ないものねだり

2010/08/15(日)14:14

65年目の終戦の日...

物申す(41)

元々、我が家は六つも分家のある大家族だったけど、太平洋戦争で跡継ぎを失い、一族の五家が途絶えた。本家だった砂天狗の家は、終戦の4日前に特攻で長男が戦死したものの、海軍中佐だった祖父と次男坊だった父が生き残ったから、唯一途絶えなかった。 そんな訳で、こうして一族の戦没者を一同に集めて慰霊しているんだ。 砂天狗の一族で出征したのは105名、生き残ったのは2名。太平洋戦争での一族の戦没者... 大佐から学徒兵まで合わせて103名の霊がこうしてこの仏壇の前に祀られている。 一族が戦死した戦場は様々で、ミッドウェイ、シンガポール、満州、天津、仏領インドシナ、インパール、フィリピン、ラバウル、ガダルカナル、グアム、サイパン、アッツ、硫黄島、沖縄、神風特別攻撃隊、終戦日以降のソ連参戦による戦死と、太平洋戦争のほぼ殆どの戦場を網羅している。 砂天狗が幼い頃、海軍中佐だった祖父は、南の海の話や戦争の話、なぜ戦争に至ったのかなど、詳しく語ってくれた。戦前の祖父はアメ車に乗り、バーボンとJAZZと葉巻を愛し、ビリヤードとダンスが得意でアメリカに数年滞在していた。  そして、当時陸軍憲兵少佐だった母方の祖父同様に、戦争には反対の立場をとっていたけど、運命は皮肉なもので、昭和16年12月8日 真珠湾攻撃に参加して開戦の口火を切ることになった。ミッドウェ海戦で負傷した後、祖父は大本営にいたため生きて戦後を迎えたんだけど、予科練から特攻に志願した長男は、終戦直前に沖縄付近で戦死した。  祖父の日記の最後のページにはこんな文章が書かれている... 日の丸の旗の下に、この地で千年後に 平和を謳歌する人々がいますように。 日の丸の旗の下に、この地で千年後に 自由と平等が根づいていますように。 千年後のこの地にも、日の丸の旗が 翻っていますように。 (元海軍中佐 砂天狗の祖父の日記より) 元華族の我が家に、今は戦前のような賑やかな食卓はない。あれから65年... 我が家は、母と二人だけで、ひっそりとしたお盆を迎えている。戦争は、死ななくてよかった多くの若者を死なせ、同時に滅ぶべきでない、日本の美しい精神文化をも滅ぼしてしまった。 戦前、米英との戦争に反対だった母親の父は周囲から非国民と呼ばれた。そして、昭和21年10月、8歳で父をB級戦犯として失ったあと、民主主義の名の下に、母は"戦犯の子"と周りから罵られ、教師にまで石を投げられたりして育った。母は父を失った苦痛だけでなく、戦後何十年も周囲から傷つけられ続けてきた。戦後老いた母の背中は、今も戦後を背負ったままだ。 政府は、戦犯合祀を理由にして"国に命じられ"、絶望の淵で最後まで戦った人々に礼を尽くさず、戦後65年経っても"卑屈な謝罪外交"を続けている。砂天狗自身も国の卑屈な態度を不満に思う。  国が、敬意をはらい、礼を尽くして謝罪すべきは、国益に殉じた将兵とその遺族にではないだろうか。 (怒)

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