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カテゴリ:日常
実は、3月末から1か月半日本に行って来たけど、まだまだ時差ボケが抜ず辛い状況が続いている中、久々にブログを書いてみようと思います。
帰国理由は、父の介護と仕事の段取りだったわけですが、残念ながら日本に着いて丁度3週間目に父は他界してしまいました。 20数年前の渡米直前、父に言われたことを思い出します。 ”夢を掴むまでは、例え何があっても帰ってくる必要はない。 俺が死んでも帰って来るな。” その時覚悟したのは、”親の死に目には会えない”と言う事。 なのに、息を引き取る瞬間に手を握っていられた事は、奇跡的なことなだった。 葬儀の段取り等で、普段なかなか連絡を取る事のできなかった親戚や友人の手厚いサポートを受たりして、ただただ有難さを痛感。 30年以上会っていなかった従妹と通夜の晩に飲み明かしたり、父の田舎から出て来てくれた叔父、叔母に逢えたりと、 淋しさと嬉しさの混在した数日だった。 介護をしながらTVから流れていた、ラーメンの鬼 佐野実さん死去と言うのを思い出して調べてみたら、奇しくも父の誕生日(4/11)に亡くなっていたことが分かった。 その後ウィキペディアで調べてびっくり! うちの地元にある小、中学校の卒業で、戸塚にある”支那そば屋”が本店だったとは… (去年帰国時に、一人で食べにいったんだよな…) 等々あり、父が亡くなって約1ヵ月。 色々あった日本旅行、既に良い思い出になりつつありますが、早く時差ボケ取れないかな… ww ウィキペディアより抜粋: 神奈川県横浜市戸塚区に4人兄妹の次男として生まれた。家が貧しくつねに空腹だったため、幼いころから「将来の夢はラーメン屋か寿司屋になること」と言っていたらしい(本人は記憶していない)[6]。父親は酒乱気味で、少年時代の佐野に度々暴力を振るっていた。その影響からか、本人も短気で直ぐ「キレる」性格故、幼稚園を退園処分になった事もあった。横浜市立戸塚小学校、横浜市立戸塚中学校時代は新聞配達や牛乳配達のアルバイトをして小遣いを稼ぎ、その金でラーメン屋に通った。中学生のとき初めてラーメンを作って家族にふるまい、旨いと褒められた。 中学生時代のクラブ活動は園芸部。当時好きな女子生徒に近付きたくてその女子生徒と同じ園芸部に入ったという。これがきっかけで花が好きになり、将来は育種家か園芸家になろうと思って[7]神奈川県立平塚農業高等学校園芸科を受験したが不合格となった[8]。なお、花は派手な物、大きな物よりもあまり目立たないような小ぢんまりしたような物を好み、一番好きな花はミヤコワスレであるとも述べている[9]。また、アルバイトで飲食業の仕事をし出したのはこの頃で、金がかかる園芸の資金稼ぎにと甘味屋や純喫茶などで仕事をするうち、だんだん飲食業が楽しくなっていったという[7]。 藤沢商業高等学校(現:藤沢翔陵高等学校)に進学し、野球部に所属してプロ野球を目指したが、チームメイトに後に読売ジャイアンツなどで投手として活躍した小俣進がいたため、実力の差を知り、プロ野球への夢を諦めた。その小俣とは高校卒業後もずっと親交が深く[10]、小俣は佐野の店に時々ラーメンを食べに来たりもしていた[11]。なお、野球部退部後は応援団に所属して活動していた[11]。学校の近くに好きなラーメン屋があり、毎日のように登校前と昼休みの2回食べに行った[6]。 高校卒業後、横浜ドリームランド内の不二家レストランに就職。同店のカレーライスが好きで、1ヶ月近く通い詰めるほど旨かったからという[12]。以後ずっと洋食の世界ですごし、28歳から34歳迄は管理職(店長)を務める傍ら趣味でラーメン店の食べ歩きを重ねていたが、独立してラーメン店を開きたいという思いが募り、「修業はした方がいい」と言う地元・戸塚の飲食店組合融資部長が斡旋した湯河原の青竹手打ち麺が売り物のラーメン店で1週間修業したのち[13]、実兄の資金援助を受けて1986年8月に藤沢市鵠沼海岸7丁目に「支那そばや」を開店した。店名については、自分の原体験から「ラーメン」より「支那そば」という名称の方が馴染みがあったとのことで、前述の融資部長のアドバイスも受け入れた上で決めた[13]。初めは思うような味が作れず、客も少なく、厨房で涙を拭った事もあるという。店の経営がようやく軌道に乗りはじめたのは、2年後の1988年ごろである。2000年からは藤沢の店舗は佐野の弟子に譲ったが、辞めてしまった為2004年に閉店している[14]。 ラーメンの世界で唯一頭が上がらない人物として、旧「東池袋大勝軒」店主の山岸一雄の名を挙げている[15]。 2000年以降、2008年11月に生地である横浜市戸塚区に移転した「支那そばや」本店と、新横浜ラーメン博物館店を営業している。本店の開店と同時に、「「ラーメンの鬼」佐野実の厳選ブログ」を開設した[16]。 2009年5月に駒沢オリンピック公園で行われた「ラーメンShow in Tokyo 2009」など、近年のラーメン関係のイベントでは、「佐野JAPAN」[17]というチーム名で出店している。これは、佐野を師と仰ぐラーメン店の店主たちが集まったチームであり、支那そばや同様あっさり系スープの店が多い。イベントではHEY!たくちゃんにものまねされることも多い。なお、弟子については授業料をもらう代わりに技術を教え、独立した時には佐野自身が食材の斡旋をしていた。独立以後の弟子についてあまりこだわらなかったところ、閉店する店も出て来たため、この反省を踏まえて「最低3年から5年は修業してもらい、自分が納得するまでは独立させない」方針に転換した。「俺のと同じ味は作れないが、俺のよりうまいラーメンは作れる」と教えていたと言う[18]。 2014年4月11日、多臓器不全のため川崎市の病院で死去。関係者によると、2006年頃から10年近くに亘り糖尿病を患っており、同年2月中旬より体調を崩していたという。63歳没 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年05月17日 04時10分35秒
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