カルト
原理の主張と違っていることを説明するために聖書を持ち出してきたが、キリスト教が真理ですよとか信じましょうとか言うつもりはぜんぜんない。それは、原理から目覚めたその後に整理することだし、このプラグで整理したいこととは、またちがう。原理が旧約,新約を完成させた成約の御言葉だということに反論するだけだ。今も、韓国の教会では賛美歌を歌っているが、イエスをチャンプモニムにアーメンをアージュに変えて歌っている。おかしいと思わないで、習慣的に信仰している人イエスがお兄さんだといいながらイエスが語ったなぞなぞのような比喩をなにひとつ説得力を持ってクリスチャンたちに解くことも出来ないでいる。キリスト教は宣教する宗教だ。宣教する力がなくなったら、命がないと思っていいのではないだろうか。末端の信者が伝道して信者が増えないのを見たら危機感を感じないだろうか。かえって今は分派といわれるグループのほうが伝道が盛んだ。ここでも多くの日本人が分派といわれるところにいってしまった。分派は分派だ。その元がおかしいのにますます変な方向にしか行かないのに、新しい摂理だと韓国にいる祝福家庭を相手に伝道だ。それも日本の女性たちに。子供をおいて、家を回って伝道している人たちにつける薬はない。おねえさん、新しい真理のみ言葉が降りたんです。勉強してみませんか。ほんとうのように見えるところがくせのものだ。目に見えない確証のないはなしは、信仰という言葉にすりかえられて信じるしかない。はじめは浮き上がって喜びに満ち溢れるが、現状もよくなったように感じられるが、5年10年後は同じむしのむじなだ。統一教と同じ道だ。分派でも信じたく、信じずしてはやりきれないのが韓国人と祝福を受けたのが日本人の立場だともおもう。原理をこの期に及んで否定したくないのです。すべてを否定した後にくるむなしさにどう対処したらいいのかわからないし、いまさら日本にも帰れないし、にっちもさっちも行かないし、霊感商法というのがあるわけでもないし、無難に静かに細々と暮らすしかないのです。カルトの恐ろしさをいまさらながら実感した人だけが、これを社会問題にできるとおもいます。私が原理を聞いた時は、カルトのかの字もなかったし知られていなかった。霊感商法だけでなく、人の魂も抜け殻にする落とし穴を宗教というものは持っていると理解したいです。そのうえで、宗教とうまく付き合っていきたいです。私は宗教が持つプラスの部分を自分のこれからの生き方に活用したいとは思います。私が言う真理というのは、人を自由にし幸せにし命を生かすものでなければならないでしょう。どの宗教もカルトの可能性を内蔵していると思います。韓国にお嫁に来た日本人、自分から日本人であることを捨ててまで信仰に走った足跡がこれから信仰生活を始めようとする人たちにとっておおきな警告になってほしいです。カルトから目覚めてもがんばって、そこから新しい出発ができることを信じたいです。信じたいというのは、私もその過程にあるし、目覚めることは終わりでなく自分探しのスタートに立つことです。これは、はっきりいってしんどい。めんどうくさい。なかにいて腐るよりはましか。と思ったが、すごい疎外感と孤独の中での作業です。