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長編時代小説コーナ

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戦国雑記。

May 6, 2009
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カテゴリ:戦国雑記。
 

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      「織田信長を考える」(最終回)

 信長の考案した方面軍制度は、画期的な成果を現していた。

 だが、それは信長にとり諸刃の剣であった。

 あの武田信玄でさえ、甲斐を治め信濃攻略を終え、念願の駿河を手に

するのに二十数年の年月を要している。しかも自ら陣頭にたっての結果で

あった。それに比べ、信長は安土城から各軍団に命令指示を与え戦果を拡大

していた。それぞれの軍団長は自分の直属部隊に、信長から与えられた与力

大名の兵を傘下とし、二万から三万の軍勢を擁している。

 これは一昔の有力戦国大名に匹敵する大兵力である。信長から見れば自分

の配下であるが、方面軍の中では軍団長は主人に等しい権限を有していたの

だ。それだけに信長は彼等の扱いを慎重にしなければならなかったが、信長は

そうした配慮の一欠けらも見せなかった。

 天正八年一月には、播磨の別所長治の三木城を羽柴秀吉は兵糧攻めで

長治を自害に追い込んで攻略していた。有名な「三木の干殺し」である。

 三月には五年間も続いた石山本願寺が、正親町天皇の調停を受け信長の

和睦を受け入れ、四月九日に顕如は本願寺から紀伊雑賀の鷺の森に退去し、

それに反対した新門跡の顕如の子、教如も七月に信長と誓紙を交わし雑賀に

去った。その際、本願寺から火が揚がり三日間にわたって燃え続け全てが

灰燼に帰したのだ。十一月には北陸方面軍の柴田勝家が加賀一向衆を鎮圧し

首謀者、十九人の首級を安土に送っている。

 こうして信長は念願の古い権威の象徴であった、一向一揆を全て鎮圧した。

 まさに武装教権の最後であった。話は前後するが信長は八月に織田家の

諸将等が戦慄することを実行したのだ。まさに青天の霹靂であった。

 信長はわざわざ大阪に出向いて、自筆の十九条の折檻状を宿老の佐久間

信盛親子に突きつけ、追放を申し渡したのだ。

佐久間信盛は、弘治二年の信長の弟の信行擁立事件の時から、首謀者の

柴田勝家に対抗し信長を支持してきた歴代の重臣であった。

 その宿老を石山本願寺を五年間も落とせなかったという理由のみでで追放す

るとは、余りにも非道すぎる処置であった。

 宗教戦争ともいうべき戦いに勝てなかったとはいえども、それは信長の所為

であり、非を老臣に押しつけるとは、家臣への情も人の心も無視した態度であ

る。佐久間親子は取るものも取りあえず高野山に登ったが、さらに追いうちを

かけるように、高野の住まいも許さぬと云われ、二人は紀伊熊野の奥に逐電し

翌年の七月に大和十津川で信盛は死亡した。

 歴代の功臣と云えども、臣下は臣下、今の信長に益をもたらせない者は一人

もいらぬ。そうした苛酷な行動に家臣一同は震いあがり戦慄した。

 こうした処罰を終え京に戻り、佐久間より上席家老の林佐渡をも追放したの

だ。理由は弘治二年の信行事件に、連座した科であった。これには佐久間の

追放を諫言した罪もあった。その追放劇は林佐渡だけでなく、安藤伊賀守父

子、丹羽右近の二人にもおよんだのだ。

 その訳は甲斐の武田勝頼の攻略と、中国攻めに対する組織の締め付けを

目論んだ処置であったようだが、結果的に信長は大いなる失敗をしたのだ。

 天下を制覇するということは、味方を広げることであるが、側近中の側近で

信長の幼少時代から自分につくしてくれた老臣までも敵にするようでは、天下

制覇なぞ望むべくもない。信長はこうしたことで遣れると判断したようだが、

人間とし無知であり、極端なほど自信過剰に陥っていたようだ。この事が結果

的に信長の運命を塞ぐことになるのだ。

 あれだけ先見眼をもち、革新的な施策を持った男が部下の心理を見透かす

ことが出来ないことが不思議である。生まれついての殿さまはやはり、そうした

者なのか、そうは考えても、武田信玄や上杉謙信等は家臣の配慮に気配りし、

その為に家臣は絶対的に忠誠を誓っていた。

 方面軍団長で織田家の譜代でない武将達の心境は、どうであったのか。

 こうした信長への不審感は、織田家の諸将等になにをもたらしたというのか。

 非道な主人で云うなれば覇王である、何時なんどき自分の身に降りかかるか

疑心暗鬼となった事は推測に値する。そうした感情を心の底に鬱積させた武将

等は、信長への忠誠心を薄れさせ、ただ命令に忠実たらんと思うことは当然の

事であろう。それは言葉を変えれば、織田家への忠誠心も薄まることであった。

 こうして運命の天正十年を迎えることになる。

 三月二日、信長の嫡男信忠が信濃伊那郡の高遠城を攻め、城主で勝頼の

弟の仁科盛信が自害した。これを知った勝頼は篭城戦を断念し、完成まもない

新府城に火を放ち、小山田信茂の岩殿城へと逃亡した。

 だが小山田の裏切りで天目山へと避難中に、織田勢の滝川一益の軍勢に

包囲され、田野の地で一族郎党四十名と自刃して果てた。

 こうして平安末期から甲斐を支配してきた武田家は滅亡した。

 信長は駿河一国を徳川家康に与え、信濃、西上野を滝川一益に分与した。

 家康は駿河を貰った礼として、安土を訪れていた。その接待役を明智光秀

に命じた信長は、光秀の接待が気に入らず、秀吉の中国遠征軍への参加を

命じられた。その上、毛利の領土である石見、出雲の二カ国をあたえ丹波、

近江を召し上げるとの上意を受けた。

「来るものが来た」と、光秀は思ったに違いない。

 自分が松永久秀や荒木村重、佐久間信盛、林佐渡と一線に並んだと光秀は

実感したのだ。こうして六月二日の運命の日を迎えることになる。

 京の本能寺に宿泊した信長は、明智光秀の軍勢に急襲され、四十九年の

生涯を閉じることになる。ここで信長の天下布武の覇業は一挙に挫折した。

 余りにも人間という生き物の心を知らなかった男の生涯である。

「織田が搗き 羽柴がこねし天下餅 骨も折らずに食らう徳川」

 こうした狂歌がある。筆者はそうだとは思わない、信長は乱れた天下を

治めようとしたのではない。彼は新しい原則による天下統一を考えていたの

だ。たが人々は信長の革命を望まなかった、戦乱に疲れたきった人々は、

泰平の世を求めた。秀吉がそれに応じ、家康が秩序ある世界を創造したの

だ。そうした天下が出来たことは、信長の人を知らない無知にあったと考える。

 普通の大名家ならば光秀を破った秀吉も、織田家の忠臣となり天下を望むよ

うな事をしなかったであろうが、彼には心底から信長と織田家への忠誠心が無

かったと筆者は考える。

 信長の死は織田家の、家臣の頭上から覇者の重石を取り除いたのだ。

 今こそ主人に代って天下を取る、そうした空気となったのではなかろうか、

事実、秀吉にも勝家にも天下を望むだけの軍事力を擁していた。

  清州会談などは、織田家の天下簒奪を目論む会談に見えてくるのは筆者

一人であろうか。

                            完











Last updated  May 6, 2009 04:54:54 PM
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Apr 30, 2009
カテゴリ:戦国雑記。
 

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        「織田信長を考える」(二十六)

 その頃、ようやく志摩の波切で七隻の甲鉄船が勢ぞろいしていた。

 これが信長が毛利水軍に対抗しようと建造させた甲鉄船であった。

 この船には大鉄砲(大砲)三門が搭載されててた。今でいうなら戦艦であろう。

 この歳の六月に甲鉄船七隻は、熊野灘に押し出し、大阪表へと出港した。

 率いるは九鬼水軍の九鬼嘉隆である。十一月に甲鉄船は木津河河口に到着

した。ここに石山本願寺の警護船、五百隻が迎撃してきた。

「九鬼嘉隆殿、敵船を寄せ付け愛し候ふ様に持なし、敵船あまた打ち崩し候」

 信長公紀にはこう書かれている。この敗北で本願寺は強力な九鬼水軍に

手が出せない状況となった。海戦後に七隻は堺に入港した。

 イエズス会の宣教師、オルガンティノは、この甲鉄船を見てこう語った。

「こんな船はヨーロッパでも見たことはない」と驚嘆したという。

 秋に毛利水軍、六百隻が本願寺救援にやってきた。四時間の海戦で甲鉄船

は敵の船を引き寄せ、旗艦とおぼしき船に大鉄砲の一斉射撃で粉砕した。

 毛利水軍の得意な焙烙火矢もなんの効果もなかった。こうして毛利水軍は

なすべくもなく破れさった。この甲鉄船と大鉄砲の併用は、信長の革新的な

戦略であった。あの長篠合戦で日本最強といわれた武田騎馬隊を鉄砲の

大量投入で壊滅させた、システム発想と同じ方法あった。
 
 村上水軍の寄せ集めの毛利水軍は、武田騎馬隊と同じくばらばらに戦い、

そして壊滅したのだ。

 鉄砲や甲鉄船による革新戦略は、何よりも信長の先見眼であった。

 焙烙火矢に弱いならば、火に強い船を作れば良い、そうした発想で不可能

を可能にする考えを常に信長は持っていたのだ。

 後年、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵時、朝鮮の全羅左道水軍の亀甲船に日本

の水軍は各地で破れ、補給物資の欠乏を見ることになるが、第二次朝鮮出兵

でも秀吉は、日本水軍の増強をなにもをやってない、もしは禁句であるが信長

存命ならば必ず、朝鮮水軍に対抗しうる水軍の創設を図ったと思われる。

 こう考えると信長の革命児としての能力の一旦を窺がい見ることが出来る。

 この海戦以後、信長方の海上封鎖はより徹底し、本願寺は窮地に陥ってゆ

く。これと同時進行で有岡城の攻撃が熾烈をおび、遂に荒木村重は嫡男の村

安と尼崎城に落ち延びてゆくが、村重一族三十名が京の六条河原で処刑され

た。尼崎では従者五百名が焼殺された、これを命じられた武将が滝川一益

である。村重は十二月に花隈城に移るが、これも落城し毛利家を頼って落ち

延びた。この時期を境とし、信長の天下布武は更に激しさを増して行くのだ。

 翌年の六月二日、丹波攻略を指揮していた明智光秀が八上城の波多野兄弟

を降伏させた。光秀は前年の三月に丹波に攻め込み、八上城を包囲した。

 そんな時期に荒木村重の謀反が発覚し、光秀は一部の兵を残し摂津へと向

かった。

 そして十二月に再び丹波に入った光秀は、厳重な包囲網を構築したのだ。

 籠城も長期に渡ると兵糧が欠乏し、城内に餓死者が続出する。

 光秀は波多野兄弟の命を保証する意味で、自分の母親を波多野城に人質と

して差出、波多野秀治、秀尚兄弟を伴って安土城へと護送した。

 信長は光秀の取り成しにも係わらず、これまでの波多野兄弟の裏切行為を

責め両人を磔とした。

 その処刑に怒った八上城の城兵は光秀の母を磔としたのだ。

 ここでも信長の苛烈な処罰が行われたのだ。さぞ光秀も臍を噛んだであろう。

 それでも光秀は丹波攻略に専念し、八月には黒井城、ついで丹後の弓木城

の一色義有と講和をし、十月二十四日に丹波、丹後の制圧を信長に報告

した。その効により、明智光秀は翌年の八月に丹波一国を与えなれた。

 光秀にとり、何とも形容できない抜擢であったであろう。

 その頃、信長は征服地の、領主や国人に指出(さしだし)を命じていた。

 これは単なる土地の検地ではなく、百姓、一人一人に至るまで調べあげる
 
徹底的な方法であった。それは兵農分離の前提としてのものであった。

 征服地の領主、国人からいったん土地を取りあげ、改めてと知行制で給付

して年貢を取り立てる者と、取り立てられる者を明確としたのだ。

 こうして専用武士団を土地から、切り離したのだ。

 更に信長は世界で五十年から百年前をゆく兵制改革を考えていた。

 それが現在の方面軍組織の確立であった。

 東部戦線の軍団長は、上野の滝川一益。北部戦線の軍団長は柴田勝家。

 西部戦線の軍団長は、備中の羽柴秀吉。畿内には織田信孝、丹羽長秀。

 阿波の軍団長は、三好康長。近畿、山陰の軍団長には、明智光秀。

 こうした中でも、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益、羽柴秀吉

の五人が、織田家の中枢の軍団長と評価されていた。

 この五人のうち織田家譜代の軍団長は、柴田勝家と丹羽長秀の二人だけで

ある。彼等五人の方面軍司令官は、信長側近の秘書や官吏と連絡を取りなが

ら使命を果たすことになった。

 この組織こそが信長の信長たる、革新的な最後の施策となるのだ。

 だが信長は、余りにもそれを徹底しすぎ、自分の直属部隊を置かずに、

方面軍に廻したために、墓穴を掘ることとなるのだ。

                         最終回に続く







Last updated  Apr 30, 2009 05:17:45 PM
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Apr 28, 2009
カテゴリ:戦国雑記。
 

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        「織田信長を考える」(二十五)

 この時期、信長が最も恐れた男は上杉謙信であった。彼は三国峠を越え、

関東に乱入し、関東の国人や大名の軍勢を加え総勢十万名という大軍で

小田原城を包囲したことがある。

 幸いに今回は引きあげたが、関東から上洛の軍を起こせば信長はひとたまり

もあるまい。あの信玄でさえ三万余の軍勢で上洛を計ったのだ。

 今度は謙信は必ず関東の諸大名を引き連れ、上洛してくるであろう。

 幸いにも今回は帰国し、上洛軍を発するのは来年の雪解けまで待たねばな

るまい。その前に天下布武を急ぐ、信長は羽柴秀吉に播磨出陣を命じた。

 十月二十三日、秀吉は中国の毛利家攻略のために京を発ち、播磨に出陣し

た。秀吉は信長に降った黒田(小寺)孝高(よしたか)の姫路城に入り、播磨の

国中をめぐり諸豪族等に誘降し人質をとり、一ヶ月足らずで西播磨を支配下

に置いた。だが西播磨の豪族で上月城の、赤松政範(まさのり)は簡単に屈せ

ず、毛利と結び備前の宇喜多家と連携を強め抵抗した。

 秀吉は対抗上、上月城を包囲し救援の宇喜多勢を撃退し、上月城に総攻撃

をかけ、十二月三日に城を占拠した。

 上月城は備前美作に近く、その後は織田の中国攻めの前進基地として最重

要拠点となってゆくのだ。この上月城に秀吉は信長の許しを得て、尼子勝久、

山中鹿之介を守将としたが、翌年の七月に信長の非情な命令で毛利勢の重囲

の中に置き捨て全滅させるという悲哀を味わうのである。

 尼子勝久と山中鹿之助は、尼子家再興を夢見て信長の配下に従ったが、

毛利の大軍に包囲された。それを救援せんとする秀吉に別所長治の三木城

を優先するよう信長は命じ、結局、信長によって尼子主従は見殺しとされたの

だ。この為に秀吉の信用は失墜し、中国攻めに多大な支障をきたすことになっ

た。信長はそのへんの家臣等の苦衷など察せず、大名に取り立てたの余

である。文句なぞ言わずに働け、と自分の目的意識を優先させ家臣の都合に

は目をそむけ弁明も聞かなかった。

この信長の考えは尾張の小大名時代の感覚であった。

 少なくとも中国攻めの総大将ならば、与力大名の兵を加え二、三万名

ほどの大軍を率いる一手の大将である。

 彼等は軍事力と政治力を駆逐して事にあたっていたのだ。

 要は彼等は信長の家臣であるが、地方の国人や豪族から見れば戦国大名

に等しい力を擁していると見られていたのだ。その彼等の苦衷を無視する

信長という主は家臣等が大きく成長したことを知らなかった。

これが後に彼の命運を制することになるのだ。

こうして天正五年が暮れ、六年を迎えた。

 この年の一月二十九日に、居城の安土城下から出火が起こったのだ。

 その調べで弓衆の福田与一家から失火したと判明した。彼は妻子を尾張に

残した単身赴任者と判明した。

 それに信長は激怒した。全ての家臣は安土城下に移住すべく厳命を出してい

たのだ。それは強力な専業武士団の結成を目指したものであった。

 それは信長直営軍団の常設を意味していたのだ。

 信長は岐阜の嫡男、信忠に命じ単身赴任者を調べさせた。なんと弓衆六十

名、それに馬廻衆にも六十名が単身赴任者としれた。

 信長は尾張に妻子を残してきた住居を全て焼き払わせ、樹木まで全て伐採さ

せた。その結果、妻子はほうほうの呈で安土城下に引っ越してきた。

 こうした事に忙殺されていた信長に、謙信病没の報せがもたらされた。

 三月十三日に、信長が最も恐れた謙信が脳溢血で忽然と逝ったのだ。

 この報せに信長は自分の幸運を知ったのだ。最早、恐いものは居ない。

 だが、そうは甘くはなかった。十月十七日に信長は耳を疑う報せを受けた。

 それは摂津、有岡城の荒木村重、謀反の報せであった。

 この有岡城が毛利家と通じたのだ、この摂津有岡城が毛利勢と連携すれば、

信長の描いた中国攻めも、光秀の丹波地方の攻略も無に帰する。

 荒木村重は織田家股肱の家臣ではない、信長に発見され磨きあげられた

武将であった。文武の才をもった武将で明智光秀とは馬があった。

 村重の配下には、クリスチャン大名で名高い高山右近や、槍の瀬兵衛と異名

される中川清秀など、天下に聞こえた武将等が居た。

 中国最大の勢力を誇る毛利家は、播州の三木城を最前線として織田家と戦

っている。この荒木村重の謀反は摂津が毛利の最前線となると云うことであ

る。その謀反の原因は些細な事であった。村重の家来が兵糧に困っている

本願寺に米を売って利益をあげたと云うことであった。

 村重に積極的な謀反などは考えていなかったが、その不始末を聞くに及び

信長の苛烈な性格を思い描いたのだ。このような些細な事を許してはくれる人

ではない。ここでも信長の烈しい気象が禍を起こしたのだ。

 この荒木村重の謀反の後始末で、滝川一益と羽柴秀吉も苦い汁を飲まされ

ることになる。荒木村重討伐軍の総大将を命じられた滝川一益は、預けられ

た有岡城の村重の妻や、侍女達五百名を信長の命令で四つの小屋に押し込

めて火をかけ焼き殺している。

 武門の人間として面目のないことをしてしまった。

 一方、秀吉は村重反逆の説得に赴いた黒田官兵衛が幽閉され、それを信長

は寝返ってと勘違いし、人質の官兵衛の嫡男を殺せと命じたのだ。

 この子が後年の黒田長政である。これは秀吉の軍師の竹中半兵衛の機転

で救われることになる。

 信長の人材登用は、門地門閥や身分、家柄にとらわれず、能力を最優先と

する合理主義から成り立っていたが、天下統一の目処がたった頃から、自信

過剰となったようだ。強烈な目的意識を持って性急に奔る信長は、些細なこと

で危険な兆候を見せ始めたのだ。

 これは彼の推し進めた信賞必罰の結果とも考えられる。

                              続く







Last updated  Apr 28, 2009 04:05:00 PM
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Apr 23, 2009
カテゴリ:戦国雑記。
 

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        「織田信長を考える」(二十四)

 信長の当面の敵は石山本願寺であるが、本願寺の軍事力を担う雑賀衆を

彼は標的とし、翌年の天正五年の二月十三日に京を発ち、紀州の紀ノ川河口

に向かった。

 雑賀衆とは紀伊の国、雑賀を中心とする本願寺門徒の集団であった。

 彼等は雑賀五組からなり、鉄砲や水軍をもった石山本願寺の重要な軍事力

を構成していた。信長の出陣は太田源太夫の率いる雑賀三組と、根来寺の

杉坊が信長に味方をするということで出陣したのだ。

 彼等は鉄砲集団として名を馳せていた。特に雑賀五組とは、雑賀荘、十ケ

郷、宮郷、中郷、三上荘の五つの地域集団であったが、十ケ郷の鈴木孫一は

強烈に信長に対抗した。彼は別名、雑賀孫一として有名であった。

 織田軍は河口の湿地帯に阻まれ苦戦したが、翌三月には雑賀荘、十ケ荘の

二組が信長に降伏した。

 信長は同月の十五日に孫一等、七名を赦免し、和泉、佐野に佐久間信盛を

置いて帰陣した。こうして石山本願寺の抵抗勢力を徐々に攻略していた。

 この頃から信長は家臣の中から次ぎ次ぎと離反者を出している。

 これは信長の生まれ持った気象のなせることかも知れない。

 主従関係で信長は打算的な側面が顕著であった。信長は家臣を含め人間

関係というものが、信頼と温情の上に成り立つという考えが希薄であった。

そのせいか織田家の軍律は、峻烈を極めていた。将兵とも信長の怒りを恐れ、

軍紀は厳しく、つねに将兵は信長の顔色を窺がっていた。

 その軍律も信長の気象で、度々、場当たり的な処罰を行っている。

 織田家にあっては、そうした事が当たり前であった。信長は神の存在にちかく,

信長も当然にそのように振舞っていたのだ。

 信長は自分に勝る者はいないという、異常までの自己過信を抱いていた。

 過去の例をみても分るように、不可能を可能としてきた自信の表れである。

 ブレーンを用いないないのも、そうした過去の成功の所為かもしれない。

 更につめるて見れば、他人を信用しない男であった。

 それは父の信秀の病死により、跡目相続争いで味わった肉親への不審感も

尾を引いていたのかも知れない。

家臣達は己の利益追求の道具、もしくはコマとしか見ていなかったのだ。

はじめは浅井家の旧臣、磯野丹波守が逃亡したのだ。

 彼は信長にかなり信用を得ていたが、一夜にして居城を捨て出奔した。

「ご折檻なされ、逐電つかまつり候」こうした書置きを残しての逃亡劇であった。

 こうした時期の十月に、松永久秀が背いたのだ、久秀は将軍義輝を殺した

大逆人であったが、信長は彼の才能を惜しんで家臣に取り立てた。

 しかし四年前の天正元年に武田信玄の上洛時に、一度、信長に背いている。

 だが信長は久秀の才略非凡を惜しみ、敢えて咎めなかった。

 彼の持つ能力は天下布武を目的とする信長には、兵器や軍勢などよりも

数倍も勝る武器であった。信長は久秀より多聞城を召し上げ、信貴城を与え

優遇した。

 昨年の本願寺攻めが再開されると、佐久間信盛に属し天王寺砦の城番をつ

とめていた。しかし、八月に突然として砦を引き払い、本願寺と内応して信貴城

に籠城したのだ。この松永久秀の謀反の報せは信長を驚かせた。

 信長は久秀を手許に引きとめようとして、松井有閑を久秀の許に差し向け

た。「思うところを存分に申せば叶えてやる」と帰参を促している。

 こうした譲歩にも係わらず、松永久秀の反抗態勢は本格的であった。

 彼は石山本願寺と上杉謙信、毛利家とで信長を挟撃する態勢を整えていた。

 これに対する信長の報復は凄まじいものであった。

 久秀が人質として出しておいた二人の子供を、情け容赦なく処刑したのだ。

 ここにも信長の残虐性を見る思いがする。武器が無用となれば捨て去るま

で、信長はそう考えたに違いない。十月一日、織田勢の先鋒隊が片岡城を

陥落させ、三日には、総大将として信忠が着陣して信貴城を包囲した。

 猛攻撃をうけた久秀は敗戦を自覚し、信長が所望していた名物の平蜘蛛茶

壷を打ち砕き、天守閣に火を放ち城とともに果てた。

 信長という武将は革命児であると同時に、己の信用を失墜させた者には容赦

なく厳罰をもって臨み、残虐非道な報復をする男であった。

 それは一種の狂気ともいえる振る舞いを平気でやっている。

 だがここで信長の心理状態もみておかねばなるまい。それは上杉謙信の不

気味な動きがあったのだ。

 信長はようやく石山本願寺を孤立に追い詰めたのだが、閏七月八日に、

上杉謙信は能登攻略の軍勢を越中の魚津城から出陣させていた。

 この動きは松永久秀と石山本願寺の策謀と映っていた。

 それ故に、松永久秀の手腕が必要であった。

 上杉勢は九月十三日に能登の七尾城を包囲し、十五日には念願の攻略を終

えて十七日には加賀に入っていた。信長の恐れは上杉勢の動向にあった。

 既に信貴城には松永久秀が籠城している。

 九月二十五日に信長の恐れていた敗戦の報せがあった。

 七尾城の陥落を知らない、織田勢三万余が柴田勝家に率いられ北上し、

加賀の手取川で謙信の指揮で完膚なく破れ去っていたのだ。

 これにはさしもの信長も恐怖した、勝利の勢いで上杉勢が安土に押し寄せた

ら織田勢は壊滅するかも、この恐れが久秀へ向けられたのだ。

 幸いにして上杉謙信は手取川の手前で軍勢を留め、そのまま帰国していっ

た。間一髪の差で信長は難を逃れたのだ。

                            続く







Last updated  Apr 24, 2009 03:37:24 PM
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Apr 20, 2009
カテゴリ:戦国雑記。
 

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       「織田信長を考える」(二十三)

 毛利の兵糧船六百余隻に警護船三百隻が、児玉就英(なりひで)に率いられ、

播磨の室津に着いたのは、七月上旬であった。

 信長は木津川口に大安宅船十隻と警護船三百隻を配し、それを阻止しようと

していた。毛利水軍と云えば聞こえがよいが、実質は能島、来島、因島を根拠

とする瀬戸内海の海賊、村上水軍が主力であった。

 対する信長の水軍は、九鬼嘉隆率いる海賊の九鬼水軍である。

 毛利水軍は紀州雑賀衆と示し合わせ、更に摂津、和泉の門徒衆までが協力

し、木津川口で待ち受ける信長方の水軍に襲いかかった。

 時に天正四年七月十三日であった。彼等は焙烙火矢(ほうろくひや)を投げ込

み信長の水軍を火責めとした。この海戦で織田水軍は惨敗をきっした。

 この焙烙火矢とは、素焼きの土鍋に火薬をつめ、それを布で包み漆を塗った

もので、これに点火して敵船を焼き払う物であった。元来は城攻めに使用して

いた。大安宅船は乗っ取られ、大将は討死し警護船は捕らわれたり、燃えて

沈んだ。ほとんど壊滅状態となった。毛利水軍は石山本願寺に無事に兵糧を

入れ帰帆した。この海戦は毛利家が信長方に仕掛けた最初の戦いであった。

 毛利は前将軍義昭を分国に迎えても、積極的な反信長行動には出なかっ

た。しかし、山陰道で信長が尼子氏再興の動きに援助を与え、播磨、浦上、

別所、小寺氏などが、毛利に叛いたことで反信長を顕かにしたのだ。

 たが、信長はこの敗北で諦めることはなかった。火責めで惨敗をきっしたな

ら、それに対抗する船を造ればよい、これが信長の恐るべき革新的な発想で

あった。彼は志摩の波切に水軍の根拠地をもつ、九鬼嘉隆に新技術を導入し

た巨大戦艦の建造を命じたのだ。その際、織田の将滝川一益に九鬼と協力す

るよう命じた。波切は現在の大王崎の燈台の下にある小さな港である。

 ここで信長の指示で九鬼嘉隆と滝川一益は、二年後に七隻の甲鉄船を完成

させるのであった。こうした信長の発想は宣教師などから聞いた西洋の情報を

取り入れたものであると思われます。

 横七間、縦十二間から十三間の甲鉄張りの大船であったと言う。

 信長はこの戦艦に大鉄砲もしくは長鉄砲を三門積み込んだのだ。大鉄砲の

長さは九尺、二百匁の弾丸が発射できたといわれる。

 この大鉄砲は当時の日本には存在しなかった言われている。恐らくは国友村

で信長が作らせたもののようだ。

 この信長の不可能を可能とする考えは、彼のみが持っていた力量で、他に

真似ることの出来ない革新的なアイデアであった。

 桶狭間の奇襲作戦、長篠合戦での馬防柵と大量な鉄砲隊の導入、どれをと

っても信長は、他の戦国武将の追従を許さぬ発想をみせたいたが、この海戦

の敗北で見事に甲鉄船の建造に成功したのだ。これは敗戦から二年後に完成

をみるのだ。

 ここで少し筆を遊ばせることにする。

 信長の革新性と先見眼の優れたものに、桶狭間合戦を書きましたが、これ

に疑問を感ずるむきもあろうかと思いますが、長篠合戦と甲鉄船の建造には

異論はないと思います。何故、桶狭間の合戦がそうなのか、私見ですが理由

を書いてみます。上洛する今川勢に対し、信長勢は二千名の小勢です。

 これに対抗し勝利するには、合戦予定地を見極めねばなりません。

 信長は多数の間者を放ち、その情報網で逐一、動きを捉えていたと思われ

ます。今川勢が信長が籠城するものと決め込んでいること、それに今川勢の

進路と休憩し、兵糧をとる場所が桶狭間と想定していた節が窺がえます。

 そこで何時、清州城を出陣する時刻か、信長は双方の行軍速度、距離から

正確に割り出していたと考えます。こうして天候にも恵まれ奇襲に成功します。

 その時の論功行賞に信長の革新的な先見眼をみることが出来ます。

 今川本隊の所在を発見し、その動きを信長に報告した簗田政綱を第一位と

しています。第二位は今川義元を発見し、一番槍をつけた服部小平太に

授けています。

 義元の首をあげた毛利新助が第三位となっています。古来から首を刎ねた

者が論功賞の第一位となることが、当然の習慣でしたが、信長はいずれも情報

を重視したのです。こうした今までの慣習を打破した信長の考えは、彼の革新

的な発想を示すものと考えます。

また信長という武将は軍師や参謀を置かなかったことでも有名です。今で云う

ブレーンです。

 常に信長は己の考えのみで配下の武将に命令を発しています。軍議などを

重視せずに、命令のみです。比叡山延暦寺の殺戮や、一向門徒衆に対する

殺戮のみは事細かに指示を与えておりますが、そうでない時は明智光秀には

丹波攻略を命じ、その方法などの細かい指示は出さずに任せきっております。

 羽柴秀吉の中国攻めもしかりです、秀吉は独断で三木城の兵糧攻めを行

い、また、高松城の水攻めなとも独断で遣っています。

 信長は配下の武将達をそこまで信用していたのでしょうか?

 この事は後に書きたいと思います。          続く 







Last updated  Apr 21, 2009 08:36:32 AM
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Apr 18, 2009
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       「織田信長を考える」(二十二)

 安土城は六角氏の居城、観音寺城の尾根つづきで琵琶湖の入り江に半島状

に突き出た小山に築かれた。信長の構想には越後の上杉謙信の進攻に備え、

同時に摂津、石山本願寺への攻撃拠点とするもので、京に上るのにも便利な

場所であった。

 しかし信長はそれのみではなかった。単なる軍事拠点とした発想らば、

他の戦国大名ならば、安土なんぞに拠点を作ることはしなかったであろう。

 信長は己の支配力を強力にするためには、経済力が必要と考えでいた。

 軍事的機能と商業と交通の中心的機能を果たすことで拠点は完璧となる。

 更に築城に当たり、近国の諸職人や人足を集める必要があった。

 これらの者達は公家や寺社の座に支配されており、座の廃止を行わないと

必要な人数を確保できなかった。さらに築城に必要な物資の調達と搬送にも、

大商人により矢張り座が作られており、天下統一のためにはそうした古代勢

力のもつ、既得権である座の根絶が必要であった。

 信長はその根絶を図り、新しい体制を確立していったのだ。

 こうした旧体制は農業重視であり、保守的で消極的であった。

 そうした弊害を打破するために信長は、築城半ばの翌年の天正五年六月

に、安土の城下町に斬新な十三か条の法令を公布した。

 これは産業振興策とも云うべき、信長の非凡な才能の一部であった。

 この城下町を楽市として、商売についてはあらゆる課税を行わない。

 街道を往還する者は、中仙道を素通りせず、必ず安土に寄宿すること。

 合戦などの特別の時のほか、住民には普請や伝馬役などの課役を免除す

る。領内で徳政を行っても、安土町人は例外として債権を保証する。

 他国からの移住者は、どんな者でも以前からの者と差別はしない。

 国中の馬の売買は、全てこの町ですること。

 こうした斬新な法令を公布した裏には、信長一流の読みがあった。

 新しい城下町建設に一番重要なものは、町の繁栄である。その為には利潤

を得て町を潤すことが必要である。合戦に勝利し略奪物資で城下を潤す考え

の戦国大名とは違った観点で、信長はまるで現在の企業経営感覚で町作りを

考えていたのだ。まさに信長は経営感覚の才能を見せ付けたのだ。

 こうした座の廃止を行いながらも、古代勢力の反感を薄らぐように配慮をして

いる。ある一部の座には手をつけない柔軟性も見せていた。

 何れは全て廃止するが、今は早すぎると、こうした手法を使ったのであろう。

 この背景には信長の支配力が、まだ完全でないことを物語っている。

 今は無駄な血を流したくない、一方では残酷非道な虐殺を行いながらも、

信長はそう考えていたようだ。

こうした施策を信長は柴田勝家にもやらせていた。

「越前の北ノ庄に対し、諸商業楽座令を公布」せよと命じている。

 この諸商業楽座令とは、中世商工業の独占団体の座を廃止することで楽市

より、一歩進んだ商業の自由化を進めるものであった。

 こうした中で信長は四月十四日に、配下の荒木村重、明智光秀等四人に、

前年の十月に三度目の和睦を結んでいた、石山本願寺攻めを命じたのだ。

 信長と本願寺は石山合戦以後、元亀元年十一月に、一回目の講和を結び、

翌年の一月に合戦を再開したが、天正元年四月に武田信玄が病没し、七月に

将軍義昭を追放し、八月には朝倉義景、浅井長政を自害に追いやった後の

十一月に二度目の講和がなった。が、天正二年四月に再び本願寺門主の顕

如が兵をあげたが、信長が長島一揆、越前一揆を全滅させた、天正三年の

十月に三回目の和議がなっていた。だが義昭が中国の毛利家の許に移り、

上洛の気配が濃厚となり本願寺攻略を計ったのだ。

この後、五年間に渡り石山本願寺は籠城することになった。

 信長は石山本願寺の周囲に十箇所もの付城を作り遠巻きにした。

 この包囲網の最高指揮官は、織田家の宿老の佐久間信盛であった。

 翌月の五月十八日に、本願寺の顕如が上杉謙信に救援を求めている。

 四面楚歌となった石山本願寺は、信長により兵糧攻めにあって苦慮してい

た。それまでは越前、加賀の門徒衆は信玄と手を結び、ことごとに上杉謙信に

敵対していたが、信玄の死と武田勝頼が長篠の合戦で大敗し、八月に越前が

信長に制圧されるなどで危機感を募らせた、加賀、越前の一向門徒衆は急速

に謙信方に傾いていた。

 そこに顕如の救援要請を受けた謙信は、秋には上洛すると答えている。

 こうして信長は石山本願寺を包囲して孤立させ、一方では明智光秀に命じて

丹波地方の攻略を策していた。しかし、この作戦は八上城主の波多野秀治の

裏切りで、一時、明智光秀が退き作戦は頓挫することになる。

 こうして本願寺は織田勢に包囲され、兵糧米の搬送を毛利家に依頼した。

 毛利家は了承し本願寺支持の雑賀衆、根来衆の門徒が協力し毛利水軍と

織田水軍の舟戦が木津川口で始まることになる。

                              続く







Last updated  Apr 18, 2009 03:01:04 PM
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Apr 15, 2009
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       「織田信長を考える」(二十一)

 武田勢は家康に任せておけばよい、最早、武田家は往年の力を失った。

 信長はそう感じていた。畿内の治安が回復したら自ら出陣し武田家を

根絶やしにする、その前に片付ける問題があった。

 折角、越前朝倉家を滅亡させたのに、またもや一向一揆衆が勢力を伸ばし、

宗教国家の様相を呈していたのだ。元亀三年に朝倉義景を自害させ、その後

を、朝倉家から寝返った前波長俊(ながとし)を守護代として一乗谷に置いたの

に、この男が悪政を極めたため、越前府中城の城主、富田長秀が反逆の軍

を起こし、前波長俊を殺し、信長の武将を追い落とし、越前を横領したのだ。

 これに対し石山本願寺の顕如は、七里頼周(よりさか)を大将として天正三年

の二月に府中に攻め寄せ、逆に富田長秀を討ち取り、朝倉景鏡と平泉寺衆徒

を攻め、越前一国を占拠したのだ。顕如は越前強化のために下間頼照(しもつ

まらいしょう)を守護代として送り込み、本願寺の坊官を入部させた。

 しかし彼等は門徒衆を下人のように扱い、これまで一揆を推し進めてきた

越前門徒衆や国人が、これに反発し一揆内の一揆を起こしていたのだ。

 信長は武田勢との戦いの為に手が出せず、傍観していたが、武田勢を壊滅

状態とした勢いで、八月に大軍を率い自ら出陣した。

 先鋒として羽柴秀吉、明智光秀勢が夜間に府中に入り、本願寺の坊官等を

討ち取ったのだ。信長の報復は凄まじいものであった。

 それは比叡山や長島一揆討伐よりも凄いもので、越前の門徒衆は取るもの

も取りあえず、山中に逃げ惑った。

 信長は門徒衆の皆殺しを命じ、織田勢は山中を捜し廻り、片っ端から斬り捨

てた。八月十五日から十九日までの五日間で、捕らえた者は一万二千余名

であった。これらの門徒衆は全て皆殺しとなった。総勢、二万とも三万とも

云われる門徒衆が信長の命令で虐殺されたのだ。

 この様子を信長は京都所司代の村井貞勝に、このように書き残している。

「府中町は死骸ばかりにて、一円あき所なく候、見せたく候」

 こうした信長の所業は残忍の度もすぎる感じだが、一向門徒衆に対する憎し

みは、それほどまでに深く、復讐心も狂気のように燃えさかっていたのだろう。

 信長を怒らせたら、その前には戦慄があるだけであった。

 織田勢はついで加賀の能見郡、江沼郡も抑え、九月に北ノ庄に城を築き、

越前を柴田勝家に与えで帰還していった。

 こうして激動の天正三年が暮れ、二月には室町幕府の最後の将軍義昭が、

紀伊の興国寺から備後の鞆(とも)に移った。ここは今の福山市である。

 これまで相変わらず、幕府再興の政治工作を行っていたが、ここで中国の

覇者、毛利家を頼ったのだ。

 信長との全面対決を避けたい毛利は、最初は当惑と迷惑に感じたようだが、

しだいに信長との対決を考えるようになった。

 義昭はそこでも政治工作を続け、上杉謙信、武田勝頼、毛利輝元に協力して

信長を討てと命じている。

 その頃、信長は安土に築城を思いつき、佐和山城主の丹羽長秀を総奉行と

し、この歳の正月から琵琶湖を臨む、安土山に七重の天守閣をもつ築城工事

を始めていた。七重の大天守閣をもつ城は、日本ではこの城が初めてであっ

た。この工事は単なる築城ではなく、壮大な都市計画そのものであった。

 信長は領土が増えるたびに、己の拠点を移している。それは信長一人であ

る。武田信玄も上杉謙信も累代の拠点から、動こうとはしなかった。

 信長は清州から小牧、さらに岐阜と移り、今回は近江へと移ろうとしてい

た。現在の世で云うなら事業の発展とともに本社機能を移す、斬新な発想であ

り、こうした考えで事を進めていたのだ。

 これを可能としたのは、信長が行ってきた兵農分離の施策であった。

 これは新しいシステムであり、これは信長の先見眼と合理主義と革新的な

発想の賜物であった。これの目的は、季節を問わずに兵を動かせる画期的な

専業武士団の形成であった。

 これまでの戦国武将は兵農末分離のままで合戦を行ってきた。彼等の兵士

の大半は農民であった。

 田植えや稲刈りの時期には、なかなか兵を動かせない欠点があった。

 信長は国人、地侍からいったん土地を取り上げ、改めて知行制として給付し

た。こうして年貢を取り立てる者と、取り立てられる者とはっきり分け、専門

武士団として、土地から切り離したのだ。

 信長は、こうしたシステムに変え、合戦で獲た土地においても、国人、地侍を

家臣団に組みいれ、農業分野と分離させたのだ。

 こうして信長が実現した専業武士団は、常備軍団として季節を問わず長期

遠征が可能となったのだ。そうした下地があってこそ信長は、拠点を移すこと

が出来たのだ。こうして二月二十三日に、岐阜城を嫡男の信忠に譲り、彼は

安土城に移ったのだ。安土城は城としての機能はしていない、それでも信長

は、この新しい拠点から指揮が執りたかった。

 安土は築城の大土木工事が行われており、城下町の造営も進み、商人が集

まり大いに繁盛していた。

                               続く







Last updated  Apr 17, 2009 01:34:05 PM
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Apr 13, 2009
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        「織田信長を考える」(二十)

 織田、徳川連合軍は、連子川の右岸に空堀を掘ってその背後に二十町余の

柵を張り巡らした。

 これが信長が考えに考えた新しい戦術であった。

 鉄砲三百挺は奇襲部隊にまわし、信長は三千の鉄砲隊を三つに分け柵の

内部に三段に配置した。一列が千挺である。

 前回にも書いたが、当時の火縄銃は一発撃つと、次に弾を込め火薬に火を

点けるまでに時間がかかり、信玄はその隙に敵に突っ込まれることで鉄砲を

重視しなかった。信長はその隙を埋める戦術を考えていたのだ。

 第一列が発射すると、次に第二列が撃つ、次に第三列が撃ち終った時には、

既に第一列の弾込めは終っている。こうして間断のない火線を作りあげた。

 柵や空堀は武田勢の誇る、騎馬隊を防ぐための馬防柵であった。

 鉄砲で撃ち洩らした騎馬隊を柵の前で阻止する。

 この長篠の合戦が戦国史のうえで注目されたのは、この三千挺もの鉄砲を

信長が使用したという点であった。それまでは精々三百挺程度であった。

 信長自身ですら、それ以前は姉川の合戦で五百挺というのが最高であった。

 信長はこうした陣形をとったが、一抹の不安があった。

 目論見どおりに武田騎馬隊が突っ込んで来なければ意味をなさない。

 何としても合戦に持ち込み、武田勢を完膚なく叩く。

 その為に諜報活動を盛んにやったようだ。

 織田、徳川の連合軍の兵は、武田の騎馬隊を恐れて恐怖にかられている。

 また、武田家の武将は織田に内通している、などの噂を流していた。

 更に勝頼を激怒せさようと、武田勢の後方にある鳶ノ巣山砦を徳川の

酒井忠次に鉄砲隊と四千名の手勢を与え、奇襲を指示したのだ。

 酒井忠次は夜が白むと同時に砦を奇襲し、激戦の末に砦を占拠した。

 これが武田勝頼の焦りを誘ったのだ。

 鳶ノ巣山砦の陥落を示す濃煙をみた、宿老達は設楽原からの撤退を

進言した。連子川に沿った柵も気になったのだ。

「合戦とは、兵の多きが勝つ」 これが合戦の鉄則である。

「敵は大軍、兵を退くか、このままここで対峙を続けましょう」

 と宿老達は意見を述べた。対峙するなら敵は大軍の為に兵糧が不足する。

 そうでないなら、鉄則に従い兵を引く、それらを勝頼は黙殺した。

 その鉄則に従えば、三倍の敵を相手とする勝頼の行為は無謀以外のなにも

のでもないが、勝頼には彼なりの成算があったのであろう。

 更に勝頼の致命傷は、鉄砲に対する認識の甘さであった。

 武田勢が鉄砲に、全く無知であったと言う事は考えられない。

 にも係わらず、織田、徳川の連合軍に猪突猛進したのは、武田騎馬隊に

絶対的な信頼を置いていたと考えずはなるまい。

 だが柵の後方に、鉄砲隊三千が待ち受けているとは勝頼も宿老も考えが

及ばなかった。まさに信長はシステム的な発想で合戦に臨んでいたのだ。

 こうした画期的な戦術と、孫子の兵法のような反間(後方攪乱の謀略)策で

勝頼を激怒させ、信玄股肱の宿老達を、ここが死出の場所と心得させ、

ひたすら猪突猛進させる素地を作ったのは、鉄砲をシステム戦略に組み込ん

だ信長の、合理性と先見眼であった。

 そして天正三年五月二十一日の早朝、武田勢左翼の山県昌景の騎馬隊が、

高台を駆け下り、徳川勢の大久保忠世隊に攻めかかり、合戦の火蓋がきられ

た。山県昌景といえば、武田で聞こえた猛将である。三方ケ原合戦では家康

を駿府城門まで追い詰めた武将である。

 騎馬隊は高い馬防柵に阻まれて進めず、鉄砲が次々と火を吹き、さしもの

山県勢も撃ち倒されている。山県昌景は腹部を撃ちぬかれ即死した。

 勝頼の本陣のやや、前方右翼の武田信廉(のぶなど)、小幡信貞、内藤昌豊

が猛然と中央の、徳川家康へと迫ったが間断のない射撃を浴びせられ戦死

している。こうして午前十時(一説には午後二時)に、武田勢は大敗北となった。

 本国に帰った者三千と云うから、半数がここ設楽原で戦死したことになる。

 武田勢の宿老で信玄を助け、生涯手傷を負わなかった云われる、馬場信春

までも戦死している。それにしても出陣した軍勢の半数が、戦死する合戦など

例のないもので、いかに鉄砲戦術が凄まじいものであったかを物語っている。

 これ以後、火縄銃は完全に主力兵器となり、信長の考案した三段式装填法

は、合戦場で戦術の常識となっていくのである。

 ここでわたしは面白い資料を見つけた。信長は列になって撃ったのではなく、

三人一組で列の要領で射撃をしたとの説である。

 こうすると鉄砲陣は、列よりも三倍の長さとなる。万一、武田勢が左右に

散って、攻撃をしたなら、三人一組の方法が有効となるが、果たして信長は

どちらの戦法をとったのであろうか、非常に興味深いと思っている。

 この敗戦で武田家は急速に衰退していく。信玄以来の名将を多く亡くしたこと

と、主力家臣団を失い、軍事的に弱体化していったからである。

「勝頼と名乗る武田の甲斐もなく、戦に負けて信濃わるさよ」

 これは当時の落首である。

 信長にとっては、この合戦は画期的な意味をもつものであった。

 それまで最大の脅威で、背後で武田勢が動く度に畿内の軍事行動に専念

出来なかった状況が、この勝利によって解消されたのだ。

 この後、信長は摂津石山本願寺攻めに、全力を投入できることになる。

                           続く







Last updated  Apr 13, 2009 05:05:27 PM
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Apr 10, 2009
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       「織田信長を考える」(十九)

 あけて天正三年を迎え、甲斐の武田勝頼が動きはじめた。

 しかし、武田家の内情は微妙な亀裂が生じていた。信玄の死は一枚岩を

誇っていた、武田家に信玄股肱の宿老達と勝頼を担ぐ諏訪衆や信濃衆の家臣

団に対立が生まれていたのだ。

 勝頼は宿老達の手前、功を焦っていた。その時期に家康の家臣の大賀弥四

郎から、内通の報せが届いたのだ。

 大賀は才覚を家康に見込まれ、三河奥郡二十四郷の代官の身分であった。

 これに増長し家康に逆意を抱き、勝頼に密書を送ってきたのだ。

 武田勢は作手城(南設楽郡先手村)まで、ご出陣されて、そこから先陣を

岡崎城に進め給え、拙者が家康公のお出ましと呼ばわり、城門を開かせます。

 そこをすかさず乗り込めば、信康(家康の嫡男)は簡単に討ち取れます。

 そうすれば岡崎城はなんなく占拠できます、との内容であった。

 勝頼は誓詞を大賀弥四郎に送り、兵数二千を先手城に向かわせ、自身は

本隊一万三千を率い甲府を出陣した。とろこが途中で大賀の陰謀が発覚した

との報せで、五月十一日に長篠城を包囲したのだ。

 長篠城の守将は奥平信昌(のぶまさ)であった。彼は今川家の家臣であった

が、義元の死後に氏真に愛想をつかし、家康に従ったが、信玄の三河進攻に

よってやむなく武田に属した。そうした時期に信玄の死亡説が流布されると再

び家康に従ったのだ。

この報せに勝頼は怒り、信昌の人質の夫人と弟を磔にした。

 こうした経緯で信昌は長篠城を守っていた。この城は豊川の上流、滝沢川、

大野川の合流点に位置し、難攻不落の城として知られていた。

 更にこの地は甲斐、信濃から伊那谷を抜けて三河、遠江の関所ともいえる

要衝であった。武田勢迫るを見るや信昌は、五百名の兵でよく城を守ったが、

肝心の兵糧が欠乏し、家康に窮乏を訴える使者を派遣した。

 この使者が有名な鳥居強右衛門であった。彼が岡崎に着くと既に信長も

大軍を率い岡崎に到着していた。

 家康は三方ケ原合戦で武田勢の鋭鋒の鋭さが身沁み、長篠城の包囲を知る

と直ちに信長に救援の使者を走らせたのだ。

 こうして長篠城を武田勢が包囲したことが、有名な長篠合戦の発端となった。

 信長と家康の軍議の結果、長篠城を包囲する武田勢を設楽原へと誘い出す

戦術が決定し、五月十八日に織田、徳川の連合軍は設楽原に布陣した。

 通説によれば、織田勢三万、徳川勢が八千、武田勢一万五千と云われてい

るが、設楽原の地形では、五万余の人馬を収容できる広さがない。

 最近では織田、徳川勢一万八千、武田勢が六千名との説が浮上している。

 これが打倒な兵数と思われる。この様子をみた勝頼は軍議をひらき諸将と

協議した、ここで信玄股肱の宿老は、決戦回避を主張したが勝頼はこれを

拒否した。

 こうして武田勢は長篠城の包囲を解き、設楽原北の清井田付近に本陣を構

えた。一方、信長は連子川の西側の極楽寺に、家康は武田本陣に対面する形

で高松山に本陣を置いた。

信長は岐阜から足軽に丸太と縄を持参させて来援に来ていた。

「殿は何をお考えか?」 織田勢の将兵は不審に感じていた。

 このような物でもって天下無双な武田騎馬隊に勝てるのか、全員がそう思っ

ていた。信長と云う武将の発想は、孫子と良く酷似している。勝てる条件が整う

まで待って、勝てるところに力を集中する。危うくなれば部下を捨てさっさと逃

げる。将たる者は部下に真意を知らせない、常に意表を衝け。それが孫子の

兵法である。

信長が孫子の兵法を学んだのかは知らないが、常に信長もそうして生きてき

た。信長は今回の武田勢との合戦で、戦国最強の武田騎馬隊の壊滅を策し

ていた。それが現在のシステム発想であり、これが信長の革新性であった。

 ここで火縄銃のことを述べる。鉄砲が伝来し、天正三年までの間、三十三年

の年月が経過している。最初に戦に使用されたのは伝来から六年目の年であ

った。薩摩の島津貴久が加治木城攻めに鉄砲を持ちえている。

 武田信玄も旭山城攻略に、三百挺の鉄砲で城攻めを行っているが、鉄砲は

その鉄砲の欠点で主力兵器とならなかった。主な理由は二つあった。

 それは有効射程距離が大体、二百メ-トルで、それでは弾が当たっても鎧が

へこむ程度であった。百メ-トル以内ならば殺傷能力はたいしたものであった。

 更に一発撃っと次ぎの発射まで、熟練した者でも二十秒から二十五秒もかか

り、弓のように連射が出来なかった。

 弓の射程距離は約五十から六十メ-トルで、比較すれば鉄砲が有利であった

が、連射がきかないと云う理由で主力兵器とはならなかった。

又、騎馬武者と鉄砲足軽が対峙すれば、馬は二百メ-トルに二十秒ないし

二十五秒で走り、一対一で戦った場合、百メ-トル以内で撃った弾が騎馬

武者に当たらなかったら、鉄砲足軽は次ぎの弾込めの間に騎馬武者に討ち取

られてしまう。

 まして猛然と接近する騎馬武者に対し、平常心では臨むべきことは叶わな

い。つまり、鉄砲は確かに威力はあるが、決定的な兵器と考えられていなか

った。こうした事を書くと皆さんは、歴史の後知恵で既に私が何を書こうと

するのか分っておられると思いますが、これは次回に譲ります。  







Last updated  Apr 10, 2009 04:06:12 PM
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Apr 7, 2009
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      「織田信長を考える」(十八)

 この天正二年の三月に、信長は朝廷より従三位に叙せられた。

 この叙勲は信長が朝廷に依頼したことであった。

 信長は己が将軍になることを望まなかったのだ。

 彼は将軍職を開かずに、天皇家の公卿となったのだ。武家が政治をとる場合

は征夷大将軍となり、幕府をひらくことであったが、信長はその頃、平氏を名乗

っていた。征夷大将軍とは古来から源氏の出身でなければならない。

 信長は平氏に倣(なら)い公卿となり、天皇家の神聖を背景として天下統一を

為そうと考えたのだ。そうなら天下六十余州の諸大名も文句が言えぬ。

 公卿となった信長は足利幕府以上の権威を、こうして天下に誇示したのだ。

 この時期は反信長同盟は崩壊していたが、完全に崩壊した訳ではなかった。

 摂津の石山本願寺は、事ごとに信長に敵対の色を鮮明としていたし、折角、

朝倉氏を滅ぼしたが、越前はいまだに一向門徒の蹂躙のままであった。

 更に長島一揆勢の勢いは盛んで、武田勝頼も本願寺と策応して蠢いていた。

 この年の信長の狙いは、石山本願寺への本格的な挑戦であった。

 こうして織田家の勢力を拡張しても、信長は心底から本願寺を恐れていた。

 信長からみた本願寺とは、毛利、上杉、武田、北条などの中世の諸大名に、

一向一揆勢を組あわした、僧俗の連合体の大包囲網に感じられた。

 さらに彼等の目的は、一向衆国家の樹立であり、中央集権的な法王国家を

標榜する中核であると信長は、石山本願寺をそのような目で見ていた。

 彼等を殲滅するには、その強力な手足となっている伊勢長島の一向一揆衆を

粉砕せねば、本城の石山本願寺を滅ぼすことは出来ないとみた。

 その為には越前の一向門徒衆の牽制が必要であった。

 信長は二年前に上杉謙信と武田信玄を挟撃する目的で同盟を結んでいた。

 まず、謙信に北陸の一向一揆の牽制を望んだ。信長はさらなる同盟強化の

ために、謙信のご機嫌うかがいとして「洛中洛外図の屏風」を贈ったのだ。

 こうして伊勢長島一揆の鎮圧を計画していた信長の許に、家康から救援の

使者が訪れた。家康の使者は武田勢が遠江の拠点の高天神城に攻め寄せ

たとの報せであった。高天神城は、あの信玄でさい陥せなかった天然の要害

であった。そこを勝頼が攻め寄せるとは、信長も驚きをもって接した。

 勝頼は信玄の喪中の為、家康の攻勢に対し出兵を一時、控えていたが、

今年の二月五日に美濃の明智城を攻略し、五月三日には二万の精兵でもって

突然に遠江に攻め込み、十二日に高天神城を包囲した。

 守将の小笠原長忠は家康に援軍を要請したが、家康も単独で救援できず、

信長に援軍を要請してきたのだ。そうした状況の中、六月十日に城が陥ちた。

 信玄が没しても、戦国最強と云われた武田勢は依然として健在であった。

 勝頼は徳川方の拠点の高天神城を攻略し、勝頼は遠江の主導権を回復

した。城が陥ちては詮なき、信長には天下布武の目的がある。

 まずは長島一揆の殲滅が第一である。家康には守りを固めるよう要請し、

七月、信長は大軍を率い伊勢長島へと出陣した。

 信長は出陣の前の六月二十三日に、志摩の九鬼嘉隆に命じ、安宅船などで

伊勢湾封鎖をさせていた。今度こそ決着をつける、あの狂信者共を残らずあの

世に送ってやる。その方らの望む極楽浄土とやらにな。

 「なんまんだぶつ」などを唱え時の権力者に逆らう者共は一人も生かさぬ。

 信長は非情な心で岐阜から伊勢へと進軍していた。四年前の九月の門徒衆

の蜂起で、信長は弟の信興を自害させた。翌年の五月には氏家ト全を戦死さ

せるなどの大損害を出している。ついで昨年の九月には信長、自ら出陣し、

一揆方の諸砦を攻略したが、破ることが出来なかった。

 今回は四回目である。長島は揖斐川、鍋田川の間にある大洲で、その東を

木曽川が貫いている。美濃から流れ出た諸川が伊勢湾に注ぐ名勝の地であ

り、要害の地でもあった。今度は海陸からの包囲攻撃を策していた。

 一揆勢の城は長島城の他に、四つ築かれていたらしい。真っ先に大鳥居、

篠橋城の両城に大鉄砲を撃ちこみ、塀、櫓を打ち崩し、四方を厳しく包囲し

兵糧攻めの戦術をとった。城内は飢餓と砲弾の脅威で半狂乱となって八月

二日の夜に、城を脱出したが、待ち構えていた織田勢のために男女千人余を

惨殺された。こうした殺戮戦の中で一揆勢は三ヶ月籠城したが、九月二十九

日に力つきた一揆勢が退散するところを、鉄砲で撃ち倒して、過半数を殺し

た。さらに城内には男女二万の門徒衆が残っていたが、信長は、

「焼き殺せ」と非情きわまる命令を発した。

 こうして城の外に幾重にも柵を設け、逃げ出せないようにし、周囲に枯れ草

を積んで火を放った。火は城内に燃え移り、二万の門徒達は灼熱地獄のなか

で阿鼻叫喚し焼死した。いかに天下布武を阻む者と言うものの、邪魔者は殺

せの、信長の執念は目を覆いたくなる暴挙で、日本史上稀な大量虐殺であっ

た。信長が一向一揆の根切りをしたのは、それが政治と癒着していたから

であった。

 念仏を唱えて戦って死ねば、皆、極楽に行けると戦意を駆りたて一揆

を起こさせた本願寺への、報復であった。 

 何時の時代でも、莫迦を見るのは無知な民衆である。   続く  







Last updated  Apr 7, 2009 05:40:50 PM
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