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新潟県武術連盟ホームページ

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春の章

易経と武術


昔、ある有名な剣術の達人がこういったそうな。
「我が流派の極意を会得したければ、『易経』を読め。よく熟読して得るところあれば、敵の動き、ことごとく先がよめるようになり、あたかも自分の手のひらを指差すがごとくわかってくる。」と・・・・。
私は実はここ数年、この言葉がひっかかっており、なんとか理解しようと易経を読んできた。
「易経」とは、ただの占いの道具ではなく、ものごとの栄枯盛衰の流れを解説した哲学書なのである。
ものごとには、必ず兆しがあり、それがあらわれ、なんらかの結果をもやたらし、やがて衰退し、姿を消す。
季節に春夏秋冬があるのもこの理論で説明できるし、人間の運命もまた、しかり。
これを人の動きにあてはめることも、当然できるのである。
しかし、実際に、どうやって武術の応用すればいいのか、具体的にどうすればいいのか、ここ数年、いつも頭の隅にこの疑問が残っていた。
しかし今日、太極拳の推手をやっていて、あ、このことだったのかと気がついた。
人間の動きの兆しは、股関節、腰、肩、膝などの根節に現れる。やがて、その兆しは肘から手へ、中節から、梢節にいたるまでにはっきりとした動きとなって現れる。そして、その動きは結果として、いろいろな作用や、影響をもたらす。そして、それがおさまると、また、無に帰り、やがてそこに兆しが生じる。その繰り返し、繰り返し・・・・。
戦いのなかで、一般的に我々が反応するのは、早くて、中節、遅ければ梢節に対応しているのである。
ほとんど、そうなってくると反射神経の鋭さだけが頼りになる。
つまり、余裕がないのだ。
ところが、敵の根節の動きに対して、すぐに自分の根節を対応させていれば、相手の中節、梢節の動きにまで、それをなぞるように対応できるのだ。
つまり、体と感覚で、相手の動きを読んで先回りすることができる。
まさに自分の手のひらを指差すが如し、である。
日本と中国の武術は「易経」の理論によって繋がることができる。
今までは、漠然と考えてきたが、今日、推手によって、そのことがより具体的にわかってきた。

次の段階では、根節の動きそのものを体のなかで消す、つまり動きの兆しを消すことによって「術」の完成をめざしていきたいと思う。
こんなこといっても、多分、一生かかっても「術」な完成なんてありえないと思うけど、絶え間なく、ただひたすらに近づいていきたいと思う。



至福のひととき


最近、お天気が続き、朝の稽古も、非常に気分がいい。
いつもどおり、朝5時起床。
もうすでに、まわりは、明るい。
眠い目をこすりながら、武術式ストレッチをおもむろに行う。
体が温まってきたところで、腹式呼吸・・・・続いて逆腹式・・・・それから天到から外気を入れて中院に流し込む。
繰り返す・・・繰り返す・・・。
それから、その気を丹田に落とし、また中院まで昇らせる。
それを繰り返す、く・り・か・うっ!ムムムム!しまった!便意が、、、、便意が・・・。
しかたなく、ここで中断し、トイレに駆け込む。
ジャ~すっきり!
宿便がすっかり体外に排泄されたって感じ・・・。
これが、気功のよいところであるな・・・・と自己満足して、気功を再開。
再び丹田から、気を中院まで、昇らせてまた丹田にゆっくり落としていく。
ん~いいぞ、この感じ、この感じ・・・。
次に丹田の気を会陰にまで持ってきて、尾りょから骨盤の真中を通らせて背骨を這い上がらせる。
それから、後頭部を通って、天到にまで昇らせる。
次に顔の真中を通って、上顎のつけていた舌先に気を流し、のど、中院、丹田へと気を流していく。
これが、小周天、10回くりかえすと、気分爽快!
次にタントウ功・・・空気のなかに自分が溶け込んでいくような、一本の木になったような、心がし~んと静まりかえっていく。
次に定歩雲手。
固まったからだを左右に大きくゆっくりとほぐす。
次に定歩上下掌。
丹田の気を掌にのせて、体を上下にほぐす。
ゆるやかに「発勁」する。
次に定歩崩拳。
勁の軌道をしっかり確かめながら繰り返す、繰り返す。
次に馬歩穿掌。
ここまで、くるとかなり肩がほぐれてきて、腕全体が柔らかい気をまとってくる。
でも、まだまだ、からだ全体が球体の気となってまとまってこない。
次に太極拳九十九勢套路を行う。
今日は腎の気を意識して重心を低めにおこなう。
重心を低くすると、いよいよ、肩や、腕全体に「浮き」がかかってきて、体は球体の感覚を帯びてくる。
九十九勢を終える。
ほんらいなら、もう1回繰り返したいところだが、今日は時間が無いので、次に進む。
八卦掌の走圏を行う。
ひたすらショウ泥歩で円周上をまわる。
今日は腎の気を意識しているので、下盤のカンフーを練る。
次に自然に八母掌に移る。
ひねる、ひねる、腰も肩も肘も手首も、ひねる、ひねる。
そしてまわる、まわる。
やがて腎の気が背中を通って肩腕、前手の人差し指と中指にまで昇ってきて、天に吸い込まれていく。腰、背中、指先までが一体となる感覚。
套路をおこないながら、深い瞑想にはいっていく。
私は、その日によって、敵を想定しながら、套路をやる場合と、今日のように運気を主体に行う場合と適当に使い分けている。
今朝のようにさわやかな朝には、運気を行いながら、稽古すると最高に気分がいい。
ましてや、今日は休日。
まさに至福のひとときであった。




静止しながら動いている・・・・これぞタントウ功!


タントウ功の弊害とは、体が固まってしまうことである。
長時間、同じ姿勢をとり続けることによって特に肩が固まってしまう場合が多い。
動く気功とも言われる八卦掌においても、長時間、推摩掌の形を維持して走圏を行っているうちに肩が固まって、非常に武術的には不利な体を作ってしまうことがある。
そいう人は肩の関節がロックされて、上半身と連結し、腕から肩までが一つの塊になってしまっている。
そういう人と手を合わせてみるとすぐわかるのだが、腕の感触が極めて硬く、ある意味、力強い。
これを勘違いして、自分は地力がついたとか、クンフーが身についた、腕と上半身が一体となった、挙句の果ては体全体の動きが一致してきたなどと自慢する御仁もいるが、これは、まったくおかしなことで、上達とは逆の下達の道を歩んでいるのである。
その証拠に化勁を使ってその人の攻撃を受け流せば、上半身と腕が見事に肩関節によって連結されているため、ことのほか簡単に崩れてくれる。
また発勁で攻撃すれば、たとえ運良く腕で防御したとしても、腕が上半身と連結され固定されているため、防御した腕ごと吹っ飛んでいってくれるのである。

しかし、いにしえの達人達は套路よりも、むしろタントウを好み、ひたすら修練していたということであるが、それはなぜか?

タントウとは、ご存知のように膝を曲げ、重心を落とし、姿勢、手形を固定するという極めて地味で、つらいものであるが、この修練の目的は、正しい姿勢をつくるということだけではなく、体の外形を固定させながら、意念の働きによって内面を流動させることにある。
人は、普通、体を動かそうという気が働いて体が動くものだから、あえて体を動かさないという条件下で気を働かせ、それにともなう「体の動きをさせない」という圧力に対して、ずーっと気のエネルギーをかけ続けることによって、気の力を増大させていくのである。そうするとその気の流し方によって体の筋肉が流動的に反応していき、体全体としては動いてないが、いろいろな方向から筋肉が反応している状態ができあがる。
つまり、体の筋肉はいろいろな方向に働いてはいるが、体のパーツのそれぞれの筋肉の働きのなかで、絶妙のバランスを保って組み合わされているため、その結果として体は静止していうことになる。
よく、達人は、いきおいよくまわっている独楽のようだと言われるが、それは、まさにこのことだと思う。

初心者においてはこのことが理解できていないため、ただ形だけをとろうとする。そして、できるだけ長くやるぞ!とはりきって、きわめて硬い体をつくりあげてしまう。
よく、気功をやると指先が暖かくなるというが、こういうしゃにむに頑張る人は、長時間やればやるほど、指先がしびれてきて血行が悪くなるのである。
冬の早朝、寒いところでタントウ功をやるとよくわかる。
私も経験があるのだが、体の中がうまく流れていないと指先が痺れて、冷たくて、それをとおりこして痛くなってしまう。
しかし、体の中がうまく流動しているときは、だんだん指先が温かくなってくる。
全く、外形は同じなのに・・・。

もうひとつ、タントウ功の効用としては、実戦時における意識や気持のコントロールができるようになることである。
体を動かさないという条件のなかで筋肉を働かせることによって、気は、不自由さのなかで体の各パーツをコントロールしようとする。
それによって気の働きが活発となり、実戦時のおける緊張状態のなかでも、体を思うように働かせようとする気が強くはたらき、精妙な技を使うことができる。
武術において、最大の敵は自分に襲い掛かる精神的、肉体的なプレッシャーであり、それに打ち勝つためにはタントウで養われた活発な気の働きが必要なのである。



内家拳の套路は空間の鋳型


内家の拳術の套路を練るとき、形意・八卦・太極、いずれの場合も自分の体が持つ空間のなかに、体のそれぞれのパーツをもたれさせる。当然のごとく、足を空間にもたれかけさせようとすれば転ぶ。上半身を空間に寄りかからせれば倒れる。腰を沈めれば、しゃがむ。

いずれにしても、体のどの部分を空間に預けても、からだは地面にむかってひしゃげてしまうだけ・・・。
でも、人はからだの各パーツが倒れこむ方向をコントロールすることができる。
四方八方の空間に体のパーツを預けることが、同時に別々の方向にできれば、からだ全体は、日常の動きの質を離れた第3のバランスをとって動き出す。
そのからだ、ひとたび動き出せば、動く気配を見せず、脱力しながら速く、力は予測もしない方向から一気に姿を現す。過程を省いた結果だけが、瞬時に現象する。

内家拳の套路は、空間の鋳型。
この体をつくるには、一旦、この鋳型に体をあてはめなければならない。
最初は窮屈でも、そのなかで自由さえも感じるようになったとき、その鋳型をはずし、体は、あらたな天地を手にいれる。





虚嶺頂勁



中国武術の基本的要求に「虚領頂勁」というものがあります。
よく、頭のてっぺんを天井から糸で吊り下げられているような感じで・・・と説明される場合が多いのですが、私は最近別の解釈をしています。
それは首を空間に浮かべるということです。
具体的には、身体のいろいろな動きに対して首から上が揺れないひねられないようにするということです。つまり、首から上が、首から下の動きにひきずられることがないようにするということです。
こうしながら、相手の全体をしっかり見ることによって相手の動きの兆しを見逃さないようになるし、首から下の動きが、非常に楽に、しかも脱力しながら速くうごくことができるようになります。
ここで、注意しなければいけないのは、首筋の筋肉をいついかなるときも脱力させ、意識の上では、首から下の動きを脳が操っているという意識が必要です。イメージとしては、首から上が空間に浮かんでいて、それとは関係なしに首から下が動いているという感じです。特に変幻自在に身体を変化させる八卦掌において、この方法が身につけば、身体の動きは格段に速くなり、安定性も増すことになります。形意拳においては、どんなに制約された体勢からでもスムーズに、しかも素早く勁を発することができるようになります。
そして、その動きの印象は、なにげない動きに見えてしまいます。
人間の一般的な動きとして、力を使おうと思えば思うほど、速くうごこうとすればするほど、首筋に力が入ってしまいます。したがって、身体は、人間の体のパーツのなかでもっとも重いとされる頭を首の筋力で運ばなければなりません。人間の体にとって、頭を運びながら動くということは、とても負担が大きいのです。
そこで、その負担から解放してあげましょうというのが「虚領頂勁」の教えだと思います。




ざるそばと馬歩



ざるそばのざるを地面にきちんと積み上げた場合、そうですね、30まいくらいならきちんと安定して積み上げられるのかも知れませんが、これを人間が持つという事になると、きわめて不安定になります。なぜなら地面には、関節も筋肉もないからなんの抵抗もなくざるを支えていることができますが、人間の身体は様々な動きの要素をはらんでいて、一瞬でもじっとしていることはできません。
なかでも、ざるを安定させるのに不利な条件、すなわちバネを身体に持っているからです。それに、人間が直立している事そのものが、きわめて不安定な状態にあるため、不安定なものに不安なものをのせれば、当然、不安定になるのはわかりきったことです。
しかし、出前持ちと呼ばれる人達は、かなり高いところまでざるを積み上げて、なおかつ手のひらにのせ、なおかつ自転車に乗るという、きわめて高度な安定感を体現します。
これは、非常に高度な身体操作のありかたですが、地面のように安定して動かないものと同じ作用を、不安定で動く状態で作用させるという極めて不思議な現象だと思わざるを得ません。

中国武術や日本武術において、しばしば「陰・陽」という言葉が使われるのは、不安定を使って、安定性を求めるという逆説的なものを追究していくときに、「陰・陽」というもので説明したほうが、わかりやすく、しかも、奥深い説明ができるからだと思います。

人間の骨格がざるそばのざるのようなものが積み重ねってできあがったものだったら、きわめて安定性がいいのですが、これでは、人間の動きができなくなってしまいます。
人間の骨格は、きわめて複雑で多方向に動き、筋肉は複雑な力を発揮します。そんな複雑な構造を持った人間の身体を動きのなかで安定性を強めようとすれば、複雑さを利用して、バランスをとらなければなりません。身体の各パーツの不安定さをつりあわせることによって安定させるということです。
これが「陰・陽」の配合、すなわち「太極」のはたらきです。

中国武術において、この不安定さを安定に換える基本的な訓練として馬歩による「たんとう功」があります。
馬歩の立ち方で重要なポイントは、踵に意識をおいて、踵だけで立っているという意識が重要だと思います。
人間、踵だけで立っているなんてことは、当然、不安定すぎて立っていることができず、後ろへひっくり返ってしまうものですが、
そこで、膝を曲げ、腕を前方に置き、状態を骨盤の上に屹立させる。そして、膝頭が地面に落ちていき、逆に踵に意識があるために、うしろにひっくりかえりそうになっている。
こういった不安定を利用した結果、ただ単に、足腰で踏ん張っているといった単純な立ち方ではない、武術の基本としての「馬歩」ができあがるのではないかと思います。
この感覚を利用して動けば、ざるそばの出前を自転車でなんなくこなしている「出前もち」の達人の方達と同じような技術レベルになれるのではないかと思います。
そして、さらにこれを利用すれば、きわめて速く複雑な動きを、さほど体力も使わないでできるようになると思います。




教えないという教え方



今日は、私の師匠の教え方についてお話いたしましょう。

はっきり言って私の師匠は、ほとんど弟子をほったらかしです。
こんなことを書くと師匠の怒られそうですが、事実は事実です。

でも、たまに忘れたころに教えてくれます。
そのときの様子は、だいたいこんな風です。

あるとき、私たち(弟子の面々)が太極拳の套路を稽古していると、こう言われました。
「君たち、若いんだからもっと重心を落として、足腰の筋肉がパンパンに張って筋肉痛になるくらいにまで低くしないとだめなんだよ。楽して稽古したって強くなんないよ。」

あるとき、私たちが重心を低くして足腰を震わせながら稽古していると、「君ら、棒立ちのままでも稽古できなくてはいけないよ。重心が低いのも、いいにはいいんだけれども、棒立ちのまんまでも、座ったまんまでも太極拳ができるようにならなきゃね。」

あるとき形意拳の稽古をしているときに、こう言われました。
「君たち若いんだから、、もっと思い切っていこうよ。そんな手足が縮こまっているようではだめだ。もっと思い切ってね。」

あるとき、思い切って形意拳の稽古をしているときに言われました。「君ら、力じゃないんだよ。力じゃ。形意拳はね、気持ちでもっていくんだよ。気持ちでね。」

あるとき、八卦掌の套路を稽古しているときに、こう言われました。「君ら、もっともっと重心を落としてね、こうやってのっしのっしと歩くんだ。泥の中をこうしてね、汗をぼとぼとかきながらね、こうやってやっていくとね、強くなるんだよね。」

あるとき、八卦掌をのっしのっしとやっていると、こう言われました。「八卦掌はね、もっとはやくね、さーっと歩くんだ。肩に力が入りすぎだよ。肩の力をぬいてね、さーっと行く。」

同じことをやっていても、教えてくれるときはいつもアドバイスのしかたが違います。
細かいことは言いません。
肘の角度がどうの拳の位置がどうのとか、いっさい説明はありません。

それはなぜだかわかりますか?

教えることがいつも違うのは、私たちの技の進歩の度合いが、いつも変化しているからです。
進んでいるときもあれば、下手になっているときもある。
気持ちがちぢこまっているときもあれば、おおざっぱになっているときもある。
そんなとき、そのときの私たちにもっともふさわしい言葉をかけてくださるので、昨日言ったことと今日言ったことがたとえ正反対でも、なんら不思議はありません。
マニュアルどおりに、プログラムどおりに教えても意味はないのです。なぜなら、私達、毎日の変化の中に生きているのですから、その変化の具合を見て、そのときの状態に見合ったアドバイスこそが、適切なアドバイスなのです。

身体の細かい位置や角度を教えないのは、武術において、一挙手一頭足には、実に様々な意味と用途が含まれているのであり、ことこまかに規定することは、それらの多様な用途を狭め、限定していくことになるからです。
だから、同じ技のお手本を見せるときでも、ある日は前の手の位置がひくかったり、ある日は、高かったりします。
でも師匠は、いつもこう言います。
「こんなふうに、こんな感じでね。」と・・・・・。

普通なら、師匠がこんな感じなら、なんていいかげんな人だと思うでしょう。
実は、ほんとは技がうまくないんじゃないかとか、本当にこの師匠でいいんだろうか?とか・・・・・。

でも、私は、いつも師匠の言うことが違っていても、いつもやり方が違っていても、師匠の実力に舌を巻くことはあっても、師匠を疑うことはありません。
なぜなら、師匠の言われることは、いつも違っても、いつも核心をついたものであり、やりかたがそのときそのときで違っていても、そのすべてが技であることを理解しているからです。
そして、師匠が技を説明するときに「こんなふうに」とか「こうもってきてね」「こうやってね」「思い切って気持ちで持っていく」などと、きわめて簡素で、感覚的な言葉しか使わないのは、技というものが非常に多くの多面的な要素をふくんでいるために、言葉を多く、しかも理論的にしてしまうと、かえって局部的、限定的にしか教えられないということがわかっているからです。

人は、理論をこと細かに教えられると、丸暗記をするように頭の中にいれてしまいます。
なるほど、師匠の技のしくみは、こうなって、こうなっているから、こういう風にできるんだなと、そのときは納得しますが、はらのそこから理解していない。理屈ではわかるけど、身体で理解できていない。動けない。
これでは、技は身につかないのです。

今、このときに、このときだけに必要な言葉を短くポ~ンと投げかけられる。そんなとき、人は考えるのです、ああでもない、こうでもないと、悩んで試行錯誤をするのです。
そうやって、苦労してやっていると、あるとき、ふっと身体の感覚が理解して、技ができるようになる。
これが、技を学ぶということであり、会得するということだと思います。

そして、やがて自分が人に教える立場になったとき、こう思うのです。「やっぱ、こんな感じってしか言いようがない。」
こうやって受け継がれていくのが、真の武術だと思います。

この前の稽古のときも、師匠はほったらかしでした。
でも稽古している私達の近くで、お歳を召された母上様の話し相手をされたり、庭の草花の手入れをしたり、なにげない様子で日曜日の穏やかな時間を過ごしておられました。
師匠の立ち姿、動きそのものが技であり、その春風駘蕩とした表情も、なにげない私達のたいする気配りも、その生き方も、全ては教えであり、武術そのものであると思いました。

このように「教えない教え」というものがあることも、教えないということが実に多くの教えになるということも、私は師匠から学びました。私は、この師匠にめぐり合い、武術を教えていただいていることを誇りに思っています。

しかし、かく言う言葉多き、この私。
まだまだ、修行が足りないのでしょうね。





形式こそが日本文化を愛でる鍵



きちんとすることが日本の文化だと思わないだろうか?
きちんとすることは、相手の存在を尊ぶこと、相手との時間の刻一刻を大事にすること、相手と自分を包む空気の尊さを愛でること。

全ての日本の文化は、こんなにおいをもっているような気がするのです。

人の感覚というものは、とにかくとにかく不思議なもので、野放図にされると規範を恋しがり、規範にあてはめられると野放図な自分に憧れを抱く。
今この空間と時間のなかで一歩踏み出すも、じっとして留まっているのも、我々は自由なのです。
しかし、その今、一瞬の自由の素晴らしさや、広がりにたいする期待感は、規範のなかからしか美しい光彩を放たないのです。

水墨画を御覧なさい。
墨でぬりこめられた部分よりも、なにも描かれていない部分に空気や時間を感じることができるでしょう。
わびさびの世界の主役である茶室なるものの風景を想像してごらんなさい。そこにかけられた掛け軸も、なにげなくいけられた花瓶の花も、その主役であるお茶そのものも、そこに存在している人間たちも、茶室の一部分でしかなく、それでいてすべてが幽玄の空間をつくるために尽力していて、そこに主役として存在するのは人間でも茶碗でも花瓶の花でもなく「空間」そのものなのです。
人はそれを「宇宙」と呼び、「刹那」と呼んだ。
形式こそは、今そこにある自由闊達なものに触れる手段であり、人間の左脳を眠らせる睡眠薬でもあるのです。

ここで、人間にとっての空間の楽しみ方とはどんなものか?脳のレベルで説明してみれば、時間と空間を愛で、そこに芸術性を見出すことができるのは、右脳です。
左脳は空間を分析し、数値を頭の中にはしらせ、空間をこまぎれにして積み上げていくだけなのです。
これに対して右脳は一回見れば、全てを見たことになるのです。

これこれこうなるからこうなるということは、今こんな感じでそれが存在するという感覚には及びもつかない。
これが右脳の力です。

全ての芸事における形式と作法は、ただお行儀よくするためだけではなく、右脳が今を感じるために、左脳の働きをおさえるために存在するのであって、けっして、おとなしく礼儀正しい人を養成するためのものではありません。

武術においては、空気とともにあり、空気の流れを利用し、空気のなかを泳いでいく技術は、「型」によって養われた形式・・・・すなわち武術の身体的文法が前提の話であって、その形式の存在すら軽く見て、自由をもとめて旅するものもあり、ぎゃくに形式ばかりにこだわってその向こう側を味わうこともないまま見た目の華やかさばかりを追うものもある。
これは、あきらかに伝統文化とはいえないものであり、これを勘違いして、やれ武術だ文化だと騒ぎ立てる輩に一言苦言を呈したい。

空間を泳ぐ舟と櫂が欲しいなら、「型」を極めることだ。




「礼」について



礼とは何か?
茶道や花道などの日本の伝統文化における礼とはなにでありましょうか?
それは「一期一会」という言葉にあるように、その人と会い、その人と空間を共有すること、その時間を共有することを大事に思うことではないでしょうか?
また、その空間、時間を演出するものとして、お茶があり、花がある。それが茶道となり、花道となる。

礼とは、時間、空間、人を尊重し、愛でる心であり、作法とは、そのこころを表現するためのもの。
無駄な動きをしない。動きがぶれない。自然で効率的。人の目に角やごつごつした不快感を与えない。
その空間において、作法が溶けて消えていくように邪魔にならない、目立たない、効率がよい。

これは、肉体の動きすらその空間に障らないように、その空気を乱さないようにするための知恵であり、技術であると思います。
肉体の動きが主役になったら、その空間は、その動きに染められ、
時空の出会いを愛でる、お互いに共有する時空を楽しみ、味わうという多面的な要素が消え、その肉体の動きに、その人の主張に出会うだけのものになってしまうと思います。

これは、ひとりの人間の一場面に出会うことであり、お互いの時空を持ち寄って交わるところを楽しむという趣旨からはずれてしまうと思うのです。作法が空間に溶け込むことを拒否し、あえて、そこに芸術性をもたせようとする。これは、相手を自分の場の外に追い出し、傍観者の立場に追いやってしまう。

礼の主役は、時空なのであり、そこにいろいろなものが参加し、その空間を演出する。
そして、その参加するもの全てを大事に思い、愛でる。

これが日本文化の特徴であり、「礼」だと思います。

武術においては、「礼」とはつくられた場面ではなく、出会うものだと思います。
人と人とが出会う、そこにお互いの時空が交わる。
その場において「礼」を求める。
たとえ生き死にの場面においても、善悪の単純な立場を超えて「礼」を尊重する。これは、ある意味、人の命の尊さ、生きることの尊さを重んじるものであり、そのこころの表現として「術」があのです。いわゆる茶道、花道における「作法」にあたるものです。

「礼」とは、日本人があらゆる場面でこだわりつづけてきた美学であり、伝統文化の核心だと思います。





剣は自分に説くものなり。



以前、師翁の兄弟弟子にあたる方の演武のビデオを見ました。
その方は台湾の方でした。
さすがに套路は私達がうけついでいるものと同じものでしたが、その演武する様子を見て驚きました。

あまりにも下手くそだったからです。
そのビデオは、私の兄弟子達と一緒に見たのですが、「いい加減」「馬鹿にしてるのか?」「この人ほんとに強いの?」「だらだらしている」「覇気がない」「かっこ悪い」といった感想でした。
日本人に見せるビデオだからと、私達をばかにしていい加減に演武しているのかと思うと、私も腹立たしい思いでいっぱいでした。
しかし、用法の解説をしている部分を見ていると、実に懇切丁寧に用法を説明され、この方の実力のほどを窺い知ることができ、そこでまた驚きました。
「強い!」「確かに強い!」
これが真のクンフーだと思いました。
しかし、この方はビデオを見ている私達をばかにして、本気で演武しなかったという苦々しい思いは消すことができませんでした。

それから10年近くたち、今、そのときのことを思い返してみると、私のあのときの苦々しい思いは、まったく消えてなくなっており、かえって、その方の伝統武術にたいする徹底した姿勢に頭が下がる思いがします。
あのときのあの演武は、「伝統武術を学ぶ君達ならわかるだろう?」という謎かけだったのではなかったか?

武術の套路というものは演じるものじゃない。
人に見せるものじゃないんだ。
演武をしてくれと言われても、私は演武をするつもりはない。
武術の套路は自分の武術の心身を育むために行うものだ。

あの方のあの演武の様子。
今にしてみれば、なんの迫力も見せ場もなかったが、ひとつひとつの動作を自分のなかでかみ締めながら、確認しながら行っておられたような気がします。
それを見た未熟な私は、「馬鹿にしている」などと思ってしまった。見る目がないというのは、怖いことだなと思います。
彼にとっては、普段稽古しているその一部分を切り取って、カメラの前に無造作に持ってきただけで、見せようなどという意識はまったくなかったのです。
それを見て、格好が悪いとか迫力がないとか、馬鹿にしているなんて思うほうがおかしいのです。

本当に私達をばかにしているのなら、あんなに丁寧に技の説明などしてくれるはずもないのです。

そこには、伝統武術、かくあるべし!というメッセージがこめられていると思います。

先週のNHKの「武蔵」を見ていて、こんなシーンがありました。
沢庵和尚が柳生宗矩にこう言ったのです。
「剣は人に説くものではなく、自分に説くものです」

私もできるだけ、人前で演武をしたくありません。
もし、やむおえず、そういう機会を与えられたなら、ふだんの稽古の一部分をそのまま切り取って、無造作にそこに置いたような套路をやりたいと思います。




自然が一番!



人間にとって自然なんてことがこの世にあるんでしょうか?
人間は、自然が一番!なんてキャッチフレーズを聞くようになって久しいのですが、私は、自然食品のみを選んで食べていたり、断食したり、自然の動きを利用した体操とかで、身体を自然の状態にしようと努力しておられる方々は、すごいなあと思うのですが、なんだか、その行為そのものが、作為的と申しましょうか、人為的と申しましょうか、なんともいえぬ不自然さを感じるのです。
私が不自然な生き方をしている不自然な男なので、余計ひがみ根性も手伝って、ちゃちゃをいれてみたくなるのかもしれません。
これは、あくまでも自分の感覚でものを言っているのであり、ご不快に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、ご容赦ください
ませ。

武術において自然とか、自然体とかよく言われますが、武術を習ってみればわかりますが、立つとか歩くとかいう人間のもっとも基本的な特徴である二足歩行からして、「おい、おい、そんなんで武術の技なんかできないよ」と否定されてしまうのです。
武術は、二足歩行という人間にとってあたりまえのことについて、疑問を投げかけます。
そして、苦心惨憺して、やっと武術の立ち方、歩き方を身に付けるのです。
ですから、武術における自然体というものは、きわめて技巧的につくられたもので、とても自然などというものとは、程遠いものだと思います。

自然に逆らうなとも言います。
そこで、自然に生息している野生の鳥獣達を引き合いにだします。

鶴の戦い方を見よ!
トラが獲物に襲い掛かる様子を見よ!
蛇が、とぐろを巻くように、鷹が獲物を捕まえるように、熊が前足で殴るように、動物達の動きは、実に自然で理に叶っている。

でも、人間本来の闘い方なんて、あるのでしょうか?
爪でひっかきますか!
毒のある牙がありますか?
熊のような鋭いつめと、豪腕を持っていますか?
鷹や鶴のようにくちばしや羽をもっていますか?
猿のように素早く木から木へと飛び移れますか?

ほとんど無理でしょう。
ならば、自然の動物達の動きから学べ!

でも、本当は、そんなことは無理なんです。
鷹は羽があるから、獲物をつかまえられるのであり、飛ぶことを活かして獲物を追いかけることができるのです。
そして、彼らは羽の扱い方を知っており、それを充分利用できるから、自然の本能にまかせて闘えるのであり、羽を奪われたら、獲物をつかまえるために闘うことはできないでしょう。
人間には、羽がありません。
したがって、鷹の動きを真似してみても、鷹の動きなどできるはずもないのです。
しかし、その鷹の習性を観察して、それを応用して闘いに使うことはできると思います。
しかし、これは、人間にとって自然な動きではありません。
鷹でもないのに、羽もないのに鷹の動きを真似ようとする、この不自然さ、これを称して「自然」というにはあまりにも、不自然ではありませんか。

では、太古の昔、人類が原人だったころの闘い方に学べばいいのでしょうか?
無理です。たとえ、タイムマシーンに乗って彼らの闘い方をみることができたとしても、無理だと思います。
なぜなら、原人という生き物は、人類とは身体のつくりが違うからです。

では、人類、人間にとっての自然な闘い方って何でしょう?

おい、おい、闘い、闘いって、そんな闘いのことばかり言う野蛮な奴の話なんか聞きたくないという方もおられるでしょうが、これは、武術だけに限らず、全ての場面、ジャンルにおいて、「人間にとっての自然とは何か?」ということは必ずテーマになる事柄だと思います。

すくなくても、武術において、人間としての自然の闘い方などというものは、存在しません。
そして、合理的な闘い方を学ぶために、トラ君からも蛇君からも鷹君からもいいところを取り入れます。
特に、この傾向は中国武術に多いようです。
しかし、自然界に生息している多くの動物達から闘い方を学ぶことはできても、それを称して「自然に逆らわない闘い方」だと短絡的に言い切ることはできません。

多くの武術家達は、「自然に逆らうな」「自然体だ」と言って「自然」という言葉を口にします。

動物の真似をすることは、自然に逆らわない闘い方を身につけることではないように思います。
動物の動きは、あくまでも、学ぶ人達にわかりやすいように、学びやすいようにするための足がかりにすぎず、その動きの奥に秘められているもの・・・それを学ぶことが目的なのだと思います。
すなわち、それこそが、「自然にさからわない闘い方」の核心部分であり、構成要素なのだと思います。
それは、すべての動物の動きに関与し、命なき無機質のものですら、その作用から逃れることができない・・・・そいういったものです。

つまり、自然界の法則です。

人間のありようが自然であろうがなかろうが、他の動物達のまねをしようがしまいが、そういった人間の作為的なものとは関係なく存在するもので、その力を借りるためには、人間が勝手に反応しただけでは、借りることができません。
借りるためにはどうしたらいいかをいちいち相談しながら、やっていってはじめてできるのであって、人間の勝手な反応や思い込み(自然界の法則に逆らうような)だけでは、いつまでたってもその力を借りることはできないのです。

伝統武術における技や口伝、秘訣の数々は、先人達と自然の法則とのあいだに行われた対話の数々を集めたもので、こうすれば自然の法則は力を借してくれるよ、こういう借方もあるし、一括でも、ローンでも、こうすれば借してくれるよ、といった知恵の集まりなのです。

したがって、武術における「自然」というものは、人間にとっての自然ではなく、「自然の法則」という意味なのです。

こんなことを言うと、馬鹿なやつだと思われるかもしれませんが、私は、人間にとっての自然など、厳密に言えば、無い!といってもいいと思います。

蛇君や、トラ君にはあっても、人間にとっての自然など無い!
人間は、自分の存在のなかに「人間本来の生き方」などという意味での「自然」など求めることはできないのです。

できるのは、自然の法則から力を借りること。
そして、借りたものは、きっちり返すこと。
もちろん、自然界の法則にのとったやりかたで。
そうやっていくと、また、自然は繰り返し力を借してくれるのです。
借りっぱなしだから、人間の身体は、いよいよ蝕まれていき、また人間の生活環境も蝕まれていくのです。
自然のサークルのなかに参加しようとしないで、借りるものだけ借りて、あとは知らない!なんて自然界が許してくれるわけないですよね。

多くの自然派志向の方達が、雑誌やテレビにあおられて、まるでファッションのように自然の力を借りようとしていますが、細かい細胞レベルにおいても、広い環境レベルにおいても、人の生き方という内面的な場面においても、きちんと借りたものは返す、循環させる、自然界に対して、きちんとそういったルールをわきまえていなければ、必ず、自然の力を借りることができなくなり、はたから見ても、なんか不自然な感じになって見えてしまうのだと思います。

武術を学ぶ人達は、自然に逆らわないというよりは、自然界に対して律儀でないと、上達はできないと思います。
もちろん、技術的な意味においても、とくにそうです。

そして、思考をダイナミックに切り替えることができるようになって、はじめて武術は武術になれるのだと思います。

漠然とした一般論を、いつも、細かな具体的な技術と結びつけて考えていく。
また、その逆もできる。
これは、武術の思考法であり、ひとつの技といってもいいでしょう。
この技を学んで実践していく過程を武の道、すなわち「武道」と呼ぶのだと思います。




渦巻きを見る場所



中国武術において道場のことを「把式場」といいます。
日本の中国武術界では、あまり使われていないようです。

「式」とは、おもに「型」をあらわします。
つまり「把式場」とは「型」を把(とる)する場所という意味です。

この場合の把る(とる)というこの漢字も、おもしろい字だと思います。
私は、自分でこの漢字をこんなふうに理解しています。
手へんに巴(ともえ)と書いて「把」。
そして、これを「とる」と読む。

巴とは、渦巻きです。水がまるく回る様子です。
そして、手へんが加わると「とる」になる。
握るとか掴むとかではなく、「とる」です。
握るは手へんに部屋です。
部屋のなかに入れる、封じ込めるかんじです。
掴むも、手へんに「国」・・・四角いものに閉じ込めるかんじです。
しかし把は手へんに巴・・・これは手元に引き寄せてうずをまかせてまた流すかんじです。
これは、深いと思います。
武術における「型」とは、ものではありません。「型」を行う人がいなければ、姿をあらわすことはありません。
つまり、「型」とは「かたち」がないのです。
しかし、確かに存在し、代々伝えられてきたものです。
それを「把」するということは、それをてもとにひきよせて、うずを巻かせ、その様子、その働き、または作用を実体化させ、そこから多くのことを学び、また、実体の無い流れにもどすことです。

伝統武術の「型」は、その流派の流れのなかに存在し、それを学ぶ人は、その流れを自分のてもとに呼び込み、渦を巻かせ、そして、また、その流れにもどすのです。
けっして、型は、自分のものにしてはいけないし、流れに戻さないということは、水を腐らせるということです。

伝統武術の流れは、先人達が命がけで考え出してきた知恵の集積なのであり、とても、現代人のなかの一個人が、自分の小さな判断で変えることなどできないものだと思います。
武術を学ぶ我々ができることは、その流れをてもとに呼び込み、渦を巻かせ、それを眺めて学ぶことくらいであり、それでも、その渦の実体から、全体の流れを理解できるかどうか?といったところでしょう。

「把式場」・・・そこは、流派の流れをてもとにひきよせて学ぶ場所であり、稽古が終われば、「把式場」に流れを返すのです。
その空間には、目に見えない流れが、その流派の広大な流れが、流れている場所なのです。

道場が神聖な場所であると、よくいわれますが、私の場合は、流派の尊い流れが流れている場所であるという意味で、大切にしたいと思っています。

そして、稽古する場所は、全て「把式場」だと思っています。




「型」の示す道筋



どうしても拳から動かなければいけませんか?
どうしても手首から回転しなければいけませんか?
どうしても肘の屈伸から力を出したいのですか?
どうしても肩と腰の力を注ぎこまなければなりませんか?
どうしても押し付けなければ力が出ませんか?
どうしてもひきつけなければ力を感じませんか?
力をこめて静止することが、安心感を得る手段だと信じていますか?

体は、こんなことどもを無条件に信じているんです。
そんな体を越えるために、信じていたことを壊していかなければなりません。

拳から動けば、敵に簡単に見切られてしまいます。
手首が回転すれば、簡単に押さえつけられてしまいます。
肘の屈伸から力がでれば、敵の押さえ込もうとするタイミングにぴったり合ってしまいます。
肩と腰の力を注ぎ込めば、敵は、おおきな支えを獲得します。
押し付けてしまえば、受け流されます。
引き付けられたら、固まって安定してしまいます。
力をこめて静止すれば、戦いの全ての流れは滞ります。

武術は、拳から動きません。
武術は手首だけで回転しません。
武術は肘の屈伸による力を否定します。
武術は肩と腰の力を相手に連動的に注ぎ込みません。
武術は、押し付けません。
武術は引き付けません。
押すのでもなく、引くのでもなく、滑り込んでいくだけです。
ただ力感を伴わずに滑り込んで手足を動かしていく、その道筋をたどるのです。
その道筋は、きちんと「型」のなかに地図のように残されています。それをまちがわないように、うまく進めるようにしていくのが武術の稽古です。




何気ない稽古



普段、なにげなく稽古しています。
何時から何時までなんてことはありません。
型だけでは、ものたりないと思っています。
戦い方の稽古だけでは、まだ甘いと思っています。

一番、難しくて、それでいて根本的な稽古をしています。
それは、立ち方です。
それは、歩き方です。
それは、座り方です。

それは、肩の扱い方です。
それは、胸の使い方です。
それは、肋骨の扱い方です。
それは、骨盤の扱い方です。
それは、股関節の扱い方です。
それは、膝の扱い方です。
それは、首の扱い方です。
それは、肩甲骨の扱い方です。
それは、小指の扱い方です。
それは、親指の扱い方です。
それは、足の指の扱い方です。

日常動作のなかで、思いついたとき、この稽古をしています。
外から見ても、普通に日常動作をしているようにしか見えません。

そういうことを、いつも、なんとなく稽古しています。
なんとなく稽古することがとても大切なことだと思っています。





マイナスからプラスへ




太極拳は、相手と一体となること。
形意拳は、相手を突き抜けること。
八卦掌は、相手とすれ違い戻ってくること。

稽古の段階では、三つは、進化の過程であり、
ひととおり学んだあとでは、三つは、ケースバイケース・・・。
つかいわけるべきもの。

表演武術の素晴らしさは、個人が定められた規範のなかで、豊かな芸術性を表現すること。
それは、絵画や書や彫刻などの芸術に似ている。
テーマは、自分である。

自分がどう思うか。
自分がどう感じるか。
自分がどう反応するか。
自分がどう表現するか。
自分、自分、自分をどう解放するか。
全ては、自分の中から発するもの。

これが表演武術だと思う。

私は、これを素晴らしい芸術だと思う。

それでは、伝統武術はどうなのか?

表演武術とは違って、目の前に自分とは違う人間がいる。
しかも敵対関係にある。
自分と敵との間には、自分を芸術的に表現しようなどという自由は与えられない。
しかし、あえてそこに芸術性を持たせようと武術家達は考えてきた。
お互いがお互いの存在を否定しようという、最悪の状態のなかに芸術性を持たせる。
これは、人間のもっとも人間らしい行為だ、と私は思っている。
人によっては、なんて野蛮な考え方だろうと思うだろう。

しかし、仲良くなるのも縁ならば、戦うはめにならざるをえないという縁も縁なのだ。
現代においては、きわめて確率の低い縁ではあるだろうが・・・・。
そのときに、とりみだし、逆上して、はちゃめちゃに殴りあうか、それとも相手の矛を奪って、相手の殺意を消滅させてしまうか?

伝統武術は、そんなところに芸術性をもとめたのです。

現代社会において、そんな確率の低い場面に備えるために武術を学ぶなどとばかばかしいと思われる方々は多いでしょうが、全てがマイナスに働く場面において、それを一瞬にしてプラスの方向に転換する・・・これほど魅力的な技術があるでしょうか。
しかも、そこには、知恵がいっぱいつまっていて、いろいろな色合いを見せながら、数多くの流派が存在しているのです。

命をとられるかもしれないという場面は、究極の逆境だと思います。それを一瞬にして順境に換える技術・・・・・。

我々、現代人が生きていくうえにおいて、これほど魅力的な技術があるでしょうか。

表演武術は、順境の芸術です。
伝統武術は、逆境の芸術です。

いや、違う、私は様々な逆境を乗り越えて表演武術をやっているんだ!という方もいらっしゃるでしょうが、あなたは、最初から逆境を目指していますか?
最初から、危険のなかに飛び込もうとして、この道を目指していますか?
私は、違うと思います。
そこには、自分を表現したいという情熱があったはずです。
自分を思い切り肯定したい!
いわば、プラス思考のもとにこの道を目指したんだと思います。

しかし、伝統武術の場合は違います。
最初からマイナスの世界が広がっています。

命を獲られるのが怖い。
殺されるのが怖い。
怪我をするのが怖い。

その恐怖から逃れるために何をしたらいいか?
きわめて、マイナス思考からの発想なんです。

しかし、伝統武術は、マイナスからプラスに転換するための技術です。
それゆえにとても魅力的な技術だと思います。





「突いていく人」になる稽古




相手が突いてきたら、こう受けてこう打つ。
稽古は、いつもそうです。
そして、主役はこう受けてこう打つ人です。
いろいろな技を使います。
いろいろなこつを学び、使えるようになるまで稽古します。
しかし、相手が突いてきたら・・・の「突いていく」人の稽古のほうが、もっとおもしろいと思うのです。

武術は、きれいごとではありません。
なんといっても「先」をとること。
「先手必勝」なのです。
その先手をとる稽古・・・・というか「先手」をとってしまう稽古・・・これが「突いていく」人の稽古だと思います。

「活殺自在」とよく言いますが、その第一の段階として「突いていく」人になれるかどうか・・・・・。

その突きを工夫していけば、何百年伝わってきた技も、栄えある名誉の技も名人達人が工夫してきた技も、関係なくなっていきます。
もちろん、その技を使う人のレベルが「突いていく」人と同等かそれ以上の場合は、技を使う人が有利にもなり、いい稽古にもなるのですが、そうでない場合は、「突いていく」人の独壇場です。

稽古のゆくえは、「突いていく」人の認識次第です。
「技を使う人」の活殺を支配できるようになるために「突いていく」ということをきわめていきたいものです。




肩のお話



手から先に動いていってはいけないのです。
足を先に踏み出してはいけないんです。

肩につられて歩いていけばいいんです。
手の動きは肩から始まっていくんです。

両肩がまわれば全身がまわります。
肩が入れ替われば全身が入れ替わります。

肩がすべって横に移動していけば、全身がすべって横に移動していきます。

腕の動きを肩から始めれば、腕はいつからともなく、どこからともなく動いていきます。

腕は剣で、肩は拳です。

肩は空中に浮かんだハンガーで、手足はハンガーにかけられたシャツとズボンです。

力を発しないときは、シャツとズボンは乾いていますが、力を発するとき、シャツとズボンは目一杯水分を吸い、敵を打ちます。











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