000000 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

長編時代小説コーナ

PR

X

全78件 (78件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 8 >

伊庭求馬活殺剣

Dec 3, 2011
XML
カテゴリ:伊庭求馬活殺剣
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 

     「影の刺客」(77)

「矢張り貴方さまか、白河藩江戸家老の遠藤又左衛門殿」

 求馬が驚きもせず、感情を殺した声をかけ、猪の吉が眼を剥いた。

 白河藩の藩主は、老中首座の松平定信である。

「貴殿とはこうした因縁で結ばれておったようですな」

 遠藤又左衛門が素早く紋服を脱ぎ捨てた。下には白練りの衣装を

着込み十文字に襷がかけられていた。

「遠藤殿、事は破れ申した。この場で切腹を成され」

 求馬の言葉に遠藤又左衛門が破顔で応じ、

「剣士とし、尋常な勝負をいたさん」

 乾いた声と同時に素早く抜刀し、正眼の構えとなった。

「どうあっても勝負を挑まれるか」

「左様」

 受けてたつ求馬が、ゆっくりと愛刀の村正を抜き放ち、左下段の

構えをとった。凍った鬼子母神の闇で壮絶な闘いが始まったのだ。

「逆飛燕流の秘剣の冴えを存分に拝見いたす」

 声が途絶えるや、遠藤又左衛門が眼にもとまらぬ拝み打ちを仕掛けた。

それは軽妙極まる剣さばきであった。

 求馬はそのの剣を下段の位置から跳ねあげ、踏み込みざまに左首筋を

狙い、凄まじい一颯をみまった。

 遠藤又左衛門は予期した如く、素早く後方に身を退かせ求馬の攻撃を

避けた。それは稀有の剣士のみが成しうることであった。

 二人の大刀が月明かりに照らされ、白々と凄味のある刃紋を見せている。

 その対決を手に汗を浮かべ猪の吉が見つめている。

 四半刻ほど二人は微動もせずに対峙している。生死をわかつ狭間での

必死の攻防であった。

 風が銀杏並木を揺るがせた。

 猛烈な剣気を漲らせた遠藤又左衛門が、じりっと前進をはじめた。

 命を捨て去った遠藤又左衛門である、求馬はそれを悟っている。

来るなと思った瞬間、遠藤又左衛門は生死の境に足を踏み込んできた。

 攻勢を懸けたのは遠藤又左衛門である、彼は村正を上から抑え込み、

垂直に求馬の躰を両断すべく猛烈な勢いで大刀を振りおろした。

 それを感知した求馬は痩身を捻って躱した。

 一方の遠藤又左衛門は素早く大刀を引き、左脇備えの構えに変化させた。

それは求馬の反撃を阻止する、剣士としての本能の成せる技であった。

 だが生を捨てた遠藤又左衛門は、無謀ともとれる態勢で大刀を水平に

奔らせた。

 求馬が咆哮をあげ左下段から村正が跳ねあがり、宙で大刀を弾き弧を描い

て遠藤又左衛門の左肩を薙ぎ斬った。

 一瞬遅れで遠藤又左衛門の大刀が求馬に襲いかかったが、求馬は躰を

密着させ攻撃を防いでいた。

「お見事っ」

 肩口から鮮血を滴らせた遠藤又左衛門が、腰砕けとなり地面に座り込んだ。

 求馬がその様子を見つめ、村正の血糊を拭って鞘に納めた。

 遠藤又左衛門が肩で大きく息をしている。

「ご貴殿ともあろうお方が、何故に愚かな所業を成された」

「これは殿もご存じないことにござる。拙者は一橋治済が憎かった。

己の欲望を遂げんと上様をけしかけ、更に大奥までも味方とし、殿を

失脚させようと謀る治済がの」

 遠藤又左衛門が咳きこみ、唇から血が滴った。

「伊庭殿、上様は今年にはご成人あそばされる。その機会を狙って治済は殿

を首座の座より罷免し、将軍補佐役までも解任する積りにござる」

「・・・」

 求馬が夜空を仰いだ、煌々と半月が輝いている。

「治済は西の丸に入り大御所となる腹にござったが、殿が反対なされた。

奴等にとり殿は目の上の瘤にござる。それを知った拙者は無断で白川衆を

江戸に呼び寄せ、治済の暗殺を企て申した」

「皮肉な事ですな、定信さまに命じられたそれがしと嘉納主水殿が貴殿の

企てを阻止いたすとは」

「なぜ、拙者に眼をつけられた?」

 遠藤又左衛門の顔が苦痛に歪んでいる。

「非情に徹する、それが貴殿は出来なかった。古寺に放火を命じながらも、

江戸の町の類焼を避けられた」

 求馬が言葉を止め遠藤又左衛門を見つめた、迫り来る死の淵で彼は求馬を

仰ぎ見ている。

「更に世間の眼を攪乱するために、二度にわたり白河衆にお屋敷を襲わせま

したが、奴等は屋敷内に踏み込む様子をみせなかった。そこからそれがしは

貴殿を疑いの眼で見るようになりました。何故、首座殿に報告なされなんだ」

「拙者にも幕閣に知人は居ります。もはや上様のお心は定まっておられた、

それを殿に告げるは酷と言うもの」

 求馬は言葉を失った、忠節に命を懸けた男子の訴えである。これほどの

忠臣は居ない、だが無辜の他人を犠牲としたことが許せなかった。

「拙者はここで命を絶ちます。だが、このままでは死にきれませぬ。治済の

暴走を許せば、徳川宗家と御三家、御三卿は治済の血筋に支配されます」


 既に死期が迫っている。この人の遣ったことは許せない、併し己を殺し

政事の非をならす行為は認めねばなるまい。そうした思いが求馬の脳裡を

よぎっていった。

「遠藤殿、万一、治済さまが大御所を名乗り西の丸に入るような事態と

なれば、それがしが治済さまのお命を頂戴いたす。それをお約束いたす。

更にこの事件の背景は、それがしの胸に秘めておきましょう。安堵なされ、

定信さまにも嘉納主水殿にも内密にいたす」

「かたじけない」

 蒼白な遠藤又左衛門の頬に笑みが刻まれた。

「殿を頼みます。・・・最後に願いがござる」

「・・・」

「拙者の懐に五十両ござる、これを藤屋の船頭の家族に渡して下され」

「畏まった」

「これで安堵して地獄に逝けます。お帰り下され」

「さらばにござる」

「かたじけない」

 遠藤又左衛門のかすれ声を背にし、求馬は踵を廻し参道に向かった。

「むっ-」

 気力を絞った声が聞こえた。遠藤又左衛門が命を閉じた瞬間と感じたが、

振り向くこともなく鬼子母神の堂塔の脇をすり抜けた。

 鎌月が黒雲に覆われ、銀杏並木を突風が吹き抜けていった。

                       (完)


影の刺客(1)へ






Last updated  Dec 3, 2011 02:55:30 PM
コメント(57) | コメントを書く


Dec 2, 2011
カテゴリ:伊庭求馬活殺剣
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 

     「影の刺客」(76)

「事は破れた。最早、退勢をくつがえすことは無理じゃ」

 小屋の中から先刻の山岡頭巾の武士と思われる声が洩れ聞こえた。

「我等、白河衆は負けませぬ。まだ里には三十名の手練者が控えております」

 反論するしわがれ声がした。

(奴が白河衆を名乗る集団の頭領じゃな)

 求馬はそう察した。二人は小屋の翳で気配を断って内部の話に耳をそばだ

てている。寒風が容赦なく二人を襲ってくる。

「この計画は全て拙者の一存で成したことじゃ」

「それは可笑しい、貴方さまは常に殿がお怒りじゃと申され我等を急かされ

た。その殿がご存じないと言われますのか?」

 甲戌の声であった。

「許せ」

 武士の謝罪の言葉が洩れた。

「甲戌、これはわしのみが承知のことであった」

 再度、しわがれ声が聞こえた。

「一夢斎、白河衆は良く尽くしてくれた、礼を申す。この上は里にもどり、

武の鍛錬を成すのじゃ。数百年もの間、武を生活(たつき)の道としてきた

白河衆じゃ、これからも助けが必要となろう。分かるの」

「一橋治済は必ずや殿の失脚を謀りますぞ」

 しわがれ声が高まって洩れた。

「最早、わしの手にはおえぬ。上様はご成人なされる、そうなれば殿の力

をもってしても叶わぬことじゃ。・・・拙者も疲れた。殿の御為と思ってきたが、

余りにも犠牲者が多い、これ以上の犠牲者は無駄じゃ」

「お心の弱いことを申されますな」

「一夢斎、里にもどるのじゃ。これは拙者の最後の命令じゃ」

 屋外の二人が、ぢりっと小屋に近づいた。

 足元の枯草が微かな音をたてた。

「誰じゃ」

 声と同時に小屋から、三人の浪人が飛びだしてきた。

「その方等が江戸を騒がせし曲者の残党か?」

 覚めた声を発し、求馬が懐手のまま痩身を晒し小屋に近づいた。

「貴様は伊庭求馬か」

 中央の甲戌が大刀の柄に手を添い、威嚇の声をあげた。

 凄まじい殺気が湧き上がり、凄愴な空気が闇夜に広がった。

 鎌月が流雲に隠れ、一瞬、暗闇となった。

 二人が求馬の左右に散り、中央の甲戌が長身の体躯を低め抜刀した。

「甲戌、闘いは止めよ」

 小屋から山岡頭巾の武士と、墨衣をまとった白髪の老人が姿を現した。

「お主が奥州の隠れ里の白河衆の頭領、一夢斎かの」

 求馬がゆっくりと懐手のまま佇み、乾いた声を浴びせた。

「お主が元公儀隠密の伊庭求馬か、ずいぶんと仲間が犠牲となった」

 しわがれ声が殺気を含み発せられた。

「左様じゃ、それがしが伊庭求馬じゃ」

 答えつつ懐から腕を抜きだした、着流しの裾が突風に煽られた。

 それを合図のように山岡頭巾の武士が、高下駄を脱ぎ捨て足袋のまま

前進を始めた。猪の吉が草叢の翳で飛礫を握りしめた。

「この場で決着をつけますか?」

 鋭い声が求馬の口から吐かれた。

「・・・」

 一瞬、静寂となり、

「お言葉に甘え、暫時、時を頂戴いたす」

 山岡頭巾の武士が鋭い眼差しをみせ、闘いの中断を申し出た。

「それがしは一向に構えませぬ」

 求馬が乾いた声で応じた。

「かたじけない」

 山岡頭巾の武士が、背後に控えた四人に向き直った。

「お主等が束になっても勝ち目はない。先刻、申した通り里に戻るのじゃ。

六組もの手練者が斃れたのは拙者の責任じゃ。これ以上の犠牲者は望まぬ。

一夢斎、三名を連れて里に帰ってくれえ、長い付き合いであった」

 沈黙が漂い、甲戌の体躯から殺気が盛り上がった。

「止めぬか、仰せの如く我等は里に戻ります」

 一夢斎が甲戌を叱責し、山岡頭巾の武士と顔を見つめあった。

 突風が襲い白髪がおどろおどろと宙に舞い上がった。

 一夢斎が深々と頭を下げた。

「良くぞ料簡してくれたの、これで思い残すことはない。四人ともこの場

から去れ」

 一夢斎が顎をしゃくた。無念の形相をみせた甲戌が真っ先に駆けだし、

その跡を追って二人が暗闇に消えた。

「さらば、それがしも里にいぬります」

 網代笠を被った一夢斎が、無言で一礼し闇に溶け込んだ。

「我等、白河衆はいつ何時でも殿の下知ならば罷りこしますぞ」

 風に乗って一夢斎の声が流れてきたが、それも消え失せた。

 再び、突風が吹き抜けていった。

 雲に隠れていた鎌月が中天に昇り、対峙する二人を照らしだした。

「お待たせいたした」

 武士が山岡頭巾を脱ぎ捨てた。中年の鋭い眼差しの武士の素顔が

現れた。


影の刺客(1)へ






Last updated  Dec 2, 2011 11:25:53 AM
コメント(39) | コメントを書く
Dec 1, 2011
カテゴリ:伊庭求馬活殺剣
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 

     「影の刺客」(75)

「旦那、黒幕は現れやすか?」

「来る。来るとしたら小石川から護国寺に向かう道じゃ」

 求馬が迷いもなく断言した。

「待っておくんなせえよ、それは西の丸からの道筋ですぜ」

 猪の吉が不審そうな顔をした。

「猪の吉、わしを信じよ」

「分かりやした、音羽屋は恰好な見張り場となりやすね。あんな残酷な

奴等は、早いところ始末しねえと何をやらかすか分かりやせんね」

 そう云った猪の吉が首をかたむけた。

 求馬の端正な顔に心なしか苦しげな翳が見えた。

「旦那、何かを知っておられやすな」

「止むに止まれぬことでしでかした事件じゃ。わしには黒幕の胸中が

なんとなく分かる気がする」

「何をおっしゃりたいんで」

「猪の吉、武士とは辛いものじゃ、だが、わしは許さぬ。せめてわしの手で

引導を渡してやる」

「旦那は黒幕の正体をご存じなんですかえ」

「猪の吉、三日後には決着がつこう。今は何も訊くな」

「へい」

 返答はしたが猪の吉には、求馬の心の中が全く見えなかった。おいらは

旦那に付いていくだけだ、そう思っている猪の吉であった。


 翌日から二人は目白台の音羽屋の二階に陣取り、張り番についていた。

 東に小石川をのぞみ、西に向かうと鬼子母神へと向かう道筋にあった。

 一日目は何事もなく過ぎた。この辺りは暮れ六つを過ぎると人通りが、

ばったりと途絶え、暗闇に覆われる。

 千代田のお城の西北に位置し、鬼子母神のうしろには雑司ケ谷が控え、

朱引内と御府内の境界線にあたる場所である。

 三日目の夜を迎えた。

 八畳の部屋で火鉢を囲み、黒幕の現れるのを待っている。

 階下から付近の百姓や、雑役をこなす人足などの酔った声が響いている。

「旦那、今夜が奴等の言った三日目ですぜ」

「お主が聞き出してきたことじゃ」

 求馬が素っ気なく答え、愛刀の村正の手入れに余念がない。

「冷えてきやしたね」

 猪の吉が厳重な身形をして胴震いをしている。

 外はすっかり闇が落ち、音羽屋の大提灯の灯りがほんのりと道を照らし

だしている。

「いい月が出てまいりやしたよ」

 猪の吉が格子戸を少しあけ、道を警戒しながら月夜を告げている。

「そろそろ刻限じゃな」

 求馬が壁に背をもたせ、瞑目したまま声をかけた。

 四半刻ほど時間が経った頃、求馬が眼をひらいた。

高下駄の音が聞こえてきた。

「猪の吉、奴だ悟られぬなよ」

「抜かりはありやせんよ。旦那、あの侍が黒幕ですかえ」

 猪の吉が低い声で訊ねた。

「畜生め。山岡頭巾で顔が見えませんぜ」

 高下駄の乾いた音が音羽屋の前を通り過ぎていった。

 求馬が戸の隙間から鋭く一瞥した。身形の立派な武士が高下駄を履き、

音羽屋から遠のいて行く。

「旦那、小柄ながら腰の据わりの良い侍ですな」

 百戦錬磨の猪の吉が、素早く武士の腕前を見抜いている。

「あの男が黒幕じゃ」

 求馬が音もなく痩身を立ち上げ、足音を消して階段から外に向かった。

凍った冬空に半月が浮かび、煌々と下界を照らし出している。

 武士は警戒する気配もみせずに、護国寺の門前を横切り、鬼子母神へと

向かっている。

 黒羽二重の着流し姿で求馬が闇にまぎれ、うっそりと痕を付け、その背後

から猪の吉が、絣(かすり)の羽織を着こみ、股引姿で足音を忍ばせていた。

 やがて欅並木と銀杏並木が見えてきた、鬼子母神に着いたのだ。

 武士は参道をのぼり堂塔脇を抜け、迷いもみせず鬱蒼と繁った樹木の

闇に姿を消した。

「旦那、この奥に小屋がありやす」

 猪の吉が先頭にたって暗闇の小道を音もたてずに掻き分けている。

「猪の吉、あの小屋がそうか?」

「へい」

 求馬が何時の間にか猪の吉の背後に寄り添っていた。

「小屋には黒幕と曲者の残党が居るのじゃな」

「間違いはありやせんよ、頭は長身の男で配下の一人は手傷を負っておりや

す。その男がきしと名乗っておりやす」

「きしとは、癸巳のことじゃな」

 求馬が素早く名前を述べ、二人は気配を消し小屋に近づいた。


影の刺客(1)へ






Last updated  Dec 1, 2011 11:07:26 AM
コメント(39) | コメントを書く
Nov 30, 2011
カテゴリ:伊庭求馬活殺剣
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 

     「影の刺客」(74)

 翌日の昼、求馬と猪の吉が奥の座敷で話し合っていた。

太陽暦の二月四日を明日に控えた日である。立春の前日のことであった。

 猪の吉が昨夜、知りえた出来事を語り、求馬が一橋家襲撃の一件を語り

終えたところであった。

 二人、お蘭の家で情報を語り合っていたのだ。

「旦那、昨夜の襲撃の顛末は、嘉納の旦那からの伝言にござえやすな?」

 求馬が無言で肯き、視線を猪の吉に注いだ。

「良くぞやってくれたの」

「怪我の功名にございやす、まさか勘が当たるとは思ってもおりやせんでした」

「さて、今回の事件は長かったが、ようやく先が見えたようじゃ」

 求馬がギャマンの窓から、大川を眺めぽっりと呟いた。

 真冬というのに真っ青な空が広がり、高瀬船や荷船が忙しく上下している。

「旦那、この事件の裏側が見えてこられやしたか?」

 猪の吉が眼を光らせた。

「それもすぐに判明いたそう」

「旦那には見当がついておりやすな」

 猪の吉の問いに、求馬が薄い笑いを浮かべた。

「お主の捜ってきた三日後にはっきりいたそう。昨夜の一橋家襲撃のさい、

曲者は陽動策として本郷の古寺に放火をしたが、それが墓穴を掘ったとは、

皮肉な事じゃ。放火をしたが、類焼をせぬような万全な方法をとったのじゃ。

そのことで黒幕の正体が、朧ながらも見当がついた」

「そんな心遣いを奴等がみせやしたか?」

 猪の吉にとり初耳であった。

「猪の吉、幕府の高官を襲いながら、江戸の町を守ろうとする黒幕の意図は

何を意味する。そうした中で奴等は一橋家を襲いおった、そうした命令をだす

黒幕の狙いをなんとみる」

「待っておくなせえよ、最初は嘉納の旦那が襲われなすった。その後が

老中の松平信明さま、さらに書院番組頭の内藤右京さまと大番頭の岡部

大学守さまでしたね」

 猪の吉が過去の事件を振り返っている。

「その後は西の丸の首座殿を二度にわたって襲いおった。閣僚も首座殿も、

初めは江戸の町を騒乱におとしめると曲者と思われたが、その後になり、

幕閣の権力争いの一環として考えられるように成られた」

 求馬が猪の吉の言葉に補足を加えた。

「そうでございやすね、その黒幕は一橋治済さのと皆さまが思われやしたな」

「そうじゃ、その黒幕と思われた一橋さまが曲者の真の標的であった」

「摩訶不思議な事件ですな」

 猪の吉には事件の背景も求馬の意図も、まったく分からなかったが、

三日後に旦那は、事件の黒幕を退治されようとしている。それは長年の

付き合いで理解できた。

「猪の吉、上様は今年には成人あそばされる。その上様を牛耳ることの

出来るお方は、一橋治済さまただ一人じゃ。首座にとっては苦難の年と

成ろうな、改革も思うように進まぬ、それがわしの苦痛の種でもある」

 求馬が宙に眼を遊ばせているが、猪の吉には求馬の言葉の意味が分から

なかった。

「猪のさん、昨晩はご苦労さん。たまには昼酒もいいもんだよ」

 お蘭が二人の前に箱膳を並べ、妖艶な笑みを浮かべて労った。

「師匠にそんな事を言われちゃ、尻の穴がこそばやくなりやすよ」

「猪のさんの勘も捨てたものではないね」

 お蘭が猪の吉の杯に徳利をかたむけ、笑い顔を見せた。

「頂きやす」

 膳部には鰯の煮付け、天麩羅の盛り合わせと蛸の酢の物が乗っていた。

「ご免なさいね、こんなもので」

「ご馳走ですよ、それに師匠の酌なら申し分ありやせんよ」

「猪のさんも、歳をとると口が巧くなるわね」

「こいつは一本とられやしたね」

 猪の吉が満更でもない顔つきをした。

「どうせ事件の話でしょ、あたしは遠慮しますよ」

 お蘭が残り香を漂わせ次の部屋に去った。

 二人は暫く黙々と食べ独酌した。

「猪の吉、音羽町か目白台の道筋の居酒屋なんぞに知り合いは

居らぬか?」

 突然、求馬が訊ねた。

「知らぬとは言いませんが、それがどうかいたしやしたか?」

「鬼子母神へ奴等の頭領が姿を見せる刻限は、早くて夜の五つ(午後八時)

頃と思っておる。そこに事件の黒幕も現れるかもしれぬ」

「成程、我々はその店で奴等の現れるのを待つてえ寸法ですな」

「なるべくなら二階が良いがの」

「目白台なら、恰好の店がありやすよ。音羽屋といいやす、二階を貸切に

するように交渉してきやすよ」

「頼んでくれるか」

「合点承知、明日なら暮れ六つ頃からでいいでしょう」

 無言で肯いた求馬が、美味そうに酒を飲み干した。


影の刺客(1)へ






Last updated  Nov 30, 2011 11:10:52 AM
コメント(38) | コメントを書く
Nov 29, 2011
カテゴリ:伊庭求馬活殺剣
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 

     「影の刺客」(73)

「おっ、お客だよ」

 親父が嬉しそうに欠けた歯をみせ、視線を店先にうつした。

 カラリと表戸が開き、長身の体躯をした浪人が現れた。

「いらっしゃい、何にいたしやしょう」

「寒くて叶わぬ、熱燗をくれ」

 酒を頼み、奥の二人連れの浪人の席に腰を据えた。

 二人の浪人が丁重に迎えている。猪の吉が素早く盗み見た、頬に刀傷

のある精悍な面構えの浪人である。

「野郎が頭だな」

 猪の吉が杯を嘗めながら口中で呟いた。

 男は熱燗がくるや、徳利にじかに口をあて瞬く間に一本空にした。

 その後、三人が固まりひそひそと何事か話をはじめた。

 失敗ったとか、隠れ家とか断片的な言葉が聞こえてくる。

「親父、色男ぶっても駄目だね、どうやら振られたようだ。勘定を頼むぜ」

 猪の吉が親父に声をかけた。

「へい、有難うございやした、二百文頂きやす」

「あいよ」

 勘定を済ませた猪の吉が粋な声を張りあげ、端唄をうなり外にでた。

「桜は咲いたか、桜はまだかいな、柳なよなよ風しだい、山吹ゃ浮気で

色ばっかり、しよんがいな」

 そのまま猪の吉がすいと物陰に隠れた。

(冷えるぜ、奴等はほかの隠れ家に向かうな)

と思いながら寒さに耐え見張っている。

「有難うございやした」

 親父の声と同時に最初の浪人が現れ、鋭く周囲に眼を配り、本所方面

にむかって駆けだした。

 それを猪の吉が無念そうに見送った、まだ二人の浪人が現れないのだ。

 暫くして二人が表に現れた。

きし、これから鬼子母神まで駆けるぞ」

 長身の浪人が声をかけ、足音を消して一つ目橋をめがけて駆けだした。 

「野郎、並みの浪人ではねえな」

 二人は見事な足さばきを見せ闇に消えてゆく、猪の吉も懸命に追いすがっ

た。大川からの西風が強まるなかでの追跡である。

「野郎、きしと呼んだが癸己(みずのとみ)のことだな)

 追跡しながら猪の吉が、名前の由来を解き明かしいる。

 二人は一つ目橋を右折し、両国橋を横に見て大川の土手を駆けあがり、

更に吾妻橋を渡り、寛永寺の門前と不忍池の間を抜け、雑司ケ谷町へと

向かっている。

 その手前に鬼子母神がある。そこは日蓮宗法明寺の仏堂で、本尊の

鬼子母神は子育てや、安産の神として知られていた。

 鬱蒼とした欅並木と大銀杏の木が目立ってきた。

 二人はようやく足並みをゆるめ、ゆったりと歩みだした。この辺りまで

来ると、町並みは途絶え暗闇が支配する一帯である。

 二人が肩を並べ暗闇のなかを進んでいる。猪の吉がぴったりと張り付いて

いた。樹木の梢が風でしなり、木々の騒めきのみが聞こえるのみである。

 二人は迷う様子も見せずに参道を抜け、堂塔の奥へと足を踏み入れた。

 鬼子母神の祀られてある堂を巡り、鬱蒼と繁った小道を伝い暫く進むと、

小さな小屋が現れた。

 二人は迷うことなく小屋に姿を消し、すぐに微かな明かりが洩れてきた。

 猪の吉が気配を消し板の隙間から内部を覗き見た。

 長身の浪人が衣装を脱ぎ捨て、見事な裸体をみせていた。まるで筋肉の

塊のような体躯をしている。

「お頭、衣装にござる」

「きし、そちの傷の手当をいたす」

「恐れいります」

 きしと呼ばれた男が袴を脱ぎ、着流しとなって上半身を晒した。

 見事に鍛えあげた肉体であるが、左肩と背中の刀傷が生々しい傷跡を

見せていた。お頭が薬を塗り込み白布を巻いた。

 その間、まったく苦痛を洩らすことがなかった。

「残念じゃが我等は三名のみとなった、三日後に頭領が参る。無念じゃが

襲撃は中止し、頭領の下知に従う」

 長身の男が表情を消し、乾いた声で告げた。この男が甲戌であった。

 彼は凍った内濠から、見事に生還を果てしていたのだ。

「それまでこの小屋に隠れておりますのか?」

「最早、三名では目的は果たせぬ」

 猪の吉がそっと小屋から離れた。今の言葉を聞けば十分である。

あとの処置は伊庭の旦那にお任せする、そう思ったのだ。

 強風が銀杏並木を揺らして去った。

 猪の吉の姿が参道に現れた。いま来た小屋の方角を見つめたが、鬱蒼と

した樹木の翳と闇で見分けることが出来なかった。


影の刺客(1)へ






Last updated  Nov 29, 2011 11:04:43 AM
コメント(37) | コメントを書く
Nov 28, 2011
カテゴリ:伊庭求馬活殺剣
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 

     「影の刺客」(72)

           (最終章)

 この騒動の始まる前、一人の町人が竪川に沿った道を東に向かっていた。

笠を被り合羽姿で足を急がせている、それは猪の吉であった。

 もう直ぐに二つ橋に差しかかる頃である。この橋の北詰は本所相生町

四丁目で、そこから六間堀が小名木川へと繋がっている場所であった。

 猪の吉は南北に広がる、深川森下町をぬけ、弥勒寺橋を渡って寺院の

土塀に、挟まれた寂しい場所にさしかかった。

 猪の吉は、はじめに発見した古寺から、捜りをいれようと考えていた。

 そのために曲者に気づかれず、弥勒寺へと遠回りをして近づいていた。

 周囲は人影もなく冷たい西風が吹き抜けている。

「冷えるな」

 独り言を呟き古びた廃屋の寺を見つけ、闇の中に溶け込んで行った。

 松の古木が風をうけ、ざわざわと騒がしい音を響かせている。

(こいつはもっけの幸いだぜ)

 猪の吉が暗闇で頬を崩した。万一、曲者が隠れていても、この風音では

気づかれる心配がない。

 枯れた下草をかき分け、寺の裏側に辿り着いた。

 古寺は灯りもなく人の気配も感じられない。

(矢張り、六間堀の東の寺かな)と、胸中でつぶやき耳をそばだてた。

 誰も潜む気配がない。

 猪の吉は笠と合羽を脱ぎ、丸めて床下に隠し身軽な姿となって寺に

侵入した。庫裏も空き部屋にも誰もいなく内部は冷え冷えとしている。

 猪の吉が懐中から、小さな蝋燭を取り出し火を点した。ぽっと周囲が

蝋燭の明かりに照らしだされた。

「矢張り、ここに戻って潜伏していたな」

 猪の吉の眼光が鋭くなった。

 庫裏には食べ残した残飯の入った丼ゃ、大徳利が散乱している。

入念に辺りを調べ、この古寺が奴等の隠れ家であると確信した。

「野郎共、誰かを狙って寺を出たな」

 猪の吉が独語し、庫裏の片隅に腰を据え、煙草入れから煙管を取り

出し、火を点け蝋燭を消した。

 漆黒の闇に煙草の火がぽっと明るく輝き紫煙が漂った。

 奴等が戻るとこの煙草の臭いに気づく筈だ、そうなると他の場所に

移動するだろう。それが猪の吉の読みであった。

 凍えるような寒さの中、一刻ほど猪の吉は気配を断って居座っている。

 刻限が五つ半を廻ったころ、微かな足音が聞こえてきた。

「戻ってきたな」

 素早く身を隠し気配を断った。

 寺の周囲を警戒しつつ、近づいて來る様子がうかがわれる。

 その用心深さに感心しながら、不審の念をもった。曲者は一人のようだ。

 忍び足で寺の内部に曲者が踏み込んできた。

 突然、戦慄する殺気が漂った。先刻、猪の吉が燻らせた煙草の臭いを

嗅ぎとったようだ。慎重に周囲を見回る姿が手にとるように分かる。

 男が素早く忍び足で寺から出た、それを見極めた猪の吉も動きだした。

 暗闇のなかに男が佇み周囲を警戒し、やがて忍び足で疾走に移った。

「野郎、逃すものか」

 猪の吉も負けずと痕を追った。

 男は浪人姿をしていた。彼は深川相生町まで駆け、そこで足を止めた。

 野郎なにをする気だ、猪の吉が物陰から覗いている。

 男は二つ橋のたもとにある居酒屋に、暖簾を分けて入っていった。

 猪の吉も素知らぬ顔で居酒屋に潜りこんだ。

 奥の長椅子に浪人が一人座り、熱燗を飲んでいる。

「親父、冷えるね。熱燗をおくれ」

 猪の吉は店の中央に座り、湯豆腐を肴に熱燗をちびちび口にして見張って

いる。どう見ても荒んだ面構えの浪人である。

 半刻ほど経った頃、暖簾を掻き分け浪人が顔を現し、すっと猪の吉の

背後を通り過ぎ、奥の浪人の傍らに座り込んだ。

(野郎、手傷を負っておるな)

 猪の吉の鋭い嗅覚が、血の臭いを嗅ぎ取った。

 奥の二人は何も語らず、黙々と熱燗を飲んでいる。

(畜生、これでは間がもてねえ)

 流石の猪の吉にも焦りが生じはじめた。

「親父、もう一本くんな。最近の景気はどうだえ」

「この通り、見ての通りでですよ」

 風采のあがらない親父が、素っ気なく答えた。

「おいら女待ちだ。それまで付き合ってくんな」

 猪の吉が徳利を差し出した。

「結構な身分だね、遠慮なく頂戴しやすよ」

 奥の二人の浪人は相変わらず、沈黙したまま独酌している。


影の刺客(1)へ






Last updated  Nov 28, 2011 11:11:23 AM
コメント(41) | コメントを書く
Nov 26, 2011
カテゴリ:伊庭求馬活殺剣
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 

     「影の刺客」(71)

強盗提灯の灯りに、男の素顔が顕となった。左頬に刀傷の痕が

ある、精悍な面構えの男である。

「貴様等に捕えられる訳にはいかぬ」

 挑発の声をあげた、甲戌が火付盗賊改方の群れに飛び込んだ。

 大刀が闇の中を一閃、二閃と奔りぬけ、血飛沫があがった。

 どっと火付盗賊改方の包囲網が広がった。

 その隙を見逃さず、甲戌の長身が内濠の淵に逃れでた。

「囲んで斬り捨てよ」

 その言葉を合図のように、甲戌が思わぬ行動をとったのだ。

 長身を宙に躍らせ内濠をめがけ飛び込んだ、水飛沫があがり甲戌の

姿が内濠に没した。

「濠に飛び込んだぞ、探すのじゃ」

 強盗提灯が水面を照らしているが、甲戌の姿は再び現れることはなかった。

 その時、嘉納主水が正国を手にし、一橋家の表門から現れた。

「大目付殿、大事はござらぬか?」

 山部美濃守が真っ先に訊ねた。

「心配はご無用にござる、逃げ延びた曲者はござるか?」

「五名が逃れでましたが、三名は討ち取りました。だが残念ながら二名は

取り逃がしました」

 山部美濃守が無念そうに報告した。

「大目付さま、その中の頭と覚しき男が濠に飛び込みました。多分、凍死した

と思われます」

 若山豊後が主水の側に寄りながら告げた。

「なんと逃れぬと悟り、内濠に身をなげたか」

 主水が内濠に視線を落とした、濠に薄氷が張りつめている。

「山部殿、屋敷で七名を討ち取りました。これで奴等は終わりにござるな」

 主水の体躯から、まだ剣気が立ちのぼっている。

「嘉納殿は居られるか?」

 表門から一橋家の警備頭、井坂隼人が凄惨な姿を現した。

「井坂殿、かなりの手傷とお見受けいたすが、大事はござらぬか?」

「これしきの傷は、かすり傷にござる。大殿のお言葉をお伝いいたす。

今宵の働き見事であった、そこもとのお蔭で危うい命が助かった。この

働きは上様に上申いたすとの仰せにござった」

「これは拙者のお勤め、上申なんぞはお止め下されとお伝いありたい。

・・・して警備の方々の被害はいかほどにござる」

「ただ今、調査をしておりますが、死傷者が二十名を数えるほどの激闘で

ござった」

 井坂隼人が苦しげな口調で答えた。

 主水と山部美濃守が絶句した。思いもよらない損害に唖然となっていた。

「嘉納殿、大殿の言上しかとお伝い申した」

 井坂隼人が肩を落とし引き上げていった。

「組頭っ」

 本郷の火事場に向かった、五名が息をきらして戻ってきた。

「曲者の襲撃がございましたか?」

 天野監物が性急に訊ね、

「かたがついたところじゃ。奴等は一名を残し全滅した」

「畜生、肝心の時に間にあわねえとは情けねえ」

 天野監物が無念そうに夜空を仰いだ。

「火事場の様子はどうであった」

 山部美濃守の問いに天野監物が町火消、わ組の頭の言葉を伝えた。

「天野、他に類焼せぬような古寺に放火したと申すのか?」

 傍らの主水が天野の言葉に、敏感に反応した。

「町火消の頭が不審そうに申しておりました」

「面白くないの」

 主水が腕組みをして考え込んでいる。

「我等を分散させるために仕組んだ放火じゃ。併し、類焼せぬような心くばり

をする奴等とは、思われぬ」

 主水が厳しい声を発した。

「矢張り一橋さまを狙うための、権力争いですかな」

 山部美濃守の眼差しも険しさを増している。

「左様、権力争いで一橋さまのお命を狙うための、陽動策ならば放火は、

慎重にせねばなりませんな」

「嘉納殿、町人に迷惑を与えぬ策としたら、それしか考えられませぬな」

「誰が黒幕じゃ、一橋治済さまの命を狙う者は」

 主水の言葉に全員が沈黙した。

 幕閣の権力争いと考えてきたが、それとは全く異にした事件に進展して

いるようだ。

「山部殿、遣ることは一つ、逃げ去った曲者を捕えることです」

「承知にござる。残りは一人、それも手傷を負っております。明日から

徹底的な探索をいたします」


影の刺客(1)へ






Last updated  Nov 26, 2011 12:00:19 PM
コメント(59) | コメントを書く
Nov 25, 2011
カテゴリ:伊庭求馬活殺剣
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 

     「影の刺客」(70)

 嘲笑をあびせ、最後の一颯を振りおろそうとした瞬間。

「爺を殺してはならぬ」

 治済の身をかばうように、お佳世が甲戌の前に立ちふさがった。

「女子は下がるのじゃ」

 さしもの甲戌も躊躇いをみせた、それを眼にした治済がお佳世の躰の

背後に隠れようとした。

「それが愚か者の振る舞いか」

 罵声とともに一閃が宙を裂き、治済にむかって煌めくと同時に、

お佳世が女とは思われぬ勢いで、身を挺し治済をかばった。

 白痴ゆえの愛情表現であったのかもしれない。

 ざっくりとした斬撃の感触を掌に感じた、甲戌が舌打ちをした。

「馬鹿な女子じゃ」

 お佳世の豪華な打掛が斜めに両断され、金襴緞子の肩口から血潮

が噴きあがり、お佳世の死体が治済の躰に覆いかぶさった。

「お覚悟を」

 甲戌が大刀を上段に振りかぶった、それは二人の躰を両断する構えで

あった。治済がお佳世の躰の下から恐怖の顔つきをみせている。

「曲者、手を引かぬか」

 主水の制止する声が響き、小柄が甲戌にむかって放たれた。

 素早く大刀で弾きとばした甲戌に、主水の愛刀、正国が襲いかかった。

 甲戌が大刀を摺りあげた。火花をものともせず、主水が猛烈な斬りこみを

敢行した。甲戌が躰を沈め躱した、正国が風音を響かせ甲戌の頭上を奔り

ぬけた。それは瞬時の出来事であった。

「貴様は何者じゃ」

 甲戌が身を低め大刀を突出した構えで威嚇した。

「忘れおったか、大目付の嘉納主水じゃ」

 声と同時に主水が一歩踏み込み、再び猛烈な攻勢を仕掛けてきた。

 長身の甲戌が見事な足並みをみせ、素早く後退した。

 二人は相正眼の構えに入った。そのまま静かな対峙がはじまり、甲戌

が間合いを取り、そのままの態勢で耳をそばだてた。

 廊下からは駆けちがう乱れた足音が聞こえてくる。

 屋敷内の各所でまだ闘いの懸け声と悲鳴が聞こえるが、仲間の大半が

斃れたと悟った。

「嘉納主水、聞きしに勝る腕前じゃ」

 甲戌が正眼から脇備えの構えに変化させ、素早い攻撃を送りつけた。

 主水は予期したごとく、数歩さがって受け流し、再度の攻撃に移ろうと

態勢を整えた。

「この勝負、あずける」

 甲戌の長身が後方に反転し、そのまま廊下に逃れ出た。

「トオ-」

 井坂隼人の懸け声が響き苦悶の声があがっている。甲戌は廊下を

疾走しながら、呼子笛を高々と吹き鳴らした。

 刺客道の生き残りが一斉に刃を引き、身をひるがえし庭に躍りでていった。

 甲戌も襲いくる家臣を薙ぎ倒し庭先に飛びだした。

 四名の生き残りが待ち受けていた。全員が血塗れの手傷を負っており、

なかには重傷の者も混じっている。

「皆、よく遣った。外に出れば火付盗賊改方が待ち受けておろう。なんとして

も落ち延びるのじゃ、捕えられたら自害いたせ」

 甲戌が非情な下知を与えた。

「お頭、さらばにござる」

 最後の別れを述べ、四名が散り散りとなって庭から土塀を飛び越えて

去っていった。

「現れよったぞ、逃すでない」

 怒号と大刀の打ちあたる音、乱れた足音が凍った庭先まで聞こえてくる。

 甲戌は無念の思いで、その音を聞きながら屋敷内を睨んだ。

 既に屋敷は静寂に覆われている。

「さらばいぬるか」

 独り言を呟いた甲戌が土塀に飛び乗り、周囲を見廻した。

 仲間が火付盗賊改方に包囲されながら、激闘する姿が見える。

 甲戌が土塀上を風のように走りはじめた。

「土塀に曲者が居るぞ」

「逃すな」

 そうした声を背に受け、神田橋御門へと駆けた。

「思った通りじゃ」

 御門警備の役人は五名ほどであった、残りは一橋御門に向かったようだ。

 甲戌が濠を見つめた。冷え込みが激しく所々に薄氷が見える。

「あそこに曲者が居る」

 甲戌の姿を見つけた火付盗賊改方の面々が、大刀を抜き連ねた。

「貴様等に、わしが倒せるか」

 土塀から甲戌が吠え、覆面と黒装束を脱ぎ捨てた。

 その様子を火付盗賊改方の面々が、不審そうな顔つきで眺めている。


影の刺客(1)へ






Last updated  Nov 25, 2011 11:22:06 AM
コメント(34) | コメントを書く
Nov 24, 2011
カテゴリ:伊庭求馬活殺剣
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 

     「影の刺客」(69)

「馬鹿者、これからが正念場じゃ。気を緩めてはならぬ」

 主水が烈しく叱責を浴びせ、河野権一郎が首をすくめた。

 主水は河野の様子を横目とし、屋敷を覗き見て声をあげた。

「いかん、奴等は既に潜入しておる。分かるか豊後、あそこの提灯が消えた」

「そう言われますと変です、強盗提灯が次々と消えております。やはり奴等は

忍び込んでおりますね」

 若山豊後も厳しい声を発し、屋敷を鋭く眺めている。

「山部殿、お聞きの通りです。ご貴殿は二つの御門を固めて下され」

 主水の体躯から殺気に似た剣気が立ちのぼっている。

「拙者はこれより、表門から一橋家のお屋敷に踏み込みます」

 主水が羽織を脱ぎ捨て十文字に襷がけとなった。

「大目付殿、自ら一橋家に踏み込みますか?」

「左様、職掌がら、救援に駆けつけます」

 嘉納主水は幕閣でも聞こえた剣豪で、特に居合を得意としていた。

「組頭、配置は終わりました」

 主水に叱責された河野権一郎が、足音も荒くもどってきた。

「河野、そちは神田橋御門の指揮をいたせ、豊後とわしは一橋御門じゃ」

 山部美濃守がすかさず下知した。

「皆に申しておく、奴等は手練者の一団じゃ。一人で立ち向かってならぬ、

三人一組となるのじゃ」

 主水が下知し袴の腿だちをとって駆けだした。

「驚いた人じゃ、皆共、行くぞ」

 山部美濃守と河野権一郎が隊を率い、固める御門へと駆けだした。

「曲者じゃ」

 屋敷の各所から声があがり、扉の破れる音と悲鳴が交差して聞こえる。

 小太りの体躯の主水が、一橋家の表門から声を張り上げた。

「大目付の嘉納主水にござる。ご開門下され」

 屋敷からは怒号と鋼のぶちあたる音が響いてくる。表門が開かれた。

「大目付の嘉納主水にござる。助勢のために推参つかまった」

 嘉納主水が門から飛び込み、凄まじい懸け声をあげ襲い来る曲者

の一人が苦痛の声を洩らし血煙をあげた。

 屋敷内は凄惨を極める状況となっていた。

 黒装束姿の曲者が阿修羅のように、暴れまわり、その度に警護の士が

血潮を噴き上げ倒れ伏している。

 嘉納主水が廊下を滑るように奥に向かい、正国が煌めき曲者が血飛沫を

あげた。彼の視線の先に血潮にまみれた警護頭の、井坂隼人が二人の曲者

を相手に苦戦している姿が見えた。

 曲者は二人一組で巧妙な攻撃で井坂隼人を押し詰めている。

「嘉納主水にござる、助勢いたす」

「大目付の嘉納殿にござるか」

 井坂隼人が肩で息をつぎ、掠れ声で訊ねた。

「左様」

 声で応じ襲いくる曲者の刃を躱しもせず、政国が曲者の一人を袈裟に

斬りさげた。井坂隼人も息を吹き返し手練の早業を見せつけた。

「ぐふっ」

 異様な声を洩らし曲者が、血の帯を引いて廊下に転がった。

「治済さまはご無事にござるか?」

 主水が血刀を手にし訊ねた。

「今のところはご無事にござる」

 主水と井坂隼人が廊下を伝って奥へ奥へ向かった。襖や障子戸が破れ、

血飛沫で無残な様相を呈している。

 二人の警護の士が曲者と相討ちで果てている姿もあった。

 それだけ一橋家の家臣は猛烈な抵抗をしていたのだ。

 その闘いの最中に、長身の黒装束姿の男が屋敷の奥に迫っていた。

「キエッ―」

 物陰に隠れていた家臣が猛然と斬り込んだ。曲者は躱しもせずに、

片手殴りの一閃を家臣の首筋に浴びせた。

 ぱっと血が飛び散り、曲者は血刀をさげて奥に駆け込んだ。

 それは一味の頭の甲戌であった。立派な奥座敷を前にして足を止め、

座敷の内部を覗き見て、ニヤリと笑みを浮かべた。

 座敷には豪華な衣装を纏った五十年配の男と、この世の人とは思われ

ぬ、美貌な女性が恐怖の色を浮かべ佇んでいた。

 甲戌が襖を蹴破り、座敷に踏み込んだ。

「一橋治済さまに、ございますな」

 それは不気味な声で、治済の肌が鳥肌となった。

「何者じゃ」

「貴方さまのお命を頂戴にあがりました者」

 覆面から、くぐもった声を吐き甲戌が無造作に近寄った。

「痴れ者、下がれ」

 治済が震い声を張り上げた。

「お覚悟を為されませ」

 不気味な声と同時に、血濡れた大刀を上段に構え、素振りをするように

一閃させた。風切り音を耳にした治済が辛うじて避けた。

「かくも不覚悟者が、御三卿の実力者か」


影の刺客(1)へ






Last updated  Nov 24, 2011 11:55:26 AM
コメント(38) | コメントを書く
Nov 23, 2011
カテゴリ:伊庭求馬活殺剣
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ クール にほんブログ村 小説ブログへ 

     「影の刺客」(68)

「今夜が最後の押し込みとなろう、忍び込みの刻限は四つ半(午後十一時)と

する。皆共、抜かるなよ」

 頭の甲戌が覆面越しから、全員を見廻し低い声で命じた。

 不気味で決死の空気が、異様に漂った。

「本郷に向かった乙丑(きのとうし)は、戻ってきますか?」

「この警備では戻れまい、隠れ家に引き返すじゃろう」

「あと一刻ほどありますな」

「それぞれ二人一組となって行動いたせ、引き上げの合図は笛の音じゃ」

 甲戌の命令で男達は、座敷の壁に身をもたせ沈黙した。

(治済の命を奪うことが出来るか、・・何名が生き残って戻れるか)

 甲戌が一座に視線を廻し、内心で呟いていた。

 静寂が田沼屋敷の廃屋を覆っていた。

 「若山豊後はおるか?」

 主水の野太い声に応じ、若山豊後が一同を割って顔をみせた。

「屋敷には変化はないか?」

「今のところ変わった様子は見られませぬ」

 嘉納主水と山部美濃守に河野権一郎が、大篝火の近くに腰を据え、

若山豊後が緊張した顔つきで傍らに待機している。

 一方、火事場に駆ける天野監物等は、凍える迎え風を受け先を急いで

いた。黒い空を染めていた、炎がやや弱くなったような感じする。

 前方から乱れた足音が響き、威勢の良い声がした。

「火付盗賊改方の旦那ではございやせんか?」

「誰じゃ」

「へい、あっちらは町火消八番組の、わ組を与かる頭の才蔵と申しやす」

「なんと・・、町火消の頭か」

 暗闇から刺子(さしこ)半纏(はんてん)をまとった、いなせな中年の男が

現れた。手に鳶口(とびぐち)を持っている。

「火事の様子はどうじゃ」

「へい、直ぐに消えます」

「なにっ」

「出火場所は本郷の古寺でございやす、付け火にございやすな。ですが

何か可笑しんで、そちらに駆けつける途中でござんした」

「可笑しいとは、どういう意味じゃ」

 天野監物が不審そうに訊ねた。

「付け火をするにしはて町屋から、離れた場所の古寺でございやす。

他に類焼する危険のねえ場所なんでございやす」

「そんな場所の古寺に放火か?」

 天野監物が闇を透かし見て応じた。

「いくら風が強くても大蛇池を越えて火の粉が、飛び火する心配はありや

せん。今頃は竜吐水(りゅうどすい)で消火を終えた時分にございやすよ」

 頭の才蔵が仔細に火事場の様子を語った。

 その言葉に天野監物の顔が険しくなった。

「そういう訳であっちらは、ここでご無礼いたしやす」

「頭、礼を言うぜ」

「滅相な、それじゃあ失礼いたしやす」

 わ組の才蔵が言い置いて駆け去った。

「奴等の仕業じゃ、類焼せぬように離れた古寺だけ放火するとは解せぬ」

 火事と喧嘩は江戸の華と、もてはやされた言葉は、それだけ頻繁に火事と

喧嘩が起こった証拠であった。

 八代将軍の吉宗は、享保の改革の一環として、江戸の防災化をめざし、

土蔵造りや瓦屋根の普及に努め、享保五年に南町奉行の大岡忠相は、

町方にイロハ四十七組の設立を命じたことから、始まった組織である。

「皆、奴等は火事騒ぎを起こし、我等の力を分断しその騒ぎに乗じて

一橋家を襲うつもりじゃ。もう、襲われておるやも知れぬ、駆けるぞ」

 天野の下知で面々が血相を変えて駆けだした。

 その頃、田沼屋敷に潜んでいた曲者が音を消して動き出した。

 次々土塀を飛び越え一橋家の広壮な庭に散っていった。

 邸内では強盗提灯を照らした、警備の士が慎重に巡回している。

 樹木の翳から二人一組となった曲者が、背後から襲いかかり音もなく、

小刀で突き殺し、斃した死骸を樹木の影に隠し屋敷に接近していた。

 まるで獲物を狙う獣のような俊敏な動きである。

「豊後、屋敷の様子はどうじゃ」

 主水が愛刀の政国を抱え訊ねた。

「庭の警備は打ち切ったようです、ずいぶんと強盗提灯が少なくなりました」

「なにっ」

 主水が素早く立ち上がった。

「もう四つ半を過ぎました。この寒さで屋敷に引き上げたのではありませんか」

 河野権一郎が、のんびりした声をあげた。


影の刺客(1)へ






Last updated  Nov 23, 2011 10:53:27 AM
コメント(37) | コメントを書く

全78件 (78件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 8 >


© Rakuten Group, Inc.