冬の章酔っぱらっています。酩酊しております。 酩酊してなお体は武術の動きをしようとする。 この悲しさ・・・・。 みなさん、おわかりになりますか? 太極。 順境のときその核心部分に自分ではどうしようもないほどの逆境を抱えているとき、その人はおおいに栄えます。 逆境のときにその核心部分に順境がある人、この人もおおいに栄えるでしょう。 しかし、順境のときにすべてが順境の人、この人は必ず衰えます。 逆境のときに全てが逆境の人、この人に未来はないでしょう。 武術が私に教えてくれたのは、こういったことがらです。 沈肩墜肘のジレンマ 沈肩墜肘は、武術の基本姿勢のなかでもっとも誤解を受けやすい項目である。 特に沈肩ということについては、非常に初心者にとっては取り組みにくい要項であると思う。 沈肩・・・要するに肩を沈めるということであるが、これはおそらく誰にでもできることだと思う。 特にタントウ功など、長時間正しい姿勢を保っていようとすれば、いやでも、肩を沈めて耐えていくしかない。 しかし、肩を沈めて・・・という要求に「力を抜いて」という条件が加わるとどうだろう? まさしく、沈肩墜肘の「沈肩」とは、力をぬきながら肩を沈める、ということを要求しているのである。 では、力を入れて肩を沈めるとはどういうことであろうか? 遠くのものを手を伸ばして掴もうとするときに、もう少しで手が届くのに、あともうちょっとで・・・・っという時に肩の関節をグググっと前方へ伸ばす。 このときの肩の状態は、力が入っていて、なおかつ肩が沈んでいる状態である。 このように、肩を沈めて、肩に力をいれて・・・ということは、我々の日常生活には、しばしばあることであり、自然に無意識に行っていることである。 しかし、力を抜きながら、肩を沈めるということは、我々の日常生活においては、無意識にでてくるようなことではない。 したがって、初心者において、沈肩を要求すれば、力を入れて肩を沈めることしかできないのである。 武術において、体の各関節に要求されるのは、中庸ということである。 すなわち、湾にして湾にあらず、弓にして弓にあらずという状態である。 したがって、力を入れて、肩を沈めた場合には、肩関節が、前方に伸ばしきられた状態となるので、「中庸」という武術の要求からはずれることになる。 もっとわかりやすく言えば、肩関節を包んでいる靭帯が前方に伸ばしきられているということである。 これでは、肩から腕にかけて、ひとつの塊になってしまい、全身の関節と呼応しなくなるため、球体の霊活な動きは出てこないのである。 では、中庸の要求を満たす肩の状態とはいかなるものか? それは、日本古武道でいうところの「浮き」の状態である。 脱力しながら、静止している状態を古武道においては「浮いている」と表現されるが、まさに沈肩とは、肩が「浮いている」状態だと思う。 イカリ肩は論外だが、力んで沈めた肩でも、いけない。 肩の靭帯を伸ばしきらず、縮めすぎず、意識としては、肩の関節そのものが、空間にゆらゆらと漂っているようなイメージで・・・。 この意識によって、腕全体に霊活な気が流れ、全身の動きのなかに肩が溶け込んでいくのである。 とくに長時間タントウ功を続けていると、わかっていても、肩の関節に力をいれて肩を沈みこませていることがある。 これでは、肩から腕にかけて、一個の塊をつくっているのと同じで、武術の体からは、程遠いものができあがってしまう。 内気の運用を活発にして、この弊害から肩をまもることが重要である。 あなたが主役では・・・・ないかも? いつのころからだろうか? 物体の外側を覆っている空間こそが、実はこの世の中の主役なのではないだろうか?と思うようになったのは・・・。 以前は、武術の稽古をしていても、相手の気持になりきることで、相手の攻撃を見切っていたが、今は相手の肉体を覆う空間の変化を観察することにより、相手の攻撃を、より正確に見切れるようになった。相手の動きの全体がよく見えるようになった。 拳による攻撃をさばいているときも、相手の足の動きがよく見える。相手の蹴りをさばいているとき、相手の両腕の動きがよく見える。 相手の肉体のパーツの動きを見ているだけでは、こういうことはおきないのであって、相手の体を包んでいる空間の形状の変化を見ていれば、案外たやすくできてしまうものなのかもしれない。 空間の変化を見たら、迷わず、そのなかに自分のからだを流し込んでいけばよい。 そのとき、相手は体勢をおおききく崩れる。 これが、化勁の極意だと思います。 限りなく単純に・・・。 上達の螺旋階段は、絶えず、その道を志すかぎり、単純から複雑へ、複雑から単純へ移動していく。 でも、その繰り返しをしているうちに自分の足が宙から浮いて、上に向かって上昇しているのに気づく。 何回でも悩み、何回でもやり直し、考えているうちにわかってきて、やっとわかってきたのに、また途方に暮れる。 その繰り返し、繰り返し・・・・・。 でも、最終的に私は、単純で無垢な世界にたどり着きたいと思って いる。 打とうと思えば、なんとなく当り、にげようと思えば、なんとなく逃げられて、仲良くしようと思えば、好き嫌いなく、なんとなく仲良くできる。 この「なんとなく」こそが、形意拳でいうところの化神還虚ということだろうと思う。 私の武術の目標は、限りなく単純に近づいていくことである。 複雑なものを単純化することは、並大抵の研鑚では間にあわない。 ああでもないこうでもない。 さな動きなのに大きく見える。遅い動きなのに速く届く。力が入っているように見えて入っていない。姿勢が崩れているように見えて崩れていない。 これが武術の動きです。 こんな矛盾した動きを会得していくのが、武術を学ぶということだと思います。 そのために、身体の仕組みを理解して、手なら手、足なら足、膝なら膝を物理的に合理的に動かそうして努力を重ねるだけでは、片手落ちです。 たとえば、師匠の膝の動かし方を見て、師匠の理論的な説明を受けたとしても、師匠の膝の動きを会得することはできないと思います。 たとえば、八卦掌において、のっしのっしと歩きなさいと言われ、師匠の膝の動きを見て、なるほど、「のっしのっし」だな、きつそうだな、でもある雑誌にこう書いてあったぞ、「初心者は、まず下盤のクンフーが必要だ」と・・・・・足腰をきたえるんだなどと単純な理解、部分的な観察をしても、なかなか八卦掌を身につけることはできないでしょう。 なぜなら、師匠の部分的な動きは見ていても全体との関連を見ていないからです。 たしかに師匠は「のっしのっしと歩け」と言われた。 そのお手本も見せてくれた。 たしかにのっしのっしという感じで歩いている。 でも、頭の位置が上下していない。 肩が揺れていない。 普通、のっしのっしと歩けと言われれば、重心が上下するために頭の位置や肩の位置が上下に揺れるはずです。 しかし、たしかに師匠は「のっしのっし」という感じで歩いています。しかし、それにもかかわらず、全体が平らに動いている。 このところを見れるかどうかです。 ここに八卦掌の膝の技・・・・すなわち「下盤のクンフー」があるのです。 師匠から技を学ぶときは、全体のイメージと身体の各パーツの動きを合わせて見なければ、たとえ指一本動かすことを習うにしても、理論的に部分的には合っているが、全体的にみると間違っているということがよくあるものです。 全体的にみるとこうなんだけど、部分的にみるとこうだ。 師匠はこの技をこういうふうに説明したけど、その言葉どおりにやってもできない。 どうしてそういう風な表現をされたんだろう? こんな風に考えていると、たとえば、八卦掌の膝は地面をふんばって歩く意識で使うのではなくて、地面に崩れ落ちる意識で使うんだな、そうすれば、のっしのっしに見えて、平らに身体が流れていくんだな、そうすれば重心を落としながら早い動きができて、しかも足が疲れないんだな、これが八卦掌の下盤のクンフーなんだな、と言う風にわかってくるのです。 これが、技の感覚を会得したということです。 そうやってそれを頭の中に入れて稽古を積み重ねていく・・・・それによってさらにその感覚が磨かれていく。 技を会得するということは、技の感覚を会得することです。 感覚なんて、そんなデリケートなものを師匠から譲り受けようというわけですから、なかなか簡単にはいかないのです。 でも、やっぱり、難しいからおもしろい。 なかなか、私もやめるわけにはいきません。 生死の向こう側に住んでいた人々 人の心ほど、やっかいなものはありません。 人間の身体ってやつは、どんなに強く鍛えても、どうしたって自分のこころの支配から逃れることはできません。 武術となれば、なおさらのこと。 生死の狭間のなかで、先人たちもこころの問題で苦しんできたはずです。 真剣勝負において、白刃を前にしたときに、だれだってびびります。真剣が触れただけで、指の一本や二本、ぽとりと落ちてしまいます。胴体、頭を斬られれば、命の保障はありません。 そんな状況において、普段、稽古してきたこと、工夫してきたことが何の役に立つのでしょうか? 恐怖でこころが怯え、手足はまるで自分のものでないかのように思うように動いてくれない。 そんな状態で、やれツバメの技だとかトラの技だなどと言ったて、手足ですらまともに動かすことができない状況で、そんな技などできるはずもありません。 しかし、武術の使い手達は、そんななかで平然と技を使い、敵を倒してきたのです。 どうしてそんなことができるのでしょう? 彼らの心の状態ってどんなふうになっているのでしょうか? 映画「たそがれ清兵衛」のなかで主人公の清兵衛が、家老に上意打ちを命ぜられたときに、こんなことを言っていました。 「私は剣の道からしばらく遠ざかっていました。剣を使うためには、自分の命を平然と捨てる心がまえがなければ、とても剣など使えるものではありません。」 私はこの言葉のなかに、武術におけるこころの問題をいかに解決するか?のヒントがあると思います。 人間の身体は自分の命が危険にさらされれば、必死になって逃げようとします。逃げ切れなければ、「ぎゃく切れ」して敵に向かっていきます。もう、そのときには、自分の肉体の動きに細工をしようなどという思考は吹っ飛んで、目の前の危険をなんとか取り除こうと必死に手足を動かします。 でも、それでももうどうしようもなくなったとき、あきらめてしまい、自分の命さえ投げ出してしまいます。 おそらく、武術の達人と言われた人達も、かつては、こんな状態を何度も経験してきたに違いありません。 しかし、どうにもならなくなったとき、自分の命さえあきらめてしまったとき、そのときになってやっと普段稽古してきた技が使える、身体が思うように動くことに気が付いた。身体が生きることに執着しなくなったとき、はじめて技が使える、その結果として敵を倒し生き延びることができた、こんな経験を何度かしてきたことでしょう。 上杉謙信公曰く「生きんと欲すれば死に、死なんと欲すれば生きる」 柳生石舟斉曰く「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 一歩踏み込め あとは極楽」 これらの先人たちの言葉の背景には、武術というものが、このように「自分の命を平然と捨てる覚悟」がなければできないという思いがあります。 現代において、白刃のしたをかいくぐることもない私達には、当然彼らの心境、境地になどたどり着けるはずもないし、またそんなことは経験しないほうがいいに決まっていますが、過去において、生死のぎりぎりのところで、花を咲かせてきた「武術」というもの・・・・その身体の技術、こころの扱い方など、その高度に発達した文化から、非常に多くの学べるところがあると思います。 具体的には、「禅」に近い境地と、西洋文明が普及する以前に存在していた身体の使い方などです。 そしてこころと身体がいかに深く結びついているか・・・・。 生死の向こう側で生きていた武術の先人達・・・・彼らの文化には、生死のこちら側に住んでいる私達からは思いもつかない知恵がいっぱい詰まっています。 ジャンルを問わず、もっと多くの方々が関心を寄せていただければいいなあと思っています。 「無」と「自然」 「無」ということ。 人は、どうしたら「無」になれるのでしょうか? 「自然」ということ。 人にとって「自然」とはどういうことなのでしょうか? 最近、思うのです。 「無」というものは、自分にとっての「無」であり、「自然」というものは人間にとっての「自然」であり、どちらにしても「無」も「自然」も人間にかかわってくる問題で、「自然」や「無」それ自体は、人間にこだわらず存在しているのではないか? ひょっとしたら、「自然」も「無」も、人間さえ存在しなかったら、すべてうまくいっているのではないでしょうか? 人は元来、弱い存在です。 寒さから身を守る体毛も発達していないし、爪も牙も外敵から身を守れるほど強くありません。嗅覚も聴覚も触覚も、他の動物達から比べれば、きわめてレベルが低いと言わざるをえません。 そんな弱い動物なら、とっくの昔に滅んでいてもいいはずです。 しかし、他の動物より長寿です。 それはなぜか? 人はものごとを記憶し学習し、それを応用し、道具をつくり、言葉を話し、数字を操り、自分の肉体以外のものを利用して繁栄してきました。 私はこう思うのです。 赤ちゃんのころの人間は自然界のなかの一員で、ものごころついていろなものを学習していくにつれて自然界の一員から遠ざかっていくのではないか? そして、成長するにつれて自然と対立するようになり、いつのまにか自然の天敵となっている。 自然の反語は、不自然であり、自然でないものは「人工」である。 このことからもわかるように、人が工む(たくむ)=不自然・・・・つまり、人の為すことは不自然なのである。 ひいては、人間そのものが不自然な存在といってもいいでしょう。 いや、自然に生まれて、不自然になっていくと言うべきか・・・・。 猿がくだものをとるように、カメレオンが虫をつかまえるように、その動物の動作の過程が目的を達成するための無意識の時間であるように、武術においても、攻撃する過程や、防御する過程における意識というものは、目的を達成するための無意識の時間でなければ、相手の動きに惑わされ、なかなか打つことはできません。 そこに必要とされる技術は、自然界のできごとでなければならず、自然の力を利用したものであってはならないのです。 人は自然を利用すれば人工的になることから逃れるすべはなく、そこから、自然に還るには、人工の極地にまでたどり着き突き抜けなければならないと思うのです。 一度、くぐってしまった「人工」というトンネルは、向こう側まで貫通しないと「自然」にもどってこれないと思います。 武術の「人工」というトンネルの過程には、人という形を消していく消しゴムがあり、それを使っていくと、 地球に支配された肉体というよりも物体やその作用がかなでるハーモニーの姿が現れます。 「無」と言い、「自然」というも、ここからしか生まれてきません。 自然であるということ、「無心」であるということは、精緻なる技術に磨きをかけていくことによって、人工的な動きと意識を消してしまうということです。その試金石が武術における套路であり、対錬だと思います。 みなさんは、勘違いしています。 「心」がないなんて不自然だと・・・・。 「無」なんて冷たいと・・・・・。 どれもこれも、人間らしさを否定しているのではないだろうかと・・・・。 しかし、ぎゃくに考えれば、「心」があるから、不自然な行動にでるのであり、「無」を目指すから、煩悩が湧き出るということも事実なのです。 人間というこのどうしようもない存在は、なにもしないことの不気味さ不利さを感じると自然に戻ろうとして「不自然」になる。 そんな心と気持ちを捨ててしまえば、人間ではなくなるんじゃないかという恐怖があるのです。 たしかに、人間のなかには感情があり、感情があるのは自然でもっともなことだと思いますが、しかし、人間の心と身体を見る上においてどの部分が自然でどの部分が不自然なのかなんて簡単にわりきれるものではありません。 それくらい、人間というものの自然さというものは、あいまいで中途半端なものなのです。 しかし、人間ほど不自然なものはないと割り切って考えれば、「無」になることも「自然」になることもなんとなく抵抗が消えてくるのではないでしょうか? 武術において、なぜことさら「無」といい「自然」というのか? それは、、相手が打ってこようとしたときに、あぶないと思ってかわす、逃げる、受ける、反撃する、あるいは、相手が打ってくるまえに自分から打っていく。 なぜか? けがをしたくないから、相手を打ち負かしたいから、技を使ってかっこよく勝ちたいから、武術を学ぶ人なら、だれでもそう思うでしょう。 しかし、この感情を本当の自然の感情だということができるでしょうか? 犬が頭を掻くとき、どうやったらきれいにかっこよく掻くことができるかなんて意識しますか? 猫がさかなをくわえるとき、「おれってかっこいいだろ?」なんて思いますか? こうやったら、いかしてるとか、こうやったらきれいだなどとポーズをとりながら、魚をくわえますか? 人間だけです。 蚊を叩くときも、はえを追うときも、ものを食べるときも、くしゃみの仕方さえ意識します。 このときの意識、動作を自然なものと言えますか? 自然というのは、人間にとってそんな単純なことではないと思うのです。 武術において相手が力が強ければ、負けてしまい、同じくらいなら、引き分けるか、勝負運によって勝敗はどちらに転がるかわからない。相手の力が弱ければ勝つ。 これでは、武術と呼べません。 しかし、人そのものが不自然なんだと思い、その意識のなかで自分の肉体をあやつっていけば、「そうやった世界」があるのではなく、「そうなった」という世界が姿を現します。 つまり、勝とうとする世界があるのではなく、「勝ってしまった」世界が現れてきます。 つまり、これこそが「無」の世界であり、「自然」の世界だと思います。 眠っているときに頭がかゆくなったら、思わず掻いてしまう。 そのときの、手を頭にやる動作と意識が武術の技であり、そこにたどりつくには、自分が不自然であることを一から学ばなければなりません。そうやって、自分という存在のなかの不自然さろ過していくのだと思います。 以上のことは、私が日本の剣術の伝書と形意拳を学んでいくうえで考えたことです。 まだ、蒸気のようにはかなくつかみづらい内容ですが、自分の考えを形にするために書いてみました。 よきにつけ、悪しきにつけ、みなさんの武術を考えるきっかけになればと思います。 何もないその満ち足りた空間 欠けているから完全になる。曲がっているから真っ直ぐになる。 うつろだから、満ちる。古いから新しくなる。少なければ得る。多ければ失う。これが自然の法則である。 今宵、下弦の月を眺めながら、老子のそんな言葉をくちずさんでいました。 なかでも私の気に入っているフレーズは「うつろだから、満ちる」。とても気に入っている言葉です。 この言葉は日本の伝統文化の特徴を明快に示している言葉だと思います。 水墨画を見ます。 墨の濃淡の世界です。 でも、空白があります。 何も描かれていない部分です。 でも、何も描かれていないからこそ、空気が、空間が、温度が、しっとりとした情感が、空の高さが、遠くのさらに遠くの風景が、満ち満ちています。 なにも描かれていないから、いろいろなものが満ち満ちています。 書を見ます。 どんなに文字が主張しても、なにも書かれていない空白の許可が必要です。それを無視すると、空白が文字の存在を堕落させ、「美」というものから遠ざけます。 墨がその内部を塗りなおししようとして作為を企てても、余白はその不純さを容赦なく暴露します。 余白の部分は、筆の動く一瞬一瞬の動きに何がこもっているかを明らかにし、そこにバランスを求めます。 余白の許可をもらわなければ、墨の存在は芸術としての存在価値を認められません。 余白との戦いが書道だと思います。 水墨画は何もないところに何を現出させるかが問われるのであり、書は、余白といかに調和して美しさや思いを表出させるかが問題なのです。 何もないところに全てを語らせる。 これが日本の伝統文化だと思います。 主役は人でもなく、自然でもない。 そのすべてが生み出す空間と時間です。 なにゆえ、そんなところに芸術性を求めるか? 芸術を追求していくと、人の手では、人の心が遊ぶ空間をつくれないという結論に達するからだと思います。 だから肝心なところは無にする。 何も書かない。 武術においても、この何も書かないがゆえの空間が必要なんです。 何も書かないということは省くということです。 相手がどう攻撃してこようがどう変化しようが、その推測を省き、相手にダイレクトに届く。その間の空間は、本来何もない状態です。いつでも、相手との空間を省き、ねらいどおりの場所に技をかけていく。 妨げられるのは、相手と自分との間に意識を用いて、ぐちゃぐちゃと意識で埋めているからです。 なにも埋めないで、目的地を見据えてすんなりそこに入っていことが最短の道筋だとおもわれます。 全てが同時 何を知ったかぶりしてるんですか? おぼろげながら考えて、それがいかにも高尚なことだと勘違いしていませんか? 光と影について、そんな東洋の哲学のお話なんて、どうでもいいことじゃないですか。 実感すればいいんです。 理屈じゃないんです。 光と影を心の中で同時に実感しようと思えばそれでいいんです。 はっきりとしっかりと抱いてください。 自分のなかの光と影を・・・・・。 影ってきたな。 晴れてきたな。 それって、嘘です。 晴れは同時に雨であり、雨は同時に晴れである。 両方です。 どっちが表でどっちが裏ってことは、当然あることでしょうが、どっちがどっちでも、どっちかということはなく、はっきりとはっきりと同時だということをわかってください。 そんな心にはじめて武術の技が宿るのです。 精神論ではありません。 技術論ではありません。 折衷論でもなく、現実そのものだと言っているんです。 偏るのは、こどものときからの悪い癖です。 時間をゆっくり使いましょう。 おっと、そこのあなた、何をそんなに急いでいるんですか? あ~あ、時間にべっとりくっついて、人の時間にまで乗ろうとして、それじゃ自分の時間がな~んにも見えやしない。 はなれて、はなれて、他人の時間から離れてみてください。 おなかから呼吸してみれば、自分に流れている時間が、ほら、今、今ですよ、そこにゆったりと流れているじゃありませんか。 はなれて、はなれて、くっついちゃったら流されるだけですよ。 自分は自分の時間に乗っていればいいんです。 「流れる」ことと「くっつく」ことは、違うことでしょ。 くっついているのに流れていると感じるのは、流れているんじゃなくて、流されているからです。 自分の流れをよく見極めて・・・・。 すいすい、すいすいと流れていきましょう。 思ったより、時間って、ゆっくりなものなんです。 たまにはゆっくりいきましょう。 先が見えなくても・・・・。 だれでも人は、そうなんです。 目標がしっかりと定まると、たとえどんな苦難が待ち受けていようとも、大波小波を乗り越えて、右へそれようと左にそれようと、ひっくり返って空を仰いでも、なんとしてでもそこにたどり着こうと進んでいくんです。 そして、どんなに忙しくても、大変でも、充実感や幸福感を味わえるんです。 そんなときは、時間の流れの中を一気に駆け抜けてきます。 しかし、問題は、目標が見えないとき・・・・。 何をすればいいのか、なにがしたいのか、どうすれば幸せなのか、なにを目的に生きていけばいいのか? そんな虚しさに襲われるときが必ずあるんです。 そんなときは、途方に暮れます。 ふわふわと頼りない自分を、いやというほど感じます。 虚しさが身体を包み、妬みや恨みすら力を持ちません。 そんなとき、あなたはどうしていますか? そんなときは、一年先がわかりません。 一ヶ月先もわかりません。 一週間先、全然、わかりません。 あしたの予定すら、たてる気がしません。 今、たった今、この時ですら、不安です。 そんなとき、私は、今を味わうことにしているんです。 先のことなんか考えません。 今・・・この時、この流れている時間・・・・。 自分の動作をゆったりと行い、自分の目の前を流れていく時間をしみじみとかみ締める。 そんな風にして今をじっくりとかみ締めるように過ごしていたら、やがて、また、走り出すときもくるんです。 ゆっくりと行けばいいんです。 ひたすら、今を味わえばいいんです。 そしたら、きっとすてきなことが、いっぱいいっぱいあることに気づく。 先が見えなきゃ、今を見てればいいんです。 先は、あくまでも今の連続にすぎないのですから・・・・。 冬の夜のできごと 風呂にはいる。 浴槽になみなみとお湯をはって・・・・。 ザ~ッ!一気にお湯が溢れ出す。 タオルも石鹸も石鹸箱も浮かびながら流れていく。 これが武術だと思った。 あ~~いい湯だなと思った。 わかりやすい武術なんて・・・・。 稽古において悩むことは多いんですよ。 どうしようもなくなったときに思うんです。 師匠の教え方が間違ってるんじゃないかと・・・。 それとも、もったいぶって肝心なところを教えてくれていないんじゃないかと・・・。 それとも、師匠はほんとのことを知らないんじゃないかと・・・。 他の道場では、もっとわかりやすく教えていたと・・・・。 もっときちんとカリキュラムを組んで教えていたと・・・。 それにくらべて・・・・・。 いいんです、悩めば・・・・。 いいんです、よそみをすれば・・・・・。 いいんです、疑えば・・・。 いいんです、やめてしまえば・・・・。 でも、その師匠に教わることをあきらめても、武術を学ぶことをあきらめなければ、それでいいんです。 そうすれば、師匠の技の凄さがわかってくるんです。 わかりにくい。 真似できない。 でも、その動き、正しいと感じる。 あなたの師とされるかたが、そのような感じなら、間違いなくレベルの高い武術家だと思います。 だいたい、武術の技がそんなにわかりやすいものだったら、技をかける相手にもわかりやすいはずでしょ。 相手が、なにがなんだかわからないうちに技がかかる。 それが武術なんだから、そんな技を習おうとしているんだから、習う自分もわけがわからなくなるくらい難しくなければ、本物の武術とは言えないんです。 挫折してしまうほど習得困難な技・・・。 これが本物の武術だと思います。 アナタハカミヲシンジマスカ? 私は神を信じます。 仏も信じます。 キリストも信じます。 それらのものはいない。 自然こそが真実・・・ということも信じます。 神がいることもいないことも、仏がいることもいないことも、自然こそが全てだということも、全て信じます。 いい加減でしょ? でも、これだけは言えるんです。 それらのものがいるとかいないとか、あるとかないとか考えさせられてしまうほどの、何かが必ずあるのです。 私は、その何かが、「ん~ん、なるほどそれは事実だ!」とうなずいてくれるものを手に入れたい。 それを手にいれることが、武術の最終的な目的だと思う。 ひそかにそう思っている。 限られたものの中にこそ、人は自由の扉を見る。 自由のなかにこそ、人は制限の檻を見る。 芸術は、自由を求めて限られたものを駆使する。 絵、しかり。 書、しかり。 究極の境遇のなかに人は武術という自由の芸術を描いた。 この場合の素材は、肉体と精神、それと運命・・・・。 自由より自由に・・・。 そう思ったから、私は武術を選んだ。 人は、子供のときのように、いつまでも自由でいいはずだ。 ひそかに、ひそかに、そう思っている。 立っているだけで力持ち ふっと、何気なく歩いていてそう思うんです。 自分の身体はエネルギーをいっぱい持っているんだな、と・・・。 急ぎ足のとき、角を曲がるとき、階段を上る時、下りる時・・。 この身体はとてつもないエネルギーを秘めていると思うのです。 いやいや、私だけのことではありません。 あなたのことでもあるのです。 多くの動物達が四足で立っているのに、人間は二本足。 これって、すごく不安定なことです。 でも、人間はあえて二本足で立っている。 不安定ということは、崩れやすいってことです。 物が崩れれば、当然位置エネルギーを持ちます。 人間の身体は、絶えず崩れやすいという状態にあるものですから、不安定な分だけ、位置エネルギーを多く持っています。 だから、なにもしないで立っていても、あなたのからだも私のからだも多くのエネルギーを持っているのです。 人が不安定な二本足で立つためには、バランス感覚が必要です。 つまり、前に倒れようとする身体を後に倒れようとする身体で真中に持っていっていくことが必要です。 武術においては、このバランスのとれた拮抗した二つの相反する要素のうち一つを一瞬、消してしまうのです。 これによって、身体のなかに込められていた位置エネルギーが開放されます。 そして、瞬時にしてまたもとのバランスに戻す。 これが武術のエネルギーの発生のしくみです。 いわば、武術とは、人間の肉体が地球の引力と戯れているうちにできあがったものといえるでしょう。 技を裸にする。 ひとつひとつの技を理解し、ある程度体現することはできても、その技を自由に使い、攻防をするということになると、その技一個を使うだけではなく、複数の技を次から次へと繰り出していかなければならない。 そのとき、重要になってくるのは、技から技へのつなぎであり、全体の流れである。 ひとつの技が終わったときに、すでに次の技を始めるための準備が身体のなかにできあがっていなければ、相手にスムーズに対応できない。 しかし、ひとつの技が終わったときに、次にはこの技を出そうなんて考えていたら技に威力は半減してしまう。 それに遅い動きになってしまう。 この問題を解決するためには、師匠の技一個一個を学ぶほかに、「技としての師匠の動作」ということではなく「師匠の動き、動作の流れ、その雰囲気」といったものを学んでおかなければならない。 師匠の動きに注目してみた場合、このパターンなら次にはこんな感じで動く、このパターンなら、次はこんな感じになる。 いくつかの動きの流れのパターンを稽古しておいて、この技の次にはこの技が来るという認識から、こう肘が返ったときは、次はこんな感じで伸ばすとか、膝がこう動いたときは、次は、こんなかんじで足を進めるとか、拳がこういう状態にあるときは、次はこんな感じで引くとか、さらに観察のレベルをあげていって、この関節は、こうい動きのパターンが多いとか、この関節はこの部分は動かないパターンが多いとか、関節と筋肉の動きのパターンにまで認識のレベルをもっていくと、ほとんど無意識に次の動き、次の技、全体の流れへと広がっていくことができる。 ここで注意が必要なのは、師匠の動きのパターンをただつなぎ合わせるのであれば、相手の動きに対してまったく対応していないということになるので、あくまでも、師匠の関節と筋肉の動きのパターンにまで認識が及んでいないといけないということ。 そうでなければ、ただやみくもに憶えたものを、相手の動きに関係なくぶつけているだけのことで、一人芝居をしているようなものである。 そうはいっても、最初は師匠の物まねからはいること。 次に個々の技の研究をすること。 次に師匠の技のパターンを全体の流れのなかで把握すること。 そして、「技」という概念を裸にして、師匠の関節と筋肉の動きのパターンを身に付けること。 これによって、この技の次はこの技というのではなくて、この関節、筋肉の状態で、相手の次の動きに対応するには、このパターンで動く、次は、こう筋肉を使う、次の動きはこの関節は動かさないで、ここだけ動かして・・・・・というふうにやれば、「技」という一個の概念を動かすよりは、はるかに軽く、自由に動くことができ、相手の動きにも対応しやすくなる。 「技」を学び、「技」の概念を裸にして「動き」として身に付けていく。 これは、あくまでも技術的なレベルでの話ではあるが、拳経に言うところの「先天の一気から後天の一気に到る」というのは、こういうことをいうのではないか。 ストレスの化学変化 武術なんてやってるとさ、な~んかわかるんだけどさ。 人間ってやつは、一個の重いストレスとか悩みには弱いんだよね。 ぐぐぐぐ~~~~って落ち込んじゃうよね。 そんでもさ、いろんな悩みやストレスがさ、いろんな角度や深さで襲ってくるとさ、なんとなくストレスが化学変化起こしちゃって、ホバークラフトみたいに身体と心が浮いてきちゃうんだよね。 そして、ささささっと動く。 次から次へと動いていく。 行動力全開!って感じになるんだよ。 まあ、平たく言えば必死になるってことさ。 必死になるところを通り越せば、気分的に涼しくなるし、なんだか愉快になる。 生半可なことじゃだめだよね。 あ~やっと、なんとかなった、あんときゃ辛かった、大変だったなあ~~~なんて過去を振り返るみたいにすると一気に疲れがど~~~~って感じになる。歳も一気にとるってわけさ。 そうじゃなくて、そんときものすごい苦労したりひやひやしたり、必死だったりしても、そんなこと振り返らずに、過去は過去のこと振り返って感傷にひたる必要もない、終わったことなんだから・・・。大事なのはこれからだ!っていつも前だけ見ていれば、そんな疲れもたまらないし、ふけたりもしない。 そんなふうに私は思っています。 思い出 相手が怖かった。殴られたとき、その怖さは消えた。 こんなもんかと思ったら無性に腹がたってきた。 殴り返そうと思ったら、大勢の人に止められた。 おれは、たかがこれくらいのパンチに怯え、こんなへなちょこパンチに殴られたか!ふざけるな!倍にして返してやる! 中学時代のときのひとこま・・・・。 それから柔道に燃えた。 ふざけるな!おめえなんかからだごと叩き潰してやる! 強くなって、てめえに仕返ししてやる! 徹底的に柔道に夢中になった。 しかし、現実は、そう甘くない。 体格が自分よりも小さい相手には勝った。 自分より大きい相手には負けた。 時々、自分より小さい相手にも負けた。 時々、自分より大きい相手に勝った。 なんなんだこれは? なんなんだ人間のからだって? ぜんぜん思い通りにいかない。 とても、不思議だ。 試合になると体中がか~っと熱くなり、力がみなぎった。 しかし、みなぎった力が外に出ない。 内側にこもって身動きできない。 身体が動かない。 相手も同じ。が~っと力が入っているのはよくわかる。 でも、それって力が固まって、動こうとしない力だ。 このままでは、時間切れ。 おれが動かなきゃ! 動かなければ、技もなにもない。 うごかなきゃ!うごかなきゃ! 固まった身体を無理やり動かして技をかけようとする。 大外刈り! 動かない! 逆に100キロ近い体重をあびせられて、ドッテ-ン!っとひっくり返った! なんなんだこれは! おれがおれのからだじゃない! これは、高校時代のひとこま・・・・。 あれから20年以上もたつのに、まだ謎を解明できていない。 こころとからだのしくみ。 中学のときの怒りはまだ消えていない。 それは、あのときの恨みではなく、自分の心とからだを自分がコントロールできなかったという、自分に対する怒りだ。 ず~~~~~~っと怒っている。 おとなげないと思われてもいい。 怒りとともにいっぱいいっぱい毎日毎日、限りなく果てしなく考えている。 気がつくと、知らず知らず武術の道を歩んでいた。 わかりやすいほうがいいよね。 最初はさ、相手のこと考えてんだよね。 相手がどうくるか、どんな動きをするか・・・・。 いろいろ考えるんだよね。 そんでもさ、相手がどんな動きをするかなんて相手が動いているのを見ないとわかんないってことでしょ? わかんないよね。 初対面の人間でも、知っている相手でも、どんなふうに自分に襲いかかってくるかなんてさ、わかるわけないんだよね。 そんでさ、考えるよね。 待ってるから負けるんであって、待ってないでこっちからいっちゃえばいいんだって。 相手だって同じ。こっちがどんな動きがあって、どんな動きをするかなんてなかなか予測できるもんじゃない。 先手必勝! これっきゃない! やられるまえにやっつけちゃえ! でも、これって武術って言える? チンピラのケンカだよね。 弱いもんには勝つけど強いもんには負ける。 あたりまえの世界だよね。 でも、わかりやすくて実にさわやかな世界だとおもうよ。 そんな世界もなかなかいいもんだと思うよ。 最近の武術かぶれの人達を見てると、そのほうがよっぽどいいと思ってしまうよ。 染み込んでいく・・・・。 人の身体の意識には必ずといっていいほどつなぎ目があります。 武術を遣う人にはつなぎ目がありません。 相手につなぎ目があれば、つなぎ目のない武術使いは、その隙間に当然のごとくはいりこんでいきます。 そうすると知らないうちに技はかかっています。 隙間のない人は間合いを吸い込んでいくことができます。 間合いを吸い取られてしまった相手は自分の意志をコントロールされて、動かざるをえない状況に追い込まれます。 それで動きます。 もちろん隙間のある動きです。 そこにこちらは、水が染みとおるようにはいっていきます。 ほとんど、自動です。 タイミングなんかはかっていません。 隙間があるから流れ込んでいくだけです。 そして静かに流れる川の水のようになります。 手のうちの鏡 力を抜いて相手の手首を握っていると、相手の動く「う」の字が見える。 動作の起こりは、微妙な感触でわかる。 その前に意識の増幅が波のようにつたわってきて、動作の兆しが自分の手の内にあらわれる。 そうしたら、もう相手の心は自分のなかに鏡に映るように見えてくる。 自分の手が相手の心を映す鏡になる。 そんな稽古を続けていると、いろいろ理屈を言ったり、理論的に説明するような人を見ていると、理論や理屈の根底には自分の都合が見え隠れするのがわかってくる。 自分に都合のいいように理論や理屈をかざす人と、あくまでも相手のことを思って言う人や、公平な立場から物事を言おうとしている人の違いがわかってくる。 だから、私は公平な立場からものを言っている人や、愛情をこめて言葉を組み立てながら話す人の言葉に無条件で従いたいと思っている。 たとえ、その結果がさんざんなものになろうとも、けっして後悔はしない。 結果がすでに見えていることでも、喜んで馬鹿になりたいと思っている。 残念ながら、いまだそんな上司にめぐりあっていない。 しかし、もう、他人に求めることではないような年齢に達している。 私の手の内の鏡は、人の心だけではなく、自分の心も照らし出そうとしている。 武術の速さ 相手が打ってきたのを見て受ける。 これでは、もう遅い。 相手が動作を起こし始める瞬間を押さえる。 これでも遅い。 相手が動こうと思う瞬間を押さえる。 これでやっと間に合う。 相手動こうと思う瞬間をつくって、あらかじめ準備しておく。 これは速い。 相手が動こうと思わないような瞬間をつくる。 これが一番速い。 この速さは絶対的な速さだ。 この速さを身に付けるためには、0.1秒の遅さと0.1グラムの重さをしっかりと認識できる皮膚感覚が必要だ。 ただ、ひとつだけ言えるのは、これは求めて得るものではなく、排除して残るものだと思う。 求めるもの カテゴリ:カテゴリ未分類 結局、私が求めている武術って、すべてが限りなく同時であるってことなんです。 相手が動いたのを見て動く。 これって最低のレベルです。 相手が動く瞬間を見て動く。 これなら少しいい。 相手が動こうと思った瞬間に動く。 これは結構理想に近い。 相手が動こうと思った瞬間にその思いを消す。 理想に相当近い。 相手が動こうとすら思わない。 これこそが理想の境地。 原因と結果の間に生じる時間を限りなくゼロに近づけていくこと。 原因の原因は運命だと思う。 はっきり言って、これはどうしようもないと思う。 運命なんて信じないという人に問う。 あなたは、なぜ今、私のホームページを見ているのか? あなたはなぜ楽天を選んだのか? あなたはなぜインターネットをしているのか? あなたはなぜ今使っているコンピューターを選んだのか? あなたはなぜ、そのとき、街の電気屋さんに足を運んだのか? あなたは、なぜ、そのときに必要なお金を持っていたのか? なぜ、なぜ、なぜ、は永遠に続き、あなたは、なぜ、この世に生まれ生きているのか?というところで終着点にたどりつき、それ以上なぜを続けることが不可能だと気づく。 もう、あなたは、一言で片付けるしか手立てがない。 すなわち、これが運命なんだと・・・・。 武術とは、ここまでたどり着くための道のりを一挙に縮めてしまおうとする技術だ。 もっと別な言い方をすれば、原因が生じると同時に結果が原因を消してしまうということだ。 ゼロの繰り返し はっきり言って武術をやることに意味なんてないんです。 でも、はじめからやらないとかやる必要がないからやらないっていうよりも、やってみたけど意味なんてないんだと思ってやらないのとでは天と地の差があるのです。 やってみたけどつまらないからやめるのと、やってみて面白くてしょうがないから、どんどんやっているうちに、ことさらやるなんて意識もなくなり、もうやめているのと同じ意識になっている・・・・のとは、やはり天と地の差があります。 武術をやめてしまうとゼロはゼロですが、続けていくとまず「1」が立ち、そこから無限にゼロが並んでいくんです。 この「1」は天と地を分ける地平線です。 武術をやらない人には、武術の天も地もありません。 しかし、武術を続けている人には、武術の天地・・・すなわち「1」が立つ、天と地が現れるのです。そして幾度となく、ゼロが繰り返される。 ゼロの繰り返しが武術の稽古だと思います。 からだが拳になること 拳を開いた状態から握るでしょ。 掌を閉じた状態から開くでしょ。 武術の攻撃って、それがすべてなんです。 それだけでおしまい。 あとはなんにもないんです。 拳を握り込みつつ突くとか、掌を開きながら打つとか、そんなのは無し。 開いた拳を握って閉じることに全身の動きを乗せて行うんです。 だから、なになにしつつ何々なんて悠長なことではだめなんです。 もちろん、相手の身体に触れたら捻るなんて遅すぎます。 拳が開き拳が握られるその一瞬の時間のなかですべて全身が同時進行で動き、拳が拳になったら、その時点で全身の動きが終わっていなければいけないんです。 身体のどこかの動きが置き去りにされていてはだめです。 武術の攻撃は、全身が拳で全身が掌なのです。 気に気をあてはめる。 中国武術ではよく言われていますね。 念が意志を動かし、意志が気を動かし、気が身体を動かすと・・。 相手と向き合った場合、こちらはまず相手の念と向き合うことになる。そして意志を感じ、気を感じ、動きを見ることになるのです。 その動きを見たときに動いていたのではもう遅いのです。 気を感じて動くのもまだ遅い。 ところが意志を感じるのは難しい。 念を感じる、あるいは推し量るのはもっと難しい。 人間の念や意志というものはとても複雑なものだからです。 しかし、速く動くためには、ここに立ち入らなければ間に合わない。 しかし、予測不能な広がりや深みを見せるのがこの部分であることは間違いないと思います。 ここで悩み立ち止まり苦しむのが武術を学ぶものの宿命なのかもしれません。 でも最近、ふっとこう思うのです。 人の動きというものは、念(思い)から始まるものと、気からはじまるものの二通りあるのではないかと・・・・。 生きている人間は、もともと体中に気が巡っており、念など無くても内臓は動き、筋肉や骨格や感覚は常に働いています。 そして身体に危険がせまれば無意識に身体は反応し、安心感や安らぎなどの快感を得られれば、また無意識に身体は反応します。 武術の場合は、この気から始まる反応に働きかけることが速さにつながるのではないでしょうか。 つまり、念や意志を経由しない動きを引き出し、そこに技をかけていくということです。 外見から見れば、相手が先に攻撃し、それを一瞬にして防御し、反撃するという、いわゆる「後の先」というかたちになるのでしょうが、実際には、相手の攻撃という反応をひきださせてそこに対応しているわけですから「先の先」ということもできるでしょう。 さらに進んでいけば、相手が攻撃する動作をはじめたときには、自分の攻撃が相手に入っているといったところまで行くのではないかと思います。 これはきわめて速いうごきですね。 たとえ緩慢な動作でも、相手が攻撃しようとした瞬間に自分の攻撃が終わっているわけですから、きわめて速いといえるでしょう。 私はこれを「速さ」と呼ばず、「早さ」と呼びたいと思います。 そうです、武術は「速さ」を追求するのではなく「早さ」を追求していくものだということです。 稽古というものは、武術の動きを感覚の深いところに刷り込むためのものだと思います。 そのためには、今まで生きてきて使っていた無意識になるまで刷り込まれた動きと取り替えることができるほどの回数と時間が必要です。自分の無意識に刷り込まれていた感覚や動きが武術のものとすり換えられたとき、技は無意識に出てくるものだと思います。 そのときの動きのシステムは念からのものではなく、気からのものになっていきます。 そうしたら技は「速さ」から「早さ」に変化していきます。 そして、相手の気からおこる反応に自分の気からおこる反応を当てはめていけば、武術を使うという「現象」がおきるのです。 あくまで理想論ですが、私はバカなので、本気でこんなことを考えて稽古していきたいと思います。 |