4 幻想のClassify?どん底・・・幻想のClassify?「わだば、ゴッホになる」と軍艦マーチを口ずさみながら版画を彫った棟方志功氏。 彼の作品に私は全く魅力を感じない。 でも、「青森の真っ青な空は墨でしか表せない」なんて台詞が気に入っている。 だから彼はAクラス。 芦屋雁之助の好演でも有名な「放浪の天才画家」山下清氏。 彼の「ちぎり紙細工」は秀逸なのだろう。 でも私は『職人芸』として彼の作品を認めるが、芸術性は感じない。 だから彼はBクラス。 「知性なき者の作品に芸術性はない」なんて山下清氏を酷評した『評論の神様?』小林秀雄氏。 「天皇の臣民としての義務が何よりも優先する」と主張し、戦争に反対する人々を強い調子で批判したらしい。 また、時の宰相田中角栄氏を強く賞賛したことも記憶に残る。 「プロレタリア文学などの観念性、私(わたくし)小説などの脆弱さを激しく批判した」など弱者を徹底的に否定する姿勢は好きだが、常に時の権力者に阿(おもね)る柔軟すぎる思考・姿勢には・・・ 「他人のことよりテメエのことを先ず批評しろ!」って思っている。 大学受験の時に必須だと云われ無理に読まされた難解な氏の著書『本居宣長』。 私が氏を酷く嫌うのは『本居宣長』だけが原因ではない・・・多分。 だから彼はFクラス。 「ジミーちゃんやってる~?」と振られると「やってる、やってるぅ~!」と答える下品な芸人ジミー大西氏。 彼の英国での個展を取り上げたNHKの放送を見て愕然とした。 彼独自の『色使い』の峻烈さに息を呑んだ。 『色彩』がキレイなだけの『ヒロヤマガタ』や『クリスチャン・ラッセン』なんて全然オヨビじゃない。 正しく『天才』なのだと思う。 彼の作品は欲しくないけど・・・ だから彼はAクラス。 NHKで水墨画の講師なんてものに成り下がった片岡鶴太郎氏。 氏の多方面への努力は買うが・・・ 水墨画も上手いと云うだけで何の感動もない。 「『グンゼ』のパンツ一丁で踊っていた頃」の方が数倍ましだった。 だから彼はCクラス。 なんて思いつくままに勝手に『クラス別け』をしてしまった。 勿論、Aが上等でFは落第点である。 ここに取り上げた人々に対する『評価』について、皆さんはキット異議があることだろう。 『一般的な社会常識』なんてモンで『評価』すれば全く別の結果が待っている。 でも、『一般的な社会常識』って何だ? 我々は、『主観(自分の考え)』と『客観(一般的な社会の考え)』なんてモンが、厳密に存在しているかのように思っている。 でも個人の『客観』に、ホントに客観性なんてあるのだろうか? 『銀行の行員』、『保険会社の社員』、『新聞記者』なんて、戦前なら『金貸屋』、『保険屋』、『文屋』って呼ばれた『賎業』だった。 『芸能人』なんて・・・ 20年前の親なら、自分の子が『そんな世界』に入るなんて絶対に許さなかった。 『芸能の民』は漂泊者で、定住する『百姓』とは相容れないもの。 明治改革以来、流行りの似非民主主義なんてモンのために・・・ 人口の大多数を占める『百姓の子孫』が天下を取った社会じゃ『百姓』の気に入らぬものは皆『悪いこと』だった。 『村の掟』なんてモンが姿を変えながら、無意識のうちに、ずっとミンナを縛ってきた。 それが、戦後は、少しはマトモになるかと思えば・・・ 『団塊の世代』である。 『和をもって尊し』とすれ奴等の発想は『百姓根性』と全く同じ。 何も考えずに『長老』(「リーダー」又は「マニュアル」)の言うことだけを聞いて、 『皆が同じことをする』ことを強要し、 『掟』を破る者は決して許さない。 ただ、『救い』は「『団塊の世代』は頭が余り良くなかった」ってこと。 だから、奴等が創った『窮屈な社会』は綻び始めているようだ。 今では・・・ 『銀行の行員』、『保険会社の社員』、『新聞記者』が持て囃され・・・ 親までが『芸能人』なんてモンに憧れる。 でも、 競争を原則とする『資本主義社会』に生きているのに、 中学校に格差が生じるからと『全国共通テスト』に反対する保護者。 『自分の子は、すこしでも良い高校、良い大学、そして良い就職先に!』 ってのがテメエらのスケベ根性じゃないのか? 『平等で公平な社会』 全く訳の判らない、新しい『村の掟』が出来たものだ。 『平等』と『公平』なんて、本来『相容れないもの』だって事すら判っていない。 まあ、だから『機会平等』じゃなく、『結果平等』なんて悪弊が罷り通ってんだろうけど。 『努力しなければ成功しない』って判っている癖に。 『努力しなかった』り、『努力したけど成功しなかった』者まで、『努力して成功した』者と同じに扱えなんて・・・ どの『面』下げて主張してんだ! 『敗残者』には、『リカバリーする道』と『敗残者として生きていく道』を選択する自由が残されている。 『成功者に憧れる』のなら、再び『精一杯』努力すれば良い。 『敗残者として生きていく』のなら、『成功者』なんてのに二度と憧れるな。 『ズッと社会の底辺を這いずり回って生きていく自覚』を持って暮らせば良い。 今更『上』や『下』なんて見ても仕方ないだろう? 自分に自信がないから何時も『他人の振り』を見て、自分に当て嵌めている。 そんな『百姓』時代の遠い記憶。 それが『一般的な社会常識』なり、我々が『客観』なんて思っているものの正体じゃないのか? 『自分が仕合わせ』だって思えば、誰が何と云おうが『仕合わせ』なんだ。 ただ、それを『自分で確信すること』が酷く難しい。 でも、今、自分の居る階層の・・・『Classify』なんて自分ですれば良い。 『青い鳥』なんて何時でも傍に居る。 つい弱気になる自分への警句として・・・ |