時がくるであろう、そんな思

いが兼続の胸中を奔りぬけた。

          (唐入り)

「山城、大阪が気がかりじゃ」  「はて、何のことにござる」

「そちの賢しげな面が、惚(ほう)けて見えるわ」  「これは手厳しい」

  景勝の烈しい言葉に兼続が苦笑で応じた。

「殿下には老衰の兆(きざ)しが現れておる」  景勝が沢庵を噛み砕いた。

「いつ聞いても小気味のよい音ですな」

「はぐらかすな。殿下はお気に入りの千利休を切腹に追いやった、この一事を

もってしても、殿下の気力の衰えが分る」  景勝の顔色の優れない原因は、

太閤殿下の躯と気力の衰えにあったのだ。

「利休の屋敷を三千の兵で取り囲んだのは、お屋形さまですぞ」

「分っておる。殿下の命令には逆らえぬ」

ひっさぐる我得具足の一つ太刀、今此時ぞ天になげうつ。茶人の利休らしから

ぬ辞世の偈(げ)ですな」

「殿下にとり、弟の秀長殿の死が痛手であったの。利休の事件なんぞ笑って済ま

せる殿下が、お赦しに成られなかった」

「これから殿下は益々専横に走りましょう。我が家も注意せねばなりませぬ」

「初めてお会いした頃は、気風のよいお方であった。闊達で情けを知っておられ

たが、年を経て陰湿になられた」

  両人の脳裡に越水城で最初に会った、秀吉の態度が思いだされた。自由闊

達な態度とひょげた会話が秀吉の器量の大きさを物語っていたものだ。

「それも仕方がない事でしょうな。八月に鶴丸君を亡くされ、豊臣家にはご継嗣が

おられません。それで気が滅入っておられるのです」

「天下人が正気をなくされ、この後の天下の仕置きを考えると先が思いやられ

る」  景勝の顔色が冴えない。

「山城、殿下は兵士の血を望んでおられる」  景勝が驚くことを口走った。

「・・・・そうなると朝鮮ですな」  直江山城守も直ぐに反応した。

「そうじゃ、朝鮮出兵計画が本決まりとなろうな。まずは九州諸侯からお呼びが

かかろう、その内に我らにも渡海の下知が参ろう」

  景勝が空になった盃を眺め、苦々しい顔を見せた。

  こうした大阪の情報は山城守をつうじ、石田三成からもたらされていた。

太閤殿下が鶴松君を亡くされ、その心の傷を癒すために朝鮮出兵を考えている

と、三成から知らせを受けていた。三成もこの作戦には反対であったが、秀吉

は三成に朝鮮渡海の兵站業務を命じていたのだ。こうした膨大な物資の搬送に

係わる能力は、日本広しといえど三成をおいて他に人材は居なかった。

「まずは、九州に兵站基地としての城を築かれましょうな」

  兼続が、ぐびっと盃を空けた。

  景勝主従の思惑どおり、秀吉は突然に唐入りを宣言し、朝鮮出兵の兵站基

地として肥前名護屋に築城を命じた。それは大規模な工事であった。

  朝鮮渡海の諸大名の屋敷や、武器弾薬、兵糧、衣料を扱う町が築かれ、

侵略戦争用の城下町の完成が急がれた。

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Last updated  Feb 23, 2007 11:07:14 AM
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Feb 22, 2007
カテゴリ:小説 上杉景勝
「山城守さま、庄内は我が家にとり鬼門にござるな」

「泰忠、もともと庄内は最上義光の領土であった。数年前に本庄繁長殿が進攻

し、お屋形さまが直々に太閤殿下にお願いし、上杉家の所領として認めてもらっ

たものじゃ。最上の手が伸びることは仕方のないことじゃ」

「だが、こうも一揆が頻発しては敵(かな)えませんな」  黒金泰忠が愚痴った。

「泰忠、領土は血で購うものぞ」  兼続が厳しい声で諭した。

「これは申し訳ございませぬ」  率直に詫びる姿が清々しくうつる。

  兼続が酒器を差し出し泰忠の盃を満たし、さり気なく尋ねた。

「お屋形さまの態度が気になる」  「どうかなさいましたか」

「最近は特に口数も少なく、合戦での指揮が苛烈すぎる」

「・・・・」  泰忠が何事か思案し、思い出したように口を開いた。

「昨年の夏に小田原攻めを終えられ、庄内一揆を鎮圧され帰国なされましたな」

「拙者も同道いたした。が、一足先に与板にもどった」

「山城守さまがお帰りになられた晩にございました。仙桃院さまが夏風邪をこじら

せ、お屋形さまがお見舞いに参られましたが、戻られたご様子が変でございまし

たな」  黒金泰忠が思い出しながら語り、兼続が黙然と耳をかたむけている。

「戻られるや、酒を所望いたし明け方まで飲まれたことがございました。何か奥に

ございましたかな」  「その時の仙桃院さまのご様子はどうであった?」

「病が重く眠っておられた筈にございます」  「そうか」

  兼続の脳裡に昔日の不識院公が、北ノ丸から戻ってくる姿が鮮明に蘇った。

あのお姿を拝した時、嫌な予感がした。わしは近親相姦を想像した筈じゃ。

  兼続が口中で独語した。

「いかがなされました」  「いや、何でもない」

  暫く酒を酌み交わし山城守兼続は座をたった。彼は独りでに奥に向かってい

た。長廊下はひんやりと心地よい冷たさである。

「兼続か、珍しいのう」  仙桃院が嬉しそうに迎えてくれた。

「もう、お身体は大事ございませんか」  「このとおり、いたって元気です」

  仙桃院が慈愛のこもった眼差しで兼続をみつめた。

「昨年、お袋さまがお風邪を召した時に、お屋形さまがお見舞いに参られました

な。覚えておられますか」

「わたしは熱に冒され眠っておりました。お屋形が自ら看病下されたと後日知ら

されました」  「その後にお会いなされましたか?」

「あれを最後として奥に、お顔も見せませぬ」 仙桃院の顔が曇った。

  六十歳をこえた媼(おうな)であるが、品の良い顔立ちが昔を偲ばせる。

「お袋さま、失礼を省みずお尋ねいたす」  兼続が顔を畳みにすり付けた。

「何事です」  このような態度の兼続を見るのは初のことである。

「お怒りを鎮めてお聞き下され。・・・・お屋形さまの父君はどなたにござる」

「兼続、そちがそのような事をわたくしに尋ねますのか。・・・ー長尾政景殿に

決まっておろうが」  仙桃院の顔から血の気が失せ口調が弱々しく聞こえる。

「あの夜を境としてお屋形さまの態度が変わったのでございます。本丸に戻るや

明け方まで酒を飲まれ泥酔なされました。何か思いあたる節はございませぬか」  

「・・・・」  「臣下といたし失礼なことをお尋ねいたす。拙者はかねがねお屋形さ

まは、不識院さまとお袋さまとの間に産まれた和子ではないかとの疑念を抱いて

おりました」  「兼続っ」  「お屋形さまと不識院公は瓜二つにござる」 

「わたくしは熱に冒され寝言を口走っておったと腰元共が申しておりました。あの

折に、お屋形は出生の秘密を知られたのかも知れませんな」

「矢張り、不識院公さまのお子にございましたか」

「許してくだされ、昔の不始末を我が子に知られるとは」

  仙桃院の顔が苦しげにゆがんだ。

「この話はお袋さまと兼続の秘密にございます。お気を静かにおもち下され」

「かたじけないことです」

「あとは拙者にお任せ下され、お袋さまのお心をお痛めしたことをお詫び申し上

げます」  兼続はひっそりと北ノ丸を後にした。

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Last updated  Feb 22, 2007 10:02:11 AM
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Feb 21, 2007
カテゴリ:小説 上杉景勝
   その笑みは今まで見たこともない、艶然としたものであった。

   夢をご覧になっておられるのか、何故に影虎殿と申されたのか、

景勝には理解し難い名前であった。弟の亡き不識院さまを思いだされておられる

のか、そう思いながら冷えた手拭を変えた時、再び仙桃院が小さく呟いた。

「喜平次は、貴方さまのお子」 仙桃院の寝言に景勝の顔が凍りついた。

   母上は何を夢見ておられる、黒雲のような疑惑がわきあがってきた。

   わしは故謙信公の倅か?・・・・そうなら姉弟の間に産まれたことになる。

それは景勝にとり、悪夢の出来事であった。近親相姦。忌まわしい言葉が想像さ

れる。 仙桃院の苦しげな呼吸が耳朶をうつ。

   景勝は母の枕頭(ちんとう)で自問自答していた。

「ご無礼をいたしました」  腰元が新しい桶をもって現れた。

「道元に申せ、きっとお元気になられるよう治療いたせとな」

   景勝は本丸の居間にもどり、母の寝言の意味を考えている。幼少の頃、

坂戸城を訪れる謙信の姿が彷彿(ほうふつ)する。何時も我が子のように可愛が

ってくれた。それが今は忌まわしい記憶となって景勝を悩ませる。  

   不犯の将と呼ばれ、妻帯もせずに一生を終えた謙信の生きざまに疑問が

湧いてくる。おぞましい想像が真実ならば、不犯を通した謙信の生涯も納得出来

るのだ。  「誰ぞある」  「はっ」  黒金泰忠が姿をみせた。

「酒をもて」  「まだ飲まれますのか」

「今宵は、酔いつぶれるまで飲む」  切りさくような声で命じた。

   泰忠は黙して部屋を辞した。よほど仙桃院さまのご容態がお悪いのだな、

泰忠はそう思い部屋を辞したのだ。

   景勝は黙々と飲みつづけた。飲むにつれ疑惑が真実に思える、屈折した

気持ちで景勝は明け方まで飲み、泥酔して寝所に入った。

   翌日の昼に景勝は寝所から這い出し、二日酔いのまま政務をとり、三日三

晩にわたり大酒を喰らい、ようやく心の整理をつけたのだ。

   わしの父が誰であってもよい。上杉景勝は、己自身戦国武将として信と義で

もって生き抜く。これが己に課した責務であった。この時期からますます口数が

少なく寡黙な男となった。

   一方、仙桃院は重態から脱し、健康をとり戻した。が、いっこうに見舞いに

訪れない景勝に不審を募らせていた。


   秀吉は小田原合戦の後始末を終え、奥羽仕置きを発令し、検地、刀狩の

実施を進めはじめた。検地は秀吉が明智光秀を山崎の地で破った時期から、

はやくも山城で検地をおこなっていた。奥羽検地は、もっとも大がかりなもので、

石田三成と細川忠興が、現地に赴き直接指導した。

   奥羽仕置きの中で重要な事項は、有力大名の妻子を在京させるにあった。

これは豊臣政権への人質政策であった。第二は検地により大名の直轄地の本

来の禄高把握にあった、それは日本全土の国力を知ることであった。

検地は厳格を極め、抵抗する者はなで斬りの罪に課す、と徹底したものとなっ

た。これにより、人々は反発を感じはじめた。まず、最初に奥羽各地に一揆が

勃発した。これは奥州の曲者、伊達政宗による陰謀であった。

   政宗は秀吉に降伏し、秀吉は彼が血を流し得た領土の会津六郡の四十二

万石を政宗から奪い、蒲生氏郷に与えたのだ。これが直接の原因であった。

   この一揆が上杉家の出羽庄内に飛び火し、景勝は軍勢を率い出馬した。

この騒乱は年を越しますます烈しさを増した。

   この鎮圧戦で景勝は人代わりしたような猛烈な指揮を執り、一揆勢を恐怖

に叩き込んだ。

   こうして八月までに鎮圧を終えた。仙桃院の無意識な寝言から、景勝の

人格が変貌を見せ始めたのだ。

   この変化を直江山城守兼続は見逃さなかった、何かが春日山城で起こった

と直感した。兼続は景勝に同行し春日山城に入り、それとなく城内の隅々まで探

りを入れ、城代の黒金泰忠と一献酌み交わしていた。

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Last updated  Feb 21, 2007 10:01:19 AM
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Feb 20, 2007
カテゴリ:小説 上杉景勝
          (疑惑)
   上杉軍団は庄内から春日山城に帰還し、城下で盛大な解散式を行った。

  各軍勢は国許に戻り、景勝と兼続は久しぶりに戦塵の疲れを癒していた。

  太閤殿下は上杉勢が庄内一揆を鎮圧中に、奥州に軍勢を進め、あの曲者で

知られた伊達政宗を屈服させていた。小田原合戦の前には九州を平定し、今や

日本全土で豊臣政権に刃向う者は居なくなっていた。

  そういう意味では越後一国も、景勝の手で完全に平定されていた。景勝は

三十五歳となり、壮年武将としての貫禄が滲みでている。一方の兼続は三十歳

となり風貌人を圧し、ますます智謀が冴えわたっていた。

「お屋形さま、徳川殿の仕置きで天下は定まりましたな」

「徳川殿の関東移封が効いたの、全国の有力大名もこれで鎮まるであろうな」

   景勝が青味をおびた顔色をみせ、ぼそっと答えた。

「しかし油断は禁物にござる、これで徳川殿の心中は穏やかならぬものになりま

したな。かの人は己の力のみで領土を拡張した人物、以前は織田信長さまに頭

を押さえられ、又、今回は殿下に頭を押さえられ申した」

「そうよな、誰の助けもなく領土を広げられたが、何時も誰かが実力者として上に

居られる。何れ、反抗心が面に現われような」  「御意に」

「我が上杉も大国じゃ、常に用心を怠るまいぞ」

「それにつきましては手を打ってござる」  「石田三成殿か?」

「左様、大阪城の陰の実力者にござる」

「山城、余り信用いたし手を噛まれぬなよ。忍城攻城戦ではだいぶ武将とし不評

をかったようじゃ」

「豊臣対策は拙者に任せていただきます」  兼続が断言した。

「分かった。我家の頭脳はそちに任せたのじゃ、久しぶりの帰国じゃ。面倒な議

論は本日はやめる」  景勝が面倒そうに手を振った。

「左様ですな、拙者も与板に戻り、暫く休息いたします」

   直江山城守が低頭し景勝のもとを去った。 

   真夏の春日山城が薄闇に覆われはじめた、格子戸から心地よい風が吹き

ぬけてゆく。日本海の地平線に雲が横たわるような翳が見える、あれが佐渡で

ある。 影勝と城代の黒金泰忠の二人が、ひっそりと酒を酌み交わしている。

   相変わらず漬物が肴である。

「お屋形さま、これからは合戦が無くなりますのか?」

「豊臣家の天下が定まった今の時期に、合戦の起こることはあるまい。たが人間

には闘争本能がある、それがある限り合戦は無くなるまい」

   普段は無口な景勝が珍しく能弁である。

「お屋形さま、なぜ側室をお持ちになられませぬ」

「泰忠、そちまで山城と同じことを申すか、わしは女子に興味がない」

「ならば、お菊の方さまを大切になされませ」

「諫言無用じゃ」  景勝が沢庵を噛み砕いた。

「申し上げます」  下座に小姓が現れた。  「何事じゃ」

   黒金泰忠が声を発した。

「仙桃院さまの、ご容態が悪化したとの知らせが奥より参りました」

「なにっ、母上はご病気か?」  景勝が大杯を片手に剽悍な眼差しで尋ねた。

「はい、先日来より夏風邪をこじらせておられましたが、今朝はお元気な様子に

ございました」  「泰忠、何故それを先に申さぬ」

「申し訳ございませぬ、仙桃院さまが内密にいたせと申されまして、ご報告を

はばかりました」

「奥に参る」  景勝が廊下を伝って北ノ丸に向かった。

「お屋形さまじゃ」  奥の腰元たちが慌てて跪(ひざまず)いた。

「騒ぐな、母上のお見舞いじゃ」  「ご案内申し上げます」

   奥の部屋で仙桃院が、苦しげな呼吸をして眠っている。介護の腰元が、

桶の水で手拭を浸し額の汗を拭っている。  「母上は、そんなに悪いのか」

「今朝は微熱がすると申されましたが、お元気でお過ごしにございました。

夜となり急に気持ちが悪いと申され床につかれました」

「道元、容態はどうじゃ」  医師の道元が平伏し答えた。

「夏風邪にございますが、熱の元がお駆の奥に入ったものと推察いたします」

   仙桃院は今年で六十二歳を迎えた筈である。

「母上は高齢じゃ、暫くわしが看病いたす」  景勝が皆をさがらせ水に手拭を

浸し、そっと仙桃院の額に乗せ替えた。

   呼吸が荒く聞こえるが、品の良い顔立ちをみせ眠り込んでいる。幼い頃 

から慈愛をこめ、慈しんで育てられた。その思いが景勝の胸を去来した。

「影虎殿」 突然に仙桃院が寝言を呟いた。景勝が凝然と母の寝顔を見据えた。

「なりませぬ」 再び低い声を洩らし、仙桃院の顔に微かな笑みが浮かんだ。

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Last updated  Feb 20, 2007 03:34:07 PM
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