フリーランスフォトグラファー 杉本祐一
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米海軍イージス艦「レイク・エリー」が新潟東工業港へ入港した。日本政府と米政府は共和国(北朝鮮)のミサイル発射実験に慌てふためき、日本海(東海)に緊急配備することになった。
2009.06.16
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激しい雨の日、最後の航海で新潟西港国際ターミナル岸壁を離岸する、マンギョンボン号。在日朝鮮人の、命の航路は日本政府によって絶たれた。
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まだ戦争は終ってない、休戦状態だ。ピョンヤンの街を整列行進する人民軍。
ピョンヤンの地下鉄はかなりの深さがあり、防空壕の役目も兼ね備えている。重そうなリュックを背よい何処に向かうのだろう。
ゴディの町はずれに、WFPの食料配給センターがあり、避難民は浄化された給水補給と食料支援、簡単ではあるが健康検査が受けられる。とにかく抵抗力がない子供たちの命を優先に、国連、WFP,NGOが連携していた。できれば、そして当面は日本独自の支援センターをアフリカの数ヶ所に設置してもらいたい。
クロアチア人に追い出され、たどり着いたのがボスニアのブコバル、セルビア人夫婦の住まいは、かつてボスニア人が居住してたが、セルビア軍に追われて何処かに消えたそうだ。ボスニア内戦中ブコバルでセルビア軍による大虐殺が行われていた(1996年1月)
長期の内戦でアフガニスタン国内には、1千万個の地雷や不発弾が地中に埋まっていると、推定されている。NGOの指導のもと、男達が地道な処理作業を行う。(1996年9月、カブールにて)
イン・サーフ・ホテルの明かりは、自家発電で賄っている。夜、ホテルを出て露天を見て周った。相変わらず色々な果物が屋台に置いてある。ふと、隣の露天に目をやると、前線帰りのムシャヒディーン(聖戦士)が大きな西瓜を買っていた。(1996年9月カブールにて)
WFPのセスナ機は途中の、ハレゲレ村で機材を降ろし、WFPの関係者を乗せゴディの町を目指した。その作業の間、日本人を見るのが初めてらしく、地元の子供たちが私たちに近寄って来た。
2004年4月、旧革命広場前で待ち構えていると、反米デモに立ち上がったシーア派の人々。6万人が橋を渡ってこちらに向かって来た。「ダウン・ダウン・USA!!」のシュプレキコールが、各所で揚がる一日だった(バグダットにて)
ガザ地区に入る時イスラエル軍の検閲が厳しく30分ぐらい取り調べを受けたが、パレスチナ側はパスポートチェックだけで、すんなり通過できた。目指すはPLOのアラファト議長だ。議長警護司令部のチェックと尋問を3回も受け、何とか議長公邸にたどり着いた。
2001年9月、へブロンの街を取材中偶然にもイスラエル軍陣地にたどり着いた。周辺はパレスチナ人居住区なので24時間体制で警戒をしなければならない、疲労感が漂う若い兵士。
人民軍に案内されて、各部署を見学したがかなりきれいに整備されていた。
キム・イルソン像に頭を下げるピョンヤン市民。
自爆攻撃があった。9分後に駆けつけたが遅かった、イラク警察と米軍が早くも、有刺鉄線で阻止線を築いていた。自爆車両は燃え黒煙が上がる国際赤十字バグダット事務所。
明らかに米軍は、劣化ウラン弾を世界中にばら撒いている。原発の高レベル放射性廃棄物から造られる事を市民の皆さんは、認識してもらいたい。そして罪のない子供たちの命が奪われることを胸に焼き付けてほしい。
2003年3月20日、米国大統領ジョージ・W・ブッシュは「先制攻撃論」政策でイラクに侵略戦争を仕掛けた。大量破壊兵器やアルカイダと何の関係もない主権国家へ。そして多くの市民が米軍の銃撃で亡くなった。
グラジャーン君は22歳、4年前地雷を踏んでしまい両足と右の手を失った。歩行する時は両腕を使い前進するしかない。使い捨て文化の日本は、これらの現象を抑制し戒め、資源の有効活用をリードして行かなければならない国際的立場に居るのだが。
1996年9月、世界に忘れられた戦場アフガニスタンを目指すことにした。ニューデリーからカブールへのフライトと航空券には書き込まれていたが、降り立ったのは別の空港だった。カブールの北北東70kmのバグラム空軍基地だった。長い内戦で街角には多くの人々が物乞いをしていた。
遊牧民は私達に訴えた、干ばつで餌の、草が生えず羊のミルクも出なければ、家畜が死んでいった。我われには、もうあてがない。どうにかしてほしいと声を枯らして叫んだ。国際社会は地球規模の問題としてアフリカの気象変動と食料問題に取り組まなければならない。
2000年2月、エチオピアが飢餓に見舞われているニュースが世界を駆け巡った。首都のアジスアベバから南東に800kmのオガデン地方が深刻で、WFPのセスナ機で現地に向かった。ゴディの町の総合病院に冷蔵庫はあったが、医療機器はない。写真は17歳の母と子。
徒歩で、北キプロス・トルコ共和国に入った、北ニコシアは交通量も少なく、行き交う人々もまばらで、街は閑散としていた。南との経済格差は、かなりあるようだ。国境線近くで靴磨き屋の中年男性と出会ったが、南ではこのような光景は見かけなかった。
東地中海に浮ぶ島キプロス、1960年代にギリシャ系政府に反発した、トルコ系住民の騒動が起き内乱に発展した。トルコ軍の軍事介入でキプロス島は南北に分断し、南はキプロス共和国に、北は北キプロス・トルコ共和国に、現在EUの仲介で、統一の道を模索中。写真はキプロス共和国はニコシアの国境監視所。
へブロンの街に行くとイスラエル軍戦車が不法占領し、パレスチナ住民を挑発していた。怒れる人々は素手で戦うしか手段がない。世界の市民はパレスチナの権利回復とイスラエルの暴力と米帝国主義に断固たる態度で抗議しなければならない。イスラエル戦車に投石するパレスチナ少年。
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オリーブ山のユダヤ人墓地より、旧エルサレムを展望。米帝国主義は戦後一貫して、イスラエルを強力に支援して来た。そしてパレスチナ人の命と土地を奪い続け、誤った政策のもとイラク侵略戦争を遂行している。