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長編時代小説コーナ

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1

直江兼続

Jan 31, 2009
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カテゴリ:直江兼続
 

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        「上杉景勝と兼続の最後の合戦」(八)

 慶長十九年十一月二十四日、上杉勢が粛々と出陣した。

 先鋒は須田大炊介、彼は慶長五年八月九日に白石城を突然襲った伊達

政宗の二万の大軍を、三千の兵で守っていた梁川城で見事に撃退した勇将

であった。その時は若干、二十一才であった。

 それに後続し安田上総介、長尾権四郎、岩井備中守など上杉の誇る武将が

続々と出撃した。その中に杉原常陸介の率いる鉄砲隊が異彩を放っている。

 直江兼続が精力をこめた大筒隊も行軍している。

 先陣には上杉家の軍旗、毘と龍がひらめき、軍馬の嘶(いなな)きと甲冑の音

が聞こえるのみで、無言の将兵が闘士を秘めて景勝の前を行軍している。

 それを見つめる景勝の面上に、満足の色が刷かれている。

 謙信公以来、連綿と伝わった上杉勢の陣形には些かも乱れがない。

 一方、豊臣方は大和川の堤に堀を深くうがち、三重に柵を設け、鉄砲隊を

配置していた。守将は渡辺内蔵助、小早川左兵衛、山市左衛門、岡村椿之

助、竹田兵衛等であった。

 上杉勢は鴫野口に竹束でもって攻撃拠点を築いた。

 敵勢は前線に近づく上杉勢を、鉄砲隊でつるべ撃ちにしたが、それをものとも

せずに排除し、二十五日には攻撃拠点を確保した。

 この日徳川軍は春日井の堤を崩し中津川に押し流し、天満川の水を枯らし

た。 「兼続、総攻撃は明日じゃな」

 本営で情勢を眺めている景勝が兼続に訊ねた。

「左様、敵勢も必死なれど我等はこの堤を猛進いたし敵の柵門を破ります」

 夜になって双方の、探りの鉄砲の音が響いている。

 篝火が真昼のように焚かれ、火の粉が風に煽られ散っている。

 景勝は本営の幔幕の中で、沢庵を肴に豪快に酒をあおっている。

 敵の柵門から銃声が轟き、幔幕の中にも銃弾が飛び込んでくる。

 本営の警護の旗本が、景勝の身の廻りを固める。

「構わぬ。銃弾に当たって死ぬ景勝ではない」 と一蹴し酒を飲み続けていた。

 翌日の払暁から合戦が始まった。今福、鴫野の合戦は大阪冬の陣の最大の

激戦となった。豊臣方は三重の柵から猛烈に防戦を始めた。

 上杉勢の指揮は直江兼続であった。

 大和川の堤を上杉勢は猛進し、敵勢を鎧袖一触で追い払い大筒でもって敵

の柵門を二重まで押し破り、鉄砲隊を大和川から渡河させ西の堤防を確保し

た。喚声と怒号、それに悲鳴が交差し凄まじい様相となった。

 兼続は西の堤防に柵を築き味方の陣地を構築した。

 上杉勢の攻撃を合図に、天満北岸の今福の佐竹勢も戦闘に入った。

 味方の劣勢をみた豊臣方は、大阪城内から後藤又兵衛と木村重成が大軍を

率いて出戦した。双方の鉄砲隊が激突した。

 須田大炊介が猛烈果敢に後藤又兵衛を迎え撃って突き入れた。

 この攻撃を受け、さしもの後藤又兵衛も鴫野口から追われた。

 後藤又兵衛は兵を部署し、鴫野口より木村重成の応援に向かい今福へと

転戦した。その煽りをうけ佐竹勢が浮き足たった。

 佐竹義宣も戦国生き残りの将であったが、後藤又兵衛の攻撃に耐えかね、

上杉の本営に救援の急使を走らせた。

 兼続は杉原常陸介の鉄砲隊に救援を命じた。

 杉原常陸介の鉄砲隊が喚き声をあげ突貫し、後藤又兵衛の軍勢の横合い

から、猛射を浴びせた。これに驚いた後藤又兵衛と木村重成の豊臣勢は総崩

れとなった。その時、銃弾が後藤又兵衛の左腕を貫いた。

「後藤殿、傷はいかに?」  木村重成が顔色を変えて訊ねた。

 又兵衛は懐紙で血の滴る腕を押さえ、

「秀頼公の御運はまだ尽き候らわず、傷は浅手なり」 と平然と答えた云う。

 流石は戦国生き残りの又兵衛だけある、彼はその意地を見せ付けたのだ。

 これをみた大阪城から、大野修理亮治長、竹田永翁(えいおう)、木村主計

などが一万二千名の新手を率い鴫野口に軍勢を繰り出した。

 これには上杉勢も押された。この急場を支えた武将が須田大炊介であつた

が、大軍の前に押されぎみとなった。

 豊臣勢はその勢いで景勝の本営まで雪崩こんだ。

 直江兼続が愛の前立を煌かせ馳せ散じ、崩れかかる須田勢を二つに割っ

た。それを見た豊臣勢が勢いづいて襲いかかってきた。

 兼続の采配が振られ、杉原常陸介の鉄砲隊が一斉に火蓋をきった。

 その攻撃に驚いた豊臣勢に安田上総守の手勢、一千名が槍を揃いて突きか

かった。その勢いに大野修理亮の率いる大軍が総崩れとなった。

 見逃さず総攻撃の法螺貝が鳴り渡った、大阪方は一気に潰走し数百名が

討死したと云われる。その時、大阪城から大筒が撃ち放たれ、その轟音が

家康の本陣まで達した。家康は佐久間将監と久世三右衛門の軍監を景勝の

本営に差し向けた。

「御働きご苦労にござる。お味方の損傷も大きかろう、景勝殿はもとの陣に

お戻りあって、後は堀尾山城守に護らせたらいかがじゃ」

 と家康の口上を伝えた。それを聞いた景勝は憤然となった。

 彼は兜を深く被り、手に青竹をもって盛んに兵に指揮をしていた。

「弓矢の道は一寸増しと云うことあり、今朝より粉骨砕身して取り敷きたる

敵地を、他人に渡すということなるべきや。両御所の仰せなりとも、決して

離すべからず。景勝がかく申してこの場を一寸も退かずと、両御所へ聞こえ

上げ下され」 と答え床几から腰もあげようとしなかった。

 景勝はすたれ行く戦国武将の気骨を示したのだ。

 この日の戦闘は払暁より始まり、終日治まることはなかった。

 景勝は床几に腰を据え、青竹を持って敵城を睨み、わき目もふらず、全軍を

指揮した。敵味方はそんな景勝に軍神と言われた上杉謙信の姿を見たという。

 翌日、家康と将軍秀忠が、鴫野口に巡視に現われた。

 上杉勢は古例に則って、大阪城に向かって鉄砲をつるべ撃ちにした。

 その後、景勝は直江兼続一人を従え、家康の前に蹲踞(そんきょ)した。

 家康が会釈をして、 「昨日の奮戦、骨折りであった」 と慰労した。

 景勝は臆することも衒(てら)う様子もなく嘯いたと云う。

「あのような合戦は、児戯の喧嘩のようなものにござる」

 戦いのみに生きてきた景勝主従は、死命を決する戦国の世が終ったことは

実感していたのだ。

 翌年の元和元年の冬の陣には、京都守護を命じられ参戦できなかった。

 こうして景勝と兼続の最後の合戦は終ったのだ。    (完)







Last updated  Jan 31, 2009 03:04:07 PM
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Jan 30, 2009
カテゴリ:直江兼続
 

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      「上杉景勝と兼続の最後の合戦」(八)

 慶長十九年十一月九日、家康は諸大名に兵糧船と兵船を堺へ回送させる

命令を発し、二条城を出陣し奈良街道を南進し住吉の地に着陣した。

 一方、将軍秀忠は枚方(ひらかた)を経由して平野に陣を布いた。

 徳川軍約二十万余の軍勢に対し、大阪城に籠もる総兵力は約十万名であっ

た。彼等の多くは関ヶ原で合戦もせずに傍観した者や、改易となった大名の

浪人等であった。そんな中に異彩を放った男達がいた。

 真田幸村、後藤又兵衛基次等の浪人大将であった。

 彼等には豊臣家に勝ちみのないことを知っていたが、この合戦で天下に我が

武名をあげ、死花を咲かせようと馳せ参じた男達であった。

 若い時期から合戦に明け暮れてきた家康は、今年七十三歳となっており、

彼等の意気込みの鋭さを読んでいた。

 家康の戦略は堅固な城塞に籠もる、大阪方への力攻めを避け、淀殿をはじ

めとする女子衆を脅し、心理的圧迫を加え勝利を得る考えであった。

 家康は淀川本流をせきとめ天満川の下流の水量を減らし、大阪城の濠の

水位を低めた。

 これは大阪城の本丸が北にあり、それを守るように天満川と木津川が合流

し、天然の要害となっていた。

 その地形上の優位さを殺(そ)ぐ事が目的であった。

 案の定、淀殿はじめ女子衆は恐怖の眼で天満川の水位を見つめていた。

 この天満川を徳川勢が渡河する事態ともなれば、本丸が合戦の前衛となる。

 最も安全な本丸が、第一線の戦場に化すことになるのだ。

 戦を知らぬ女共め腰を抜かすであろう、家康はほくそえんでいる。

 更に老獪な家康は追いうちをかけた。豊臣家恩顧の大名である、四国、

阿波十七万石の蜂須賀家政に、大阪城と木津川を結ぶ補給路の要衝である、

穢多崎(えたさき)砦の攻撃を命じた。

 十一月十九日に蜂須賀勢の三千名が戦端をひらいた、これが大阪冬の陣の

始まりであった。突然の攻撃にさらされ砦が陥ち、大阪城の西の船場一帯が

徳川勢に支配された。蜂須賀家政は西本願寺の南御堂に本陣を構え、先鋒

大将である、中村右近は淡路町に陣地を構築して籠もった。

 その頃、戦端がひらいた報告を受け、景勝と兼続は作戦会談をもった。

「いよいよ我が家の出番じゃな」  景勝が青黒い相貌で口火をきった。

「殿、大阪城の西北には今福の地がござる、その南には鴫野(しぎの)がござ

る。この中の一つが我等、上杉の合戦場となりましょうな」

「どちらも厄介な地形じゃな」  景勝が低く呟いた。

「左様、どちらも大和川のふけ地にございます。敵はそこに柵を設け防御

しております」  兼続が見てきたように答えた。

「わしは、どちらでも構わぬ。今度こそ我が上杉の軍法の烈しさを見せてやる」

 景勝が嘯いた。事実、景勝は戦塵にあっては、秋霜烈日の気象をもった武将

であった。この気迫さえあれば将兵は恐れてついてくるものだ。

 直江兼続は景勝の戦場のありさまを、脳裡に彷彿させていた。

 景勝の本営を守る旗本は、槍を伏せてしわぶきひとせずに無言でうずくま

り、景勝の下知を待っている。他藩の武将は上杉家の軍団を無言の軍団

と評し、恐れていた。

「鴫野口の担当ならば厄介、地形は泥土で兵の進退が思うにまかせませぬ」

「兼続、その為に鉄砲隊がある。敵の柵なぞは大筒で粉砕いたせ」

 景勝がいとも簡単に云ってのけ、思わず兼続が苦笑を浮かべた。

 こうした時に家康の使者が上杉の本陣に訪れてきた。

「大御所のお下知をお伝えいたしまする。中納言さまには鴫野口を攻め取って

頂けとの仰せにございまする」

「・・・」 景勝が濃い髭跡の顔をみせ無言で肯いた。

「大御所さまに、お伝え願いたい。上杉勢は明朝に鴫野に攻めかかりますとな」

 傍らの直江兼続が代って答えた。

「畏まりました」  使者の武者も直江兼続のことを知っているようだ。

 言葉づかいも丁寧で興味深く兼続の顔をみつめている。

「お使者、今福攻略はどなたかな?」

「佐竹義宣さまにございます」  使者はそう述べて戻って行った。

「殿、佐竹殿と競争にござるな」

「埒(らち)もない、兼続、明日からの合戦を偲んで酒を酌もう」

 景勝が無愛想な顔つきを見せている、この合戦がこの戦国時代の最後とな

ろう、そんな感慨が二人の胸をよぎっていたのだ。          続く







Last updated  Jan 30, 2009 03:56:12 PM
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Jan 29, 2009
カテゴリ:直江兼続
 

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       「上杉景勝と兼続の最後の合戦」(七)

 それは上杉家と徳川幕府との密接な関係修復策であった。修復と云うよ

りも接近策が正しいかも知れない。

 その為に兼続は、幕府普請工事を財政の負担を覚悟し積極的に協力した。

 慶長八年には江戸市中の土木工事、十四年には銚子港工事、十九年には

米沢城下の造成中にありながら、越後高田城の築城工事にも協力を惜しま

なかった。こうした地道な取り組みで幕府の警戒はしだいに薄らいだ。

 兼続は家康の信頼の篤い、本多佐渡守正信に接近した。

 本多正信の次男の正重(まさしげ)を兼続は養子とし、長女のお松と娶わせ

た。この時期、兼続の長男の景明は十才であり、完全な政略結婚であった。

 この結果、正信は上杉家に非常な好意を示し、正信の尽力で軍役十万石の

免除などが実現するのだ。

 この養子となった正重の経歴は、なかなか面白いものであった。

 若い頃に刃傷沙汰を起こし諸国を放浪し、宇喜多秀家に三万石で召抱えら

れたが、関ヶ原合戦に敗れ浪人となり米沢城下に来ていたのだ。

養子となった翌年に、妻のお松が病死した。

 四年後、兼続は姪の阿虎(おとら)を養女として政重の継室としたが、兼続の

嫡男、景明が結婚するに及んで家督相続のいざこざを危惧し直江家を去った。

 政重は後に加賀藩主、前田利光(としみつ)に三万石で仕官し、本多安房守と

名乗ることになる。

 父の正信の威光であろう、阿虎も加賀に赴いた事は当然である。

 加賀前田家に移っても、政重は兼続と親交を続けた。

 こうして本多家を通じ幕府との関係を深めた上杉家にとり、名誉となる報せが

届いた、将軍公がご来臨するとのことであった。

 兼続は藩邸に将軍をお迎えする、御成門の造成工事を昼夜兼行で行った。

 慶長十五年十二月二十五日、多数の家臣を引き連れた将軍秀忠の来駕が

あった。これは外様大名の財源を消費させる、幕府の施策の一環であったが、

黄金の豪華絢爛たる御成門が、上杉家の桜田屋敷を飾ったことは、諸藩の

大名家から見れば特別の待遇と思われるものであった。

 直江兼続は景勝と軍勢の歩みを見ながら、当時を回想している。

 この度の大阪攻めは、兼続にとってこれまでの十四年の総仕上げであった。

 この合戦が、おそらく最後の合戦となろうと兼続には確信があった。

 この合戦以後、もう天下を決するような合戦はあるまい。

 謙信公以来の武の家としての上杉家の、名誉と尚武を示す機会はこの時し

かない。その思いは恐らく大阪城に籠もった浪人達とて同じことだろう。

 ならばお互いに華々しく武士らしい最後の戦いをしてやろう。

 直江兼続は傍らの主人、景勝の横顔をそっと見つめた。

 相変わらず兜を深く被り、眼庇から剽悍な眼差しで将兵等を眺めている。

 手には青竹を握っている、その横顔からは主人の感慨は推し量れない。

 景勝も同じことを考えていた。大阪城の浪人共は死に花を見事に咲かせよう

と、その意地のみで大御所に対抗し籠城しておる。

 己の武名を揚げ、一期の誇れにしょうと彼等は華々しい死を望んでいる。

 ならばとっくりと見てやろう、そして上杉の武とはどのように烈しいか、この

景勝と兼続が共に築いてきた、武の家の誇りが、どのようなものか大御所に

今こそ見せてやる。

 上杉家は謙信公以来の武名だけは残さねばならぬ、天下に恐れられ信頼

される為にも、この合戦場は格好の場所である。       続く







Last updated  Jan 29, 2009 02:14:45 PM
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Jan 28, 2009
カテゴリ:直江兼続
 

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      「上杉景勝と兼続の最後の合戦」(六)

 上洛を果たした景勝主従は、直ちに家康に謁見した。

 上座に天下人となった家康が肥満した体躯を脇息にもたれさせている。

 傍らには謀臣の本多佐渡守正信が控えていた。

 景勝と兼続は臆した態度もみせず、家康の前に平伏した。

「中納言、上洛が遅かったの」

 家康が垂れ下がった目蓋の奥から、鋭い眼光をみせ訊ねた。

「伊達、最上がうるさく上洛が遅うなりました」

 景勝が臆した態度も見せず、武骨な口調で謝罪した。

「わしに背いた罰とし改易も考えたが、この正信がうるさくての」

「大御所、我等は貴方さまに叛いた事実はござえませぬ」

「景勝殿、もう言い訳はよい」

 家康がくだけた口調で話しを遮った。

「わしが小山から、軍勢を返した時に国境から一歩も踏みださなんだ事を

愛で、反逆の罪は問うまい」

 家康は景勝の毅然とした態度に感銘をうけていた。流石は、戦国最強の

上杉謙信の血筋じゃ。その上杉家の家風への評価であった。

「じゃが、条件がござる。会津百二十万石は没収いたす。異存はござるまいな」

「あいや、お待ち下さい」  直江兼続が声をあげた。

「何じゃ、山城守」

「その後の上杉家は如何なりましょうや?」

「会津から直ちに、その方の米沢三十万石へ転封いたせ」

「有り難き幸せに存じあげます」

 兼続を制すように景勝が礼の言葉を述べた。

「中納言殿、転封はお帰りになったら直ちにお願いいたす」

 本多佐渡守正信が、しわがれ声で告げた。

「畏まりました」

 こうして減封のほかはお構いなしの処分で済んだ。しかし、転封までの期限

は厳しいものであった。米沢の町は会津から移った家臣達で大騒ぎとなった。

 この狭い米沢城下では、大勢の家臣達の住む家もなければ食う物もない。

 直江兼続はこの緊急の時に、人より大切なものはないと一軒の屋敷に入れ

るだけの家臣を住まわせ、炊き出しをして飢えを凌がせた。

 上杉家の家臣は棒禄を三分の一に削られたが、誰一人として他家に移る者

はなかった。それだけ主人景勝と執政兼続に魅力があったのだ。

 家臣等の生活や城下町の建設は、執政、直江兼続の仕事であった。

 景勝も兼続も徳川家康の高齢で近い将来、何が起こっても不思議はないと考

えていた。その為に優れた家臣を多く残して置きたかった。

 その一環として兼続は新城下町の造成の際、侍屋敷からはみ出した下級

藩士等、千四百戸を城下の東と南の郊外に住まわせ開墾に従事させた。

 所謂、屯田兵制度である。

 これらの藩士は原方衆と呼ばれ、薩摩の兵児(へこ)と並び称される頑強な

郷土集団となった。

 更に兼続は北方の最上、伊達勢の進攻に備えた新城下町の建設に取り掛か

った。まず本丸を中心とし、半径一里ほどの等距離の位置を選び、五十箇所

以上の寺院を築かせた。むろん一見したら普通の寺院である。

 しかし、兼続は寺院が城郭の働きをするように設計したのだ。

 本丸を守るように、円錐状にスキ間なく配置された寺院は、堅牢な楼閣とな

り、いざ合戦ともなれば、ただちに巨大な城郭の機能を果たすよう縄張りをし

た。また墓石にも工夫が施された。これを万年堂とも鞘石とも呼ばれ、内部

をくり貫いた立方体の塔に屋根をのせたもので、屋根を外し細木を通せば、

二人あるいは四人で簡単に動かせ、積み重ねれば石塁となり銃眼となった。

 こうした配慮をすると同時に、前にも書いたように火縄銃の密造にも意を

配った。更に、兼続時代に鋳造された直江釜と呼ばれる大鉄瓶があるが、

 これらはいくつか現存する。硬度が普通の鋳物の二倍もするので重いが、

 一朝有事の際には、鋳つぶして兵器の原材料にする為に、造らせたものと

伝えられている。こうした用意周到ぶりを示した直江兼続には、もうひとつ推し

進めた施策があった。                      続く







Last updated  Jan 28, 2009 03:06:15 PM
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Jan 27, 2009
カテゴリ:直江兼続
 

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        「上杉景勝と兼続の最後の合戦」(五)

 こうして東北の関ヶ原と言われた長谷堂城の合戦は終決した。

 だが景勝と兼続主従には、難問が待ち受けている。

 天上天下、ただ一家孤城となった上杉家の問題は徳川対策であった。

 徳川と云うよりも家康に対する対策である。

 十月十日、三十二名の城代と全ての諸将が若松城に召集され、重臣会議が

開かれた。恭順派と主戦派に別れ激論が交わされた。

 真っ先に主戦論の甘糟景継(かげつぐ)が意見を述べた。

「我等は義戦を行うべきです。常陸の佐竹殿と連携いたし上杉家の軍法の激し

さを見せつけとうござる」

「景継、関ヶ原で勝利した家康は天下を獲たのじゃ」

 景勝が剽悍な眼差しを甘糟景継に注いだ。

「大阪城には、秀頼公がおわします」

「豊家は並の大名家と成り下がったのじゃ。六十五万石に減封された」

 かわって直江兼続が言葉を発した。

「何とー」  主戦派の面々の顔色が変わった。

「よいか皆共、関ヶ原合戦後に改易された諸大名は八十八家に及んでおる。

それに減封が三家ある」

 兼続くの言葉に集まった者は声を飲み込んだ。

「なかでも馬鹿をみたのは毛利家じゃ、毛利輝元殿は大阪城に西軍の総帥とし

て入城いたしたが、関ヶ原には出陣されなんだ。だが、家康本営の北西の地、

南宮山には一門の吉川広家、毛利秀元、それに長宗我部盛親、安国寺恵瓊、

長束正家等の兵力、二万六千が高地に陣を布いていた」

 景勝が関ヶ原の陣形を説明し、一旦、口を閉ざし更に言葉をついだ。

「よいか皆共、この南宮山の兵力が一兵も動かなかったのじゃ。訳は簡単じ

ゃ。毛利一門の吉川広家が、内府に内応しておったのじゃ」

 吉川広家は毛利輝元の命と、本領安堵を条件に南宮山の諸大名の兵を

動かさぬと誓ったのだ。

「何と汚い遣り方じゃ」  一同から憤りの声があがった。

「我が上杉と違って今の合戦とは、このような戦いじゃ。家康は合戦に勝利

するや、毛利との約束を反故にいたし、百二十万五千石の所領を没収し、かわ

りに周防、長門の二ケ国三十万石に減封したと云うぞ」

 この家康の処置を恨み、長州は幕末に徳川幕府に反旗を翻すこととなった。

 歴史とは、かくも面白いものである。

 兼続の言葉に諸将は口を挟む者は居なかった。

「わしは兼続と和平の道を考える、事が破れた暁は江戸に攻め上る」

 景勝が濃い髭跡をみせて断じた。景勝の一言で重臣会談は決着した。

 諸将が大広間から去った。

「兼続、わしの考えはどうじゃ?」

「本多正信より、千坂景親に和平勧告がございましたな」

 兼続が落ち着いた声で訊ねた。

「そちに隠し事はならぬな」

「本多正信、信用出来まするか?・・・奴は希代の謀臣にござるぞ」

「家康が我家と戦う気持ちがあるか、少なくても我家は家康に貸しがある」

「殿は白河口の事を仰せか?」

「そうじゃ、合戦を仕掛けられ防衛せぬ武将がおるか?・・・あれはその処置

じゃ。家康が軍勢を反転させた折、我等は国境から一歩も踏みださなんだ」

「殿、その事に賭けてみましょう、それがしは結城秀康殿と昵懇なれば、

彼のお人にすがろうと考えます」

 兼続にも家康が折角、勝ちとった天下を再び戦乱の世を戻すことを望んで

いないと悟っている。もし、上杉家が徹底抗戦をすれば、全国の浪人が群り

この会津に馳せ向かであろう。

 そうなれば徳川家の天下も危うくなる。

 こうして直江兼続と上方の千坂景親の懸命な奔走で、家康は景勝と兼続に

上洛を命じてきた。

 翌年の慶長六年に、景勝と兼続主従は武勇の家臣と上方へと旅立った。

 二人の胸には共通の思いがあった。

 謙信公、弓箭(きゅうせん)の遺風を天下に知らしめる。この言葉が二人の

暗黙の了解事であった。







Last updated  Jan 27, 2009 03:09:08 PM
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Jan 26, 2009
カテゴリ:直江兼続
 

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       「上杉景勝と兼続の最後の合戦」(四)

 家康本軍は下野の小山から関ヶ原へと去ったが、会津の背後の信夫(しの

ぶ)口には、伊達政宗が、米沢口には最上義光が虎視眈々とし狙っていた。

 先に動いたのは最上義光であった。彼は秋田実季(さねすえ)と組んで、

上杉領の酒田城攻撃の動きをみせたのだ。

 最上義光は庄内、米沢を己の領土としたい野望を抱いたいた。

 一方の上杉家は、会津、庄内、佐渡と領土が分れており、合戦ともなると

不利な状況であり、その為にも最上領を占拠し背後の憂いをなくしたいと思っ

ていた。酒田城の守将は志駄義秀で三千の兵力で守りを固めていた。

 直江兼続に最上進攻の命が景勝より下った。

 九月九日、直江兼続は三万の精鋭を率い、米沢城から出陣した。

 従う諸将は春日元忠(もとただ)、色部光長(みつなが)、水原親憲(ちかのり)、

上泉泰綱(やすつな)、前田慶次等の猛将であった。

 途中から酒田城の志駄義光が加わってきた。

 目指すは山形城の支城畑谷城である。九月十三日に上杉勢は畑谷城を

包囲し、鎧袖一触で攻略した。最上勢の首級三百五十余を討ち取っての大勝

利を揚げ、余勢をかって山形城の支城長谷堂城に迫り、瞬く間に包囲した。

 この城は山形城の要ともゆうべき支城で、義光の重臣の鮭延秀綱(さけのべ

ひでつな)が守りを固めていた。 時に慶長五年九月十五日であった。

 これが有名な長谷堂城の攻防戦である、この合戦が後年、東北の関ヶ原と

呼ばれることになる。

 長谷堂城包囲の知らせを受けた最上義光は愕然とした。長谷堂城が上杉勢

に降れば、本城の山形城は孤城となる。

 最上義光は伊達政宗に救援要請をしたが、政宗は叔父の留守正景を救援

に向かわせたすぎなかったが、最上勢の必死の抗戦で戦線は膠着した。

 そうした最中に曲者の伊達政宗が動いた。

 政宗は二万の大軍を擁し、福島城攻撃の為に飯坂に陣を布いた。

 福島城は謙信公以来の猛将、本庄繁長が守将として詰めていた。

 彼の指揮下には、あらたに召抱えられた蒲生家浪人岡左内がいた。

 直江兼続は伊達勢の攻撃の報せを受け、水原親憲、甘糟景継の二将に

六千の兵を授け福島城の援軍として派遣した。

 こうして松川合戦が始まった。この合戦での岡左内の活躍は目覚しいものが

あった。彼は敵の大将、伊達政宗に一太刀浴びせる働きを示したのだ。

 この合戦で伊達勢は千二百九十名もの被害を出して敗退した。

 だが依然として長谷堂城は健在であった。直江兼続が長谷堂城を包囲した

日に、関ヶ原で西軍と東軍が激突し、わずか半日で家康率いる東軍が勝利し

ていたが、ここでの両軍は知らずに戦っていたのだ。

 若松城で景勝が石田三成の敗戦の報せを受けた日が、九月二十八日であ

る。最上義光と伊達政宗の許に、この報せがもたらされた日が二十九日の

早朝であった。

 兼続は知らず明日に陣替えをして決戦場を北に移す軍議を開いていた。

 その晩に、景勝から西軍の敗報と軍勢の撤退命令を受けたのだ。

 こうしてみると運命の悪戯を感ずる。

 兼続は諸将を招集し、西軍の敗戦を伝え撤兵命令を下した。

「先陣は色部光長、そちは兵二千名でもって狐越街道を先行いたせ」

 と命じた。この狐越街道は狭隘で知られた難路である。

「水原親憲、前田慶次、両名は殿軍を命ずる。本隊が退くと最上勢の追撃は

烈しくなろう、心いたし殿軍の任務を果たせ」

 直江兼続の戦術は巧緻であった。まだ関ヶ原の敗戦を知らぬように構え、

最上勢が勢いを盛り返し攻め寄せることを予期し、前衛に馬防柵を連ね、

各隊から引き抜いた鉄砲隊、千名を配置につけていた。

 兼続の読みどおり、最上勢が息を吹き返し報復の勢いで攻め寄せてきた。

「放てー」 各隊の将の命令で千挺の火縄銃が一斉に火を吐いた。

 猛烈な銃撃をうけ、最上勢が総崩れとなり後退した。

 上杉の陣地は篝火が真昼のように焚かれている。そうした中で部隊は足音を

消して後退していた。翌日の十月一日、陣屋に火を放ち全軍が退却を開始し

た。猛追してくる最上勢を防いだのが、水原親憲と前田慶次であった。

 敵将の最上義光は、兜に銃弾を受け、ほうほうの呈で後方に退いた。

 こうして上杉勢は無事に十月四日、米沢城へと撤兵を終えたのだ。

 合戦においては攻撃よりも、数段、困難を極めるものは撤兵であるが、

直江兼続は見事に、その任務を果たしたのだ。

 この撤退作戦を見ても、彼の非凡な一面が知れる一事であった。

                              続く 







Last updated  Jan 26, 2009 03:12:40 PM
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Jan 25, 2009
カテゴリ:直江兼続
 

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        「上杉景勝と兼続の最後の合戦」(三)

 あの日、小山の家康の本営がなんとなく慌しく感じられた。

 そうした最中に石田三成より火急の使者が訪れ、関ヶ原の挙兵の報せが

もたらされた。今こそ好機と兼続は主人の景勝を訪れた。

「殿、家康は撤退しますぞ、狸が動きだしたら追撃に移りましょうぞ」

「兼続、わしは軍勢を動かさぬ」  景勝が信じられない言葉を吐いた。

「何故にござる」

「・・・・」 景勝は髭跡の濃い顔を厳しくしたまま虚空を睨みすえている。

「今が、好機にござる」

「背中を見せる敵勢を我が義父(謙信)ならば、どのように扱うかの」

「・・・」 直江兼続は、それを聞いて言葉を失った。

「よいか、家康が小山を転進いたしても、我が上杉は一兵たりとも国境を踏み

出してはならぬ。これはわしの厳命じゃ」

「無念」 と直江兼続は思った、追撃戦なれば間違いなく勝てる。

 東軍の徳川勢が西に向け動きだしたが、上杉勢は景勝の厳命で一歩も動か

なかった。上杉勢三万の精鋭はついに長蛇を逸したのだ。

 最早、天下を争う時代は終った、そう思いながら景勝は去り行く徳川勢を見つ

めていた。あの時の思いは、追撃を進言した兼続と、それを許さなかった景勝

も同じ考えをもっていたのだ。

 二人には次ぎの天下人が、誰であるかはっきりと判っていたのだ。

 太閤秀吉の天下を継ぐ者は、上杉景勝でもなく、まして石田三成でないこと

を、天下の諸大名を帰服させる事の出来る器量人は、悔しいが徳川家康しか

いない。これは衆目の認めるところであった。

 敵が背中を見せるところを攻めるなんぞは、義を尊ぶ謙信公以来の武の

家柄の上杉家は出来ない。そう景勝は云った、その景勝の胸中は兼続は手に

とるように分っていた。

 石田三成が糾合して味方に引き入れた諸大名の、大半が徳川家康に調略さ

れている事実は、江戸留守居役の千坂景親から逐次報告がもたらされてい

たのだ。もし石田三成が勝利を揚げても、それは一時の事で再び戦乱の世に

なることは明白であった。

 直江兼続は景勝の意を汲み、軍勢の解散を命じ景勝と若松城に退いた。

 酒好きの景勝は居間で大杯をかたむけている。

 その前で兼続も杯を口に運んでいた。

 あいも変わらず景勝は漬物を肴としている。

「殿、何故に兵を引きました」

「わしは合戦においては内府に負けぬ自負はある、じゃが治世の腕前は到底、

内府には及ばぬ」 景勝は悪びれた態度もみせず言い放った。

「そのようなお考えでございましたか」

 そう応じながら兼続は、景勝が己の分をわきまえる態度が嬉しく思われた。

「ならば、次ぎの策を練らねばなりませぬな」

「兼続、関ヶ原の合戦は長引こう、わしは曲者の伊達政宗を攻める覚悟じゃ」

「会津の背後を脅かす曲者、面白うござる。だが最上攻略が先にございます」

「分っておる。そちが総大将となって最上義光の本城の山形城を占拠いたせ」

 景勝が沢庵漬を口にし、小気味よい音をさせた。

                                続く 







Last updated  Jan 25, 2009 03:24:40 PM
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Jan 24, 2009
カテゴリ:直江兼続
 

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      「上杉景勝と兼続の最後の合戦」(二)

 直江兼続はその地で軍容を調え、景勝の閲兵を仰いだ。

 先手勢は黒金孫左衛門、須田大炊介(おおいのすけ)、安田上総介、

水原親憲。その後に上杉家の誇る宿将等二十名余が騎乗し家士を率いてい

た。景勝は甲冑姿で床几に腰を据え、青竹を片手に剽悍な眼差しで見つめて

いる。小旗差、鉄砲隊、槍隊、弓隊、御手明組が隊列をなして陸続と連なり、

その周りを屈強な騎馬武者が固めている。

 なかでも異彩を放っているのは、兼続の直属の与板衆であった。

 この合戦の為に、上杉勢は七百挺余の鉄砲隊を参加させていたが、この中

に兼続が特に目をかけ育てた、大筒組の黒光りする、火縄銃五十挺の偉容は

辺りを圧倒する迫力があった。

 何故に上杉勢がこのような鉄砲隊を持っていたのか。その訳は上杉家が

会津より米沢に転封された時、兼続はかねて上洛の際に密かに接触してい

た、近江の国友村の吉川惣兵衛、和泉堺の和泉屋松右衛門の二人の鉄砲

張師を、二百石という高禄で召抱え、城下から四里の吾妻山中の白布(しらぷ)

で鉄砲の密造をさせたのだ。

 慶長九年には千挺の鉄砲を製造した。この年は家康が江戸で幕府を開いた

翌年であり、何ゆえに兼続が急いで作る必要があったのかは疑問である。

 伊達政宗や最上義光の侵攻に備えたものか、あるいは徳川方と豊臣方の

決戦が勃発すると予見してのものか、兼続の胸中は謎であった。

 この白布で製造された火縄銃の種類は、十、十五、二十、三十匁であった

が、兼続は五十匁の大筒も作らせていた。この匁とは弾丸の重量の事で、

十匁の場合は、三十八グラムと云うことになる。

 この当時の大筒とは、五十匁以上をそう呼んでいた。

 こうして上杉家の大筒隊の偉容は諸大名の鉄砲隊を凌駕するものであった。

 兼続は愛用の薄浅葱糸縅最上胴具足を纏い、黄金の愛の字の前立て兜姿

で景勝の脇に控えていた。

 具足の音、馬蹄の轟きが躯の血潮を沸き立たせている。

「あれから、もう十四年になるのか」

 兼続の脳裡に家康率いる、会津征伐軍の大軍が蘇っていた。

 あの時は慶長五年であった。会津の白河口に家康を誘い込み、東軍を殲滅

させる、景勝、兼続の戦略は万全であった。

 その瞬間と、あれから過ぎさった歳月が一瞬の光芒となって奔りぬけた。

 傍らの主人の景勝は、兜の庇(ひさし)から剽悍な目つきで通り過ぎる将兵を

眺めている。兼続の智謀をもってしても、図りがたい顔つきをしている。

 あの場合もそうであった。兼続は不思議な思いをこめ主人の横顔を見つめ

た。突然、毘と龍の旗指物が風を受け大きくはためいた。

 上杉家が誇る尚武の印しの戦旗である。

 この日、大阪方の城兵が天王寺に放火し、聖徳太子以来の仏閣が吹きすさ

ぶ烈風に煽られ、堂塔伽藍がことごとく焼失し焦土と化したのだ。

 あの日も風の強い日であった。               続く
  







Last updated  Jan 24, 2009 03:22:14 PM
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Jan 23, 2009
カテゴリ:直江兼続
 

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      「上杉景勝と兼続の最後の合戦」

 慶長十九年十月五日、上杉中納言景勝は領国の米沢から江戸に向かってい

た。一行が下野(しもつけ)の鍋掛に着いたとき、将軍秀忠より急使が届いた。

 それは豊臣秀頼討伐のために、江戸に来会せよとの下知であった。

「とうとうその時がきたか」 

 青黒い相貌に濃い髭跡をみせ景勝は独語した。大阪攻めが決行されるとは

噂で知っていたが、聞かされると胸が騒いだ。

 合戦のみに生きてきた景勝には、この合戦で死命を決する戦国の世が終る

と予感していたのだ。

 景勝は米沢にいる執政の直江山城守兼続に急使を走らせ、直ちに国許の兵

を率い追いつくように命令を下した。

 景勝の書状を受けた、直江兼続は平林正恒(まさつね)に命じ諸軍団の

軍役を定め、領内に触れをだし国境の七口の守備を命じ、十六日を期して

上杉勢の精鋭を率い、米沢城を出陣した。

 景勝は九日に江戸に着き、十二日に将軍秀忠に謁見し、伊達政宗、

佐竹義宣(よしのぶ)と共に征討軍の先鋒を命じられた。

 兼続は江戸に向かう道中で江戸留守居役の、千坂対馬守景親(かげちか)に

急使を走らせ、さまざまな指示を与えていた。

 二十日、伊達政宗率いる伊達勢が先手として江戸から出陣した。

 派手な甲冑姿の騎馬武者、七百騎、総勢一万八千名余の軍勢である。

 景勝は二番手として江戸を出立したが、景勝の手勢は杉原常陸介親憲(ちか

のり)以下数百名に過ぎない小勢であった。

 江戸留守居役の千坂景親が、これを心配し兼続の指示を仰いだ。

「我が家は謙信公以来の尚武の家じゃ、殿、お一人でもご出陣しかるべく候」

 と叱咤した。

 大御所の家康は、既に十一日に駿府城を出陣していた。

 家康は甲冑を着けず、鷹狩りの衣装で、本多正純(まさずみ)、伊奈忠政、

松平正綱、永井直勝、浅井元吉などを従い、総勢わずか一万余で悠々として

西に向かっていた。

 二十日には、将軍秀忠も江戸城から出陣するという情報が入っていた。

 行軍遅れは武の家の上杉家の恥辱である、それ故に兼続は急がせたのだ。

 兼続が率いる、上杉家の本隊は三河の藤沢で景勝の先発隊と合流した。

 本隊に遅れて米沢を発った別動隊は、信濃路を通って東海道で本隊と合流

し、十一月六日に山城の地、木津で軍揃いおこなったのだ。

 こうしてようやく上杉勢は総勢九千余名の大軍となった。      続く 







Last updated  Jan 23, 2009 02:49:50 PM
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