スキルス胃癌 サポート

2010/01/18(月)13:58

頑張れ若造!  旅立ち

患者さんとの交流(1412)

年末にこのブログで 「メールください」 と呼びかけた若造君の今を知りました。 米村先生が、しばらく連絡の無い若造君の現状を気にされていた事もあり、メールを送ってみるも、戻ってきてしまった・・という、あの患者さんです。 年末から風邪を引いて声が出なくて、電話も出来ずにおりましたが、ようやく声も出るようになり、思いきって電話してみたんです。 お母様が電話に出られました。 若造君、昨年の11月に旅立っていました。。。 2007年11月に、腸閉塞の酷い痛みで病院に担ぎこまれ、その時に直腸癌が判明。 開腹するも、人工肛門造設のみに終わりました。 この時告げられた余命は、僅か2ヶ月。。。 余命2ヶ月と言われた彼は、2年後に旅立ったことになります。 過去のブログに、「頑張れ若造!」 と題して、何度か彼のことを書いています。 5歳の時に悪性リンパ腫を患い、抗癌剤治療の副作用である、吐き気も脱毛も、全て体験済みでねぇ・・・ 2度目の癌を乗り越えても、きっと又50歳くらいになったら、3度目の癌になるだろうなぁ。。 次は何の癌だろう? なんて言ってた彼でした。 手術を受ける前に1度、会ったことがあります。 彼はIT関連の起業家です。 仲間と会社を立ち上げて、彼の役目は営業でした。 若さもあっての、「イケイケどんどん」。 お金を稼ぐのが、面白くて面白くて仕方のない様子でした。 そんな彼が、余命を告げられるような状態の癌となり、価値観が大きく変わったと言ってましたねぇ。 私がボランティアでこんなことをしているのが、不思議だったようです。 変な話ですが、患者さんに会いに行く交通費も自腹なら、電話等の通信費も自腹。 何かをする度、「お足」 が出て行く状態ですからねぇ。 正直言えば、出て行くと言っても大きな金額じゃないから、やっていけるようなものです。 そんな私が不思議だったようですが、人が得て糧となるものは、何もお金だけじゃないって事は実感した様子でした。 元気になったら、営利を目的としない仕事をするのだと言ってました。 「何を始めようかなぁ~」 って、明るく笑いながら言ってました。  そんな彼でしたが、術後のQOLは著しく低下しました。 彼の言葉を借りるなら、 「元の体に戻るとは思いませんでしたが、もう少しマシな体になるかと思ってました」 というようなQOLでした。 彼の場合、あまりにも大範囲の腸が癌に侵されていて、腸の殆ど切除した形となりました。 その為、食事だけでは十分な栄養が確保できず、高カロリーの点滴も不可欠となります。 また、腸の多くを切除したことから人工肛門となり、頻繁な下痢となりました。 何をするにも、トイレの存在を気にせねばならず、時に夜も眠れず、自由が限られました。 思い切った切除をしたからこそ、2ヶ月を2年に延ばせた時間でしたが、楽な時間とは言えませんでした。 時間が経過してもQOLが向上せず、彼は次第に鬱になっていきます。 沢山友人をもちながらも、自ら壁を作りシャットアウト。 メールする相手は私だけ。。。 2009年に入ってから、そんな風に変わっていきました。 鬱の次は自暴自棄となり「自殺」を口にすることもしばしばとなり。。。  どんな辛い治療でも耐えてみせます と言う日もあれば  元気になって野球している姿を、米村先生に見せたいのに  ちっともそれが出来ない自分が悔しいです  先生にも申し訳ないです と言う日もありました。 お母さまからは、若造君の感情の起伏が激しくなると、泣きながら電話がかかってきたものです。 側にいるお母さまも、さぞ辛かっただろうと思います。 お母さまは泣きながら言ってましたね、「例えどんな状態でも、生きていてくれれば良いんです」 って。 どんなに息子に当たられても、その都度、喧嘩になってしまっても、入院費が毎月20~30万かかっても、何でも良いんです、生きてさえいてくれれば・・・・って。 メールが途絶えて、メールしても戻ってきてしまって・・・ もしや、もういないのでは???という思いはありました。 もしかしたら、自ら旅立ったのでは???とも、思いました。 思うだけで、怖い思いがしました。 ですが、違いました。 私は真の彼を見くびっていたようです。 彼のお母さまが言ってました。  本人の希望で、気休めにしかならないって  地元の先生に言われながらも 抗癌剤治療を受けてました 本人は、最後の最後まで生きることを諦めず、闘って逝ったそうです。 シャットアウトしていた友人も、押しかけるようにして来てくれて、時に看病で寝ていない母親の代わりに、看病もしてくれたようです。 そのお陰で、お母さまは眠る時間を取れたのだと言っておられました。 最後は多くの仲間に守られて、闘って逝ったそうです。 若造君が逝った翌日、ずっと子供の頃から生活を共にしていたお婆ちゃんまでもが、旅立ったそうで・・・ 可愛い孫を一人で逝かせるのは、忍びなかったのではないかと、お母さまが言われました。 通夜、告別式は、若造君とお婆ちゃんと同じ日に営まれたそうです。 見送りには大勢のお友達が訪れ、お友達の発案で、鳩を飛ばしてくれたのだとか。 時間こそは間違いなく延ばせました。 ですが、私と出会わなかったら、彼はこんな苦労をせずに短い時間ながらも、楽な余生だったかもしれません。 この2年という時間は、彼にとって長過ぎたのか、それとも、短か過ぎたのか・・・ どちらなのか・・・彼の気持を知りたい。。。 お母さまからは、感謝の言葉を頂戴致しましたが、これで良かったのか。。。 苦労をさせてしまっただけだったのではないだろうか・・・という思いがあります。 お母さまからの、涙声での   「米村先生にも、貴女にも感謝しています、ありがとうございました」 の言葉は胸に染みました。。。  

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