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私が韓国語の聖書を読もうと思ったのは、もっと原理を理解するためでした。
原理が成約のみ言葉だと信じていたので、基本に戻って聖書を読めば原理に対する葛藤がなくなりもっと深く信仰生活ができると思ったからです。 原理にもキリスト教を中心に宗教が統一されると書いているし、心からイエス様を待っている信仰深いクリスチャンがお父様をメシアとして受け入れて世界中のの復帰がいっぺんに進むと信じていました。 日本語の聖書も難しいのにあえて韓国語の聖書を読もうと思ったのは、韓国語が天国の言葉に近いと考えていたからです。時間はかかりましたが、読み比べるうちにひとつひとつの言葉がはっきり具体的に見え始めました。 たとえば詩篇の121編にはあなたの命を守られるとありますが、韓国語ではあなたの魂をまもらるとあります。 命という言葉を考えると肉の命を考えやすいですが、信仰という観点から見ると肉の命もあれば霊の命もあります。両方とも考えられます。 そんな作業をとおして、立体的に聖書の言葉一言一言が私の心に染みとおってきました。 聖書に人の戒めと神の戒めがあるといっています。 マタイ15:8この民は口先で葉私を敬うがその心は私から遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え無意味に私を拝んでいる。 人間の戒めが無意味だと人間の戒めがどんなものか考えたことがありますか。マルコの福音書7:8あなた方は神の戒めを差し置いて人間の言い伝えを固執している。あなた方は自分たちの言い伝えを守るためによくも神の戒めを捨てたものだ。 パリサイ人と律法学者にむかっていう言葉です。 原理は人の戒めなのか、神の戒めなのかと考えた時人の戒めだと思いました。 どちらも必要じゃないかと思いましたが、黙示録14:12神の戒めを守りイエスを信じる信仰を持ち続ける聖徒に忍耐がある。黙示録はよくわかりませんが聖書の結末はとにかく神の戒めを守るものだとわかります。 聖書の内容もとくことなく成約だという理由はどこにあるのでしょう。 メシアだという人の口から黙示録をといて欲しいものです。 韓国の自称メシアさんたちは、第3次世界大戦が起こってとか物々しい終末論を展開しますが、変なものが多いです。 聖書やイエスを飛ばして再臨のイエスを自称するのはおかしいと思いました。 キリスト教なら聖書が基準になって証されてこそキリスト教といえるはずなのに今の統一教会には文鮮明の言葉が基準になっています。だから文鮮明教です。 聖書とは関係ないので聖歌隊で賛美歌なんか歌わないでください。賛美歌にイエス様の名前の変わりにまことの父母なんて歌詞を摩り替えて歌わないでください。 霊的無知とはまさにこのことです。 毒酒を飲んで酔っぱらってしまっているのが統一教の群れだと思いました。 酔っ払っているのでさめるまで放っておくしかありません。聖書にもかかわるなといっています。テモテ第1の手紙1:4作り話や果てしない系図などに気をとられることないように命じなさい。テトス3:9愚かな議論と系図と争いと律法についての論争を避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
April 27, 2008 01:04:08 AM
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