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普通に生活していた人が原理に深くかかわる動機はいろいろあると思いますが、私はまず好奇心でした。
世の中の厳しさや哀しさもよくわからないくせにわかったような振りをして、世の中を批判し、この世の不正に対して憤り、もっとよりよくなる世界を夢み、大人から教えられた価値観からなにか新しいものを探している時、原理というものに出会いました。 はじめは聖書を勉強しましょうといわれた時も、違和感がありましたが私の周りにはないものということで私の好奇心を揺さぶりました。 何だか西洋文化の窓口みたいな気がして、キリスト教というもの、聖書というものに生まれて初めて接しました。 周りの大人たちからは、宗教なんて深入りするものではないとか、弱い人間が一時的にすがるものだとかきかされていたので、哲学については本を読んだり、きいたりしていましたが学生時代に宗教について考えてみるのも必要なことだと思いました。 人間についての人生についての深い洞察をしてみたかったのです。 けれどそんなことを考えている人はまずいませんでした。 友達も表面的な会話ばかりでただ楽しむことに夢中になっているように見えました。親もそんな私の欲求を満たしてくれませんでした。 両親は現実の生活には無駄なことだと役に立たない話だと思っていました。そんなことを考えることがなんだかおかしい人のように思わされました。けれどただ単純に食べて寝て楽しむことはわたしには面白くないと思いました。友達といっしょに映画をみたりショッピングをしたりするのは、心から面白いと満足できませんでした。 そんな私が贅沢だともいわれました。 三浦綾子さんの塩狩峠やみちあるきを読んでは感動し原理にはまっていきました。 霊界の存在も信じていたので、だんだん神を信じない人生は無駄なことのように思いました。 霊界や神様がわからない両親や友達とも話が合わないし価値観が違っていると思うようになりました。 原理でなければ人間の救いはないと思うようになっていきました 。 そして原理を知らない親を霊肉救うことができるのは私が通路になるしかないと思い始めたのです。 献身の話が出た時私は無理だと思いました。親の激しい反対はわかりきっていたし、献身生活どれほど厳しいかよくわかっていたからです。 でも甘っちょろい自分をそんな厳しい環境の中におくことを通してまあ修行のように考えていたんですね。もっと成長できるとか人間が大きくなるとか考えたんです。 もう走り出してしまえば、つらいとか哀しいとかそんな感情もないんです。1ヶ月10000円のおこずかいも感謝です。 漫画がみれなくったって音楽が聞けなくったって、実績を上げ、評価され神様が喜んでいると思えば喜びに変わってしまうんですから。 今思えば、あんなに家族が反対しても原理を選んだのは自分の欲とか自分の事情とかそんなことよりも、家族が死んだ時、彼らが霊界に行ってとりなす人がいなかったらだめだと思ったんです。 家族が永遠に地獄のそこで苦しむ姿を見るのはいやだ私一人でもメシアにつながって天国に行く道が開かれて欲しい切実にと思いました。原理では家族一緒に行く天国ですから。 言葉で言っても今はわからなくても永遠といわれる霊界に行って私の功労が少しでも役に立ちたいと、霊界も神様もわからない家族を代表して茨の道を行こうと心に決めたのです。 決して親が嫌いだからだとか馬鹿にしているからとか言うものではなかったのです。 だれよりも家族を愛しているから、家族の永遠の世界まで心配するからあんな極端な行動がとれてしまうんです。そう思い込んでいるからマインドコントロールです。洗脳されていたのです。 自分も知らないうちに。私がとった行動は家を捨てたと見えるかもしれませんが実は私にとってはみんなを、家族を生かすためだったのです。 親を兄弟を絶望のかなたに追いやったかもしれませんが今わたしは、目が覚めたのだからあのころに戻って、なかよく関係を回復したいのです。 傷を負ったのは私だけでなく私の周りに関係したすべての人が負ったのを知っています。 でも一番深く負ったのは私自身なのです。それをわかって許して欲しいと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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