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原理を聞くとその教会だけで使っている、そこだけで通じる言葉がいくつかある。
その言葉を使っている人は、おかしいとか感じていないのが一般的だ。 伝道や万物復帰で実績がなかなか上がらない人をアベルは時に、<基準がない>という。 前線に出れなくて寝込んでいる人をさして、時に<基準がない>という。 それぞれの信仰を伝導した人数や万物復帰の額によって、<基準がない>というほうがおかしくないだろうか。 伝道は本人の能力あるなしで、できるものじゃあない。 一生懸命やっても成果が出ないこともある。すぐ出るかもしれないがすぐ出ないかもしれないし、たとえ出たとしても あんたに基準云々言われる筋合いもない。 誰が作った基準なのか、はなはだ人を見下した一言だといえる。 そんな言葉をいう人が基準なしだと思いませんかと言い返せればいいのにまたいわれた人も、そうか私は基準がないのかと認めて条件を立てたりする。そんな人に限って、いくら条件をたてても、いつまでも<基準が低い>ので実績があがったりすることはない。いつまでも私は基準がないんですと自分に自分を呪縛にかけて苦しくなる。基準がないという人も基準がないといわれる人も、どちらもどこか狂っていると思いませんか。 落ちたんです。 原理から離れた人を言うときに教会内でささやかれる言葉ですね。 落ちた。 いやな響きです。ちなみに私のだんなは、お休みしているんですよとか冬眠しているんですよとか表現しますが、いつかまた帰ってくると信じていたいようです。 どこから落ちたんでしょうか、使っている本人たちも意識せずに簡単に使いますが、これは原理以外の道は死以外の何者でもないと信じているがゆえに出る言葉です。 原理に疑問を持ち始めたとき、落ちたといわれること、おもうことだけでも、いやぁなきもちになりました。 カルトから目覚めた人、永い眠りから目が覚めた人と表現したいです。 教会から遠ざかっいる人が、自分から落ちたんですと表現している以上、いつまでも苦しく人生の落伍者のように感じさせる言葉です。 教会から遠ざかっても落ちたとか基準がなかったとかそんな言葉を使っている限り原理から離れられないのが、人の心です。 原理用語から早く抜けないと、回復が遅くなります。 教会ではいいことも言っていた、いい思い出もある。なつかしいそんな思いがある。 でもあそこにいられなかったのは、自分のせいだと自分に基準がなかったからではないのです。<いい人であるほど自分を痛めつけます> チョンピョンに何回いきましたかとかヨスの修練会にいきましたかとか聞いてくる人がいる。 いってないというとどうしていかないんですかと、たくさん行く人はそれだけその人が清いと思っているようだ。 形しか見えない典型的なあほぅだ。 敬礼すればするほど、献金すればするほど、犠牲を払えば払うほど神様の恵みがあるといい、そうだと思う人がいるから付け上がる人がいる。何回いったのが問題じゃなくてその中身がもっと大切ですよと教えるのが宗教ってものじゃないかと思うんですが。 言葉って大切です。人を信仰という名目で裁いてさも苦労している犠牲になっていると見せ付ける人はその行動によって同じように裁かれるそうです。基準がないとか落ちたとか簡単に口にしている人、摂理の中心で傲慢になっているのは、これを読んでいるあなたかもしれませんよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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