ないものねだり

2011/10/25(火)22:28

命の道 オトポールへ...

誇るべき日本人(6)

(コスモス 砂天狗撮影) 1933年、ドイツにヒトラーを首班とするナチス政権が誕生した。 政権成立直後の1935年、ヒトラーはゲルマン民族の純潔を尊きとして掲げ、 同時にユダヤ排斥に情熱を注いで「ニュールンベルグ法」を制定した。 ニュールンベルグ法は、ユダヤ教徒でなくても、祖父母4人のうち3人がユダヤであれば、 すべてユダヤとみなし、例外なく市民権を剥奪して生活に制限を加えるというもの。 1938年11月、ポーランド系活動家が、ドイツ大使館員を襲撃する事件がパリで発生し、 この事件から、ナチスによるユダヤ人迫害がエスカレートした。 当時、ヨーロッパの多くは、ドイツの非人道的な行為を非難しつつも、 迫害を受けるユダヤ人に何らかの救いの手を差し延べる国は皆無に等しかった。 ユダヤ人に同情的だった英国やアメリカでさえ、ユダヤ人難民の入国を厳しく制限して、 見ぬ振りを決め込んでいたんだ。 そんなときにセントルイス号事件が起きた... 1939年、ユダヤ人を乗せたセントルイス号が、英国で入港を拒否され、 次いで向かったアメリカでも、沿岸警備隊の武力行使で受け入れを阻まれた事件だ。 結局、ユダヤ人難民を乗せたセントルイス号は再びドイツに引き返すしかなく、 彼らは強制収容所で残酷な運命を辿った。 こうした世界情勢の中で、日本政府はユダヤ難民に対する政府の方針決定にあたり、 "五族協和"の精神に則した樋口将軍と陸軍将校たちの事例が検討され、 昭和14年(1939)12月、五相会議で「ユダヤ人対策要綱」が策定された。 残念なことに、ユダヤ人対策要綱は1942年、日米の開戦によって、 事実上運用が不可能となったため、廃止された。 けれども、日米開戦の前までの間は適用され、日本占領下の上海だけが、 当時、世界で唯一のユダヤ人のビザなし渡航者の受け入れ都市として機能した。  ユダヤ難民にとっては、シベリアから満州のハルピンを経由して上海に向かうか、 ハルピンで日本通過ビザを取得し、神戸経由で中立国へ逃れるしか生き延びる道はなく、 ユダヤ人たちに合法的に開かれた、まさに"命の道"だったんだ。 上海には、常時三万人近いユダヤ人が滞在して、1942年にドイツがその実態を知り、 日本政府に対してユダヤ人強制施設を建設するよう強い働きかけをしてきた。    【送料無料選択可!】日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー> (単行本・ムック) / 関根真保価格:5,040円(税込、送料別) しかし、これに対する日本側の対応はユダヤ人居住区を監視すると回答したけど、 実際にはユダヤ人は身分証明書を見せれば自由に出入りできるという、 ただ"雰囲気と体裁だけの対応"で、上海に逃げていたユダヤ人難民は安全に暮らし、 終戦後無事にアメリカやイスラエルへ移住した。 中国は、砂天狗の母方の祖父が憲兵将校として最初に赴任した土地だ。 昭和13年当時にはハルピン、14年に上海、そして終戦をマニラで迎えた。 戦後、祖父は戦犯の汚名を着せられ、自決して異国の地に果てた。  砂の母が、8才のときだったそうだ... 母の記憶によると、祖父からの手紙には、ユダヤの人たちとの交流が綴られていた。 そんな祖父は、英国に留学し、平等の精神を知る人だったそうだ。 奇しくも、今日はそんな祖父の61回目の命日にあたる。 現在の日本政府なら、現在の在外勤務の公務員たちなら、迫害を目にして いったい、どんな対応ができるだろう... 砂は、2005年10月に大連で起きた事件の対応を、今も残念に思っている。 当時、大連の日本領事館に保護を求め、逃れてきた脱北者家族に対して、 中国当局は領事館敷地に進入して連行。この蛮行に対し、領事館職員は見つめるだけで、 保護も抵抗もしなかった。 居合わせた領事館職員には、北朝鮮本国へ強制送還されたら、 あの家族の命はないということを想像できた筈だ。 以前、アメリカの友人に問われたことがあって、砂は答えに窮した... 「東京には"犬の銅像"はあるけど、樋口将軍の銅像はないの?彼は国際的ヒーローだよ」と。 明日につづく...

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