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統一協会の万物復帰の歴史はいつから始まったのでしょうか。
私は信仰の訓練という名目で数々の行商をやりました。 そしてその行商はただの行商ではなく万民を救うための救いの条件をを立てるためのものでした。 今思うと何でこんなばかばかしい教えを信じていたのかあきれてしまうのですがその当時は真剣そのものでした。 朝早く任地におろされてからすることは祈りから始まり、断られても断られても人間的に判断しないで、<人間的というのはこんな高い商品は売れるはずがないとか、何度も同じような人がかったから無理だとか。>最後の1軒まで精誠を尽くすことでした。 売るものはいろいろありましたが、学生だった私は主に珍味を売りました。 タッパに試食用の6種類ぐらいの珍味を入れて1袋1キロぐらいの馬鹿でかいものでしたが旅行用のかばんに詰めて肩に担いで出発したものです。 暑くても寒くても風が吹いても雨が降っても雪が降っても薄暗い空けたばかりの時間にマイクロから降りて一人で勇ましくたずねていったものです。 決しておいしいとはいえない珍味を天のものだと信じて、初めて行く町、初めて会う人に、あなたがこの珍味を買わなければならないと命がけで熱心に語ったものです。 たかが珍味にこんなに熱心になるなんて相手は多分びびって買ってくれたり、同情して必要もないのに買ってくれたりしてくれたのだと思います。 世は闇だと思っていたのにこの万物復帰で世の中捨てたものじゃないなと感動もしたものです。私が思っているよりもいい人が本当に多かったし時にはあがっていきなさいとお食事をご馳走になったり、ジュースや水をくれた人もいて恐縮しました。 今もこの万物復帰は祝福2世に受け継がれているのでしょうか。 韓国では修練会の一環として形としてやっていました。 靴下とかハンカチとかキーホールダーでしたけど。 今この万物復帰は信仰の訓練と言われながらいいように私は利用されていたのだと思いました。 そしてこの万物復帰は多くの危険と背中合わせに行われていたと。 特に外国での万物復帰は、無知なことをいいことに身の安全について何の教育もなく行われていたということです。 公式的には何の情報も与えずにただ気をつけるようにという言葉ばかり。 アメリカでは、花売りをして殺された人もいたというのに内部では知らされないでうわさが飛び交うばかりでした。 殺された人がどんなところでどうして一人で売っていたのかそのアベルに対する責任について話されたことがあったのか。 韓国では狭い入り組んだ路地を配達していて、強0されたり暴0にあったりしてもその被害を訴えて弁償してくれるところもない。おまけに強0されたのは女が悪いと言わんばかりに祝福を無効にされるとか。 一歩間違えれば命を落としかねないことをしていた。 そんな危険なことも神が守るとあの文さんは言ったのではなかったのか。 自分の息子が交通事故にあったときは信者の責任だと全体が祈祷をしたが、マイクロの運転をして大事故で入院していた人たちのために自らが足を運んで祈ったことがあるのだろうかと思った。 そんな人を真の父母と呼んでいたとは、苦労して育てた親の立場になれば、監禁してでも説得したくなる団体に私は所属していたのだ。 もちろん私も親になって、実績がなければB街と呼ばれるところで万物復帰をしなければならないようなこんなところに娘を送りたいとは思いません。 あぶないじゃないですか。 こんな事実があっても真の父母を自称するこの人はいったい誰なんでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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