父、スキルス胃癌発覚!2001年10月中旬ベッドの空き待ちをしていた大学病院からベッドが空いたとの連絡が入る。 胃の通過障害を無くす為にあの「腫瘍」切除をする為だ。 父は入院した。この病院は自宅から車で30分程度の所だ。 入院してから毎日母は病院に出向いた。 まだ、入院して間もない日曜日。 この日は、たまたま私は自宅に残り、主人と母が二人で病院に出向いた。 その主人から電話が入る。「親父さん、胃癌らしい・・・、今からお袋さんと帰るから」と。 意味がわからなかった。胃癌?? 目を真っ赤にした母を連れて主人が帰ってきた。 話を聞くと、主治医が父の病室に現れて「貴方、病名を知ってますか?」と父に聞いてきたという。 この時、父は6人部屋にいて母と主人が到着前だった。 主治医は簡単に「胃癌ですよ。でもまだ充分に治る胃癌だから、私が責任を持って治します」とだけ言ったそうだ。 つまり、父の場合の癌告知は、いきなり本人で家族は本人から告知を受けた形になった。 震える指でネットで「胃癌」を調べ始めた。 この頃はダイヤルアップだった。 調べるうちに逆に落ち着いてきた。 主治医が「充分に治る胃癌。責任を持って治す。」と断言したのだから、胃癌でも初期だろうと思った。 今の医学では初期の胃癌なら根治出来る。5年生存率80%と書いてある。 父の年齢なら「癌」が先か寿命が先か・・・なんて思った。 2001年10月下旬 手術の日程が決まった。念の為に胃全摘をしましょうと若い医師の説明を受ける。 (今なら初期の癌で胃を全摘するなんて?って疑問が出るけれど無知だった私はそういうものなのか・・と思っていた。) 胃全摘後の食事の勉強を受ける。 手術時間は4時間程度らしい。ご家族は朝7時までに病院に来て下さいと言われる。 父の状態と手術に関する詳しい説明は手術前夜まで無かった。 何も心配していなかかった。 2001年10月手術前夜 医師からの説明があるというので、午後からずっと医師を待っていた。 手術室に入っているとかで、えらく待たされた。 ようやく家族が呼ばれたのは、もう夜9時を回っていた。 父を含めて、母、主人、私の4人で説明を受ける。 当の執刀医である主治医は都合がつかないという事で代理の医師の説明だった。 初めて見る顔の医師だった。 この時、初めて「スキルス」という言葉が出た。 胃の真中部分が異常に狭窄していて、「ひょうたん」のようになった胃のレントゲン写真を始めて見せられた。 逸見さんと同じ癌だと言う。 主人が「未分化ですか?」と質問すると、急に「良くご存知ですね~、まさしくその通りです」とやけに機嫌を取るような口調だった事を覚えている。 スキルスといえば、やけに進行の早い胃癌だという事しか私は知らなかった。 とにかく頭は真っ白、不安が増大するまま手術の承諾書にサインした。 今なら、こんな状態では絶対にサインしない。 だけど、この頃はとにかく「助けて欲しい、治して欲しい」の思いしかなかった。 ろくに眠れないままに夜が明けた・・・ 2001年10月手術当日 早朝、父の病室に行くと前夜の「逸見さんと同じ癌」と言う言葉を父はとても気にしていた。 「医学は進歩しているんだから、大丈夫」と父に気休めを言った覚えがある。 そのうちに父の主治医である高名な先生が麻酔医を含めゾロゾロと若い医師を連れて病室に入って来た。 病室に入ってくる前に、この主治医は廊下にいた母に「この癌はとても性質が悪いんですよ」と顔をしかめて言ったらしい。 麻酔を打つと父は目をとろとろさせ始め、ろれつのまわらない口で何かを話しながら手術室へ向かう。 手術室へ見送る時の胸の痛みは、今も良く覚えている。 何でも良いから無事に帰って来て!!と心の中で叫んだ。 父が手術室へ入ってから間もなく、家族の待合室に主治医が現れた。 手招きして私達を呼ぶ。 「この癌は開けてみたらお腹中に癌がちらばっている事がある。今、細胞を顕微鏡で調べているから。そうなるとやっかいだ。」と言う。 とにかく、大変な事態になるかもしれないのだと言う事だけはわかったが、この時は何が何だかさっぱりわからなかった。 今なら、これが腹膜播種でこの時点でステージ4の末期だとわかるが。 少しして、私達を呼ぶアナウンスが入る。 手術室に入って1時間も経っていない・・・おかしい・・・ 案内された手術室隣の部屋行ってみると、主治医が若手の医師と二人で手術着のままでやってきた。 紙に人体図を簡単に書いて説明が始まる。 この時の言葉は良く覚えていないが、つまり腹膜播種をおこしていて、胃を切除して腸を持ち上げ様としたが、腸が持ち上がらない。 切除不可能だから、このままお腹に抗癌剤(マイトマイシン)を撒いて閉じます。 今後は化学療法でタキソールと言ったのかタキソテールと言ったのか覚えていないが、タキサン系の薬で治療をしましょう・・・と言う内容だった。 「充分に治る胃癌」だと言っていたこの主治医は「何もしなければ、年を越せない」と、言う言葉が変わっていた。 本人には胃を切除した事にしましょう、そうじゃないと本人はがっくりしてしまうからと言う言葉にも、そのまま私達は頷いた。 母はもう涙していた・・・ 確かに今でも開腹してみなければ、わからない部分は多い。 術前検査は「予測」になる事も今は承知している。 だけど、この経緯はあまりにも納得がいかなかった。 手術室からナースセンター前の病室に戻って間もなく、父は目を覚ました。 すぐに時間を聞く。 時間を聞いて「やけに早かったな。それだけ順調に進んだんだな。あまり早いと既に手遅れでそのまま閉じる事があるからな。」と、私達はギクッとしたが父は良い方に解釈していた。 あまりにも辛くて病室を出ると、ナースセンターにあの手術着を着た若い医師がいた。看護師と楽しげに談笑している・・・ 何故かこの時は、この笑顔がとてつもなく許せない気がした。 2001年10月手術翌日 自宅に帰ってから、思い切り泣いた・・・ 泣いて泣いて・・・でも、泣いていても仕方ないと思い、翌日から真っ赤な目で今度はスキルスを調べ始めた。 5年生存率80%だと思っていた胃癌が、恐ろしい数字で現れてきた。 どこを調べても意気消沈するものばかりだ・・・ どうして・・・どうして・・・・ この言葉が繰り返し出てきてしまう・・ ダイヤルアップの遅い回線速度で、色々調べているうちにやけにスキルスを詳細に説明しているHPを見つけた。 このHPの管理人はK病院の米村先生のようだ。 この頃、米村先生はご自分でHPを持っていた(現在はない)。 ダメで元々、返事が来なくても仕方ないと思いながらメールを送ってみた。 驚いた事に翌日には返事が届いた。 ド素人のメールに丁寧な返事だった・・・それだけで、とても嬉しくなった。 この先生にセカンドオピニオンを受けてみようと思い立つ。 K大学病院はここからは遠い・・・でも1泊で行こうと主人と話した。 セカンドオピニオンを受けたいと、早速2度目のメールY先生に送る。 また、すぐに返事が届いた。 米村先生の外来の曜日が書かれていて、「お待ちしています」とある。 この言葉がとても嬉しくて涙が出た。 今の病院からデータを借りなくてはならない。 すぐに貸してくれるものなのかわからなかったから、少し余裕をもって11月9日に行きますと再度メールを送った。 父には本当の事は言えないから、父には内緒のちょっとしたプロジェクトの開始である。 この時の米村先生とのメールは印刷して今も残っている。 2001年11月初旬 主治医にはなかなか会えないので、若い医師にセカンドオピニオンを受けたいからデータを貸して欲しいと頼んでみる。 自分の判断では出来ないから、主治医に話しておきますと言う。 すぐさま、主治医から呼び出しがきた。 父も一緒に呼ばれてしまう。 高名な主治医は既に威圧的だった。 何も知らない父はすぐさま心細い目に変わっていった。 その場で「お前は先生に何て事を言うんだ。お父さんは悪い所は全部取って、これから良くなろうとしている時に、先生に見捨てられたらお父さんはどうしたら良いんだ」と言って頭を抱えてしまった。 「セカンドオピニオンの事は父は何も知らないんです。」と言ったらこの先生は 「何だ、知っているのかと思った。」と無神経な事を言う。 おろおろする父と母をこの部屋から出し、主人と私が話の続きを始めた。 信頼関係が大事だという話を延々と始める。 最初は一言一言に返事をしていたが、何を言ってもムダだと思った私達は無言になった。 この無言を「理解」と勘違いしたこの医師は、ではこれでと席を立った。 私はすぐに横にいた若い医師を捕まえて「データを貸してください」と言った。 この若い医師はため息をついて「やはり行きますか?」と言った。 力強く頷く私に「わかりました、今お持ちします」と言って、主治医に内緒でデータを貸してくれた。 これで、約束の日に間に合う・・とホッとした。 |