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主人の実家は、ソウルから車で10時間ぐらいかかるところだ。
義理のお母さんが生きていたころは、1年に4,5回帰ったが、なくなられてからは、民族大移動といわれるこの期間をはずして帰るようになった。 今回久しぶりにお正月にあわせてかえり韓国の正月らしい正月を満喫してきた。 近代化されたとはいえ、暖かく素朴なそして穏やかなお正月だ。 なくなった義理のお母さんのお姉さんの家にいって韓国風の挨拶をし、またおいやめいから、深々とお辞儀してもらいながらひとこといってもらってお年玉を渡して。私も年上らしく、子供を元気に育てなさいとか、夫婦仲良くしなさいとかいうのですが、照れくさかった。 家庭という核家族だけではなく、親戚の間でも親しい情がながれ、秩序だっているこの関係は嫁という立場で韓国に入り、だんなの兄弟が仲がいいから感じられるのでしょう。少なくとも私は、日本では、親戚の人たちと親しく付き合ってこなかった。親戚のおばちゃんより隣にすむおやつをよくくれたおばちゃんのほうがなつかしい。家と個人の結びつきは、家庭環境に大きく左右されるのかもしれません。 大人はおとならしく、おんなはおんならしく、 居心地がいい反面、そんな規存の価値観でしか見れないから窮屈でもあるのだと思う。 もちろん、韓国人はいや私のだんなは、この価値観がすべてだと思っている。原理を聞いて祝福を受けた韓国人は、輪をかけて頑固だ。男はこうであるべき、女はこうであるべき、父親とは、家庭とは、こうあるべきという形をはっきり持っている。 ある年齢になったら結婚しなければならないし、結婚したら子供を持たなければならないし、男の子を育てなければならないし、子供はいい大学、世の中が一流と認める大学にいかなければならないし、広くてきれいな家にすまなくちゃならないし、それが誰もが願っている幸福だと。 考え方に少し幅ができると、そうしなくても幸せになれることがわかると思う。 結婚、してもしなくても幸せになることとは別問題です。 子供を持つ持たない、男の子を産む産まない。大学にいくいかない。広い家に住むすまない 幸せとはもっと主観的な私のものの見つめ方だと思うからです。 結婚しなくても、子供がいなくても大学にいかなくても広い家にすまなくても幸せは作れるし感じれるものだと思います。 原理にとらわれているといつまでも幸せを感じられません。 いつも私の5%の責任分担が果たせないし,蕩減のため条件を立てていかなければなりません。罪にとらわれて、息ができないぐらいです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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