2009/07/15(水)11:27
母の新盆を機に・・・現在の緩和ケア医療ついて思うこと
みなさまこんにちは
夏休みまで秒読み、今日はこちらは夏の青空です。
東京は、7月がお盆なので、13日には母の新盆でお迎え火をたきました。
両親が元気なころから、私の実家では7月13日にお迎え火、7月15日に送り火を焚いていました。
今日は送り火です。
早いもので、母が逝ってからもう半年以上が過ぎました。
母の終末期・・・その時期には、私も母もまだ終末期だなんて思っていませんでしたが・・・。振り返ってみると、昨年11月後半、あのあたりのころからが終末期だったのだな…と思います。
母のがんには腫瘍マーカーが反応せず、スキルス胃がんで画像上もあまり映らなかったので、がんの進行を確認できるものは、母の場合、PET-CTくらいしかありませんでした。
PETは胃がんには保険適応がないため、1度の撮影に13万円ぐらいを投じていました。
胃がんの場合、日本で承認されている治療薬以外には今のところ世界的に見てもほとんどエビデンスがなく、TS-1がダメになった後は、あっという間に八方塞がりな状態になってしまいました。
画像も腫瘍マーカーも母のがんの進行を伝えてはくれないけれど、段々に母は不調が多くなり、あまり動きたがらなくなりました。食事もあまりとらないし、エンシュアリキッドもほとんど飲まない…。
当然、不調のスパイラルに入っていきました。
見えないものは、存在しないもの・・・・
そんな風に考えていたわけでもなかったけれど、私は、栄養をとるとか、筋力を維持するためにもう少し動くとか、母なりの努力を少しでもいいからしてほしいと思ったりしました。
兄はその辺り、達観していたというか、母の好きに過ごしてほしいということで、あまりうるさいことは言わなかったようです。
母の状態が良くないから、治療もできないことが多くなりました。
治療できないのだから、当然がんはますます進行していたと思います。
それを確認することはできませんでしたが・・・。
母の主治医は、母の状態については、母の自助努力があまりにも足りないと考えていたようです。
私もそう考えていたけれど、そうではなかったのかもしれません。
11月になり、私はじわじわと、「母はお正月も越せないのではないか」と、不安を覚えるようになりました。
兄も母も、まだもう少し時間があると考えていたようでした。
私は、少しでも、できる努力をすることが、いい状態を長くすることにつながるのだから、と、母や兄に危機が迫っていることを伝える努力はしましたが、あまりかみ合いませんでした。私は母と同居していなかったので、基本的には兄にすべて依存していましたから、兄は、私が言うようにはとてもできない、とも言っていました。
諦めるというつもりはありませんでしたが、現実は、受け入れていくしかありません。
できることしかできないのです。
私が母のことすべてをできる状況でもなかったし・・・・。
11月のいつのころだったか、晴れた昼間、実家のリビングのソファーの上で、母と一緒にひざかけ毛布をかけて、のんびりしていました。
実家でのんびりするのは久しぶりだったし、今から思えば、あれが、母の死を(不安に思いつつも)意識しないでのんびりくつろいだ最後だったかな、と思います。
母は、生協などのカタログをせっせと見て、お正月にみんなで食べる食べ物を吟味していました。
「あら、これおいしそうね」
「これもいいわね」
うれしそうにそのカタログを見て丸をつけていく母の横にいて、なんとなく、とても安心して幸せに感じたことを、今も思い出します。
なんとなく、このまま平和に時間が過ぎて、このままいつも通りのお正月を迎えられるのかな、という気持ちにもなっていたりしました。
現実はそうではありませんでしたが・・・・。
がんがそんなに悪化しているようにも見えないのに、それからしばらくして、腹水がたまり始めました。
スキルス胃がんだから、腹膜に転移したがんが腹水を産生していると考えられなくもありませんでしたが、アルブミンがとても低い値だったから、アルブミンを投与してもらえれば状態が良くなるのではないかとも思いましたが・・・・。
母が手術をした当初、TS-1のアジュバントはとても遠くて、たどり着くまでに私は苦労しましたが・・・。今回も、アルブミンのハードルが高くて、母が亡くなるまでに、アルブミンの投与を受けることができませんでした。
母は、がんで亡くなったというより、生体を維持するのに必要な物質が足りなくて、突然逝ってしまったというほうが正しいかな、と思います。
母は、再発後もずっと普通の生活をしていましたが、12月に入って腹水がたまりだし、腹水のせいでますます食事もとれなくなったので、一般病院に1週間ほど入院しました。体が、生命を維持するギリギリのところまで「飢餓」のような状態に入ってしまっている感じでした。
入院した病院では、緩和ケアの病院病床ではないからという理由で、アルブミンの投与はしてもらえませんでした。生理食塩水に利尿剤を混ぜた点滴だけを受けていました。
それでも、それだけでもずいぶん楽になったと言っていました。
在宅緩和ケアだったら、もっと十分な緩和ケアが受けられるということで、急ぎそれらの準備を整えて、金曜日にやっと退院したのですが・・・。
入院していた病院では、母のPTCDチューブのケアもできないということで、退院の時に、PTCDの処置をしていただいた病院を回って、チューブの詰まりを洗浄していただいてから帰ってきました。
母は兄にちょっと手をひかれるだけで、自分でちゃんと歩き、何時間も待合室で座って待たされてから帰ってきました。
私は、なすすべもなく、母の好物を用意して家で待つだけでした。
日本の医療制度がおかしくて、こんなばかばかしいことをしなければならないことにも、私は、仕方がないと受け止めていました。
母の退院を気遣ってメールをくれた方に、退院はしたけれど別の病院を回って処置してもらってから帰ってくるから、まだ、家についていないとお伝えすると、その方は、
「一体患者を何だと思っているのでしょう!」
と、私の代わりに怒ってくれました。
私は、その一言でなんだか目が覚めました。
退院した日、母のベッドを囲んで、みんなで食事をしました。
母も、おいしいおいしいと言って、いつもよりたくさん食べてくれました。
私はその時、これからは母もちゃんとした緩和ケアを受けられて、クリスマスとお正月を、家で迎えられるのだとホッとしていました。
腹水も、抜くことが心臓の負担になって、多少命が縮まることがあるとしても、それで少しでもおいしいものがたくさん食べられるようになるのなら、そのほうがいいな、と思っていました。
クリスマス前の22日あたりに、腹水を抜きましょうか、と、在宅の先生と相談していました。
私も母も、兄も子供たちも・・・・
母の死は避けられないにしても、まだ数日はあると思い込んでいました。
それから48時間後には、母はもうしゃべれなくなっているとは、夢にも思いませんでした・・・・。
適切な緩和ケアを受けて、もっと静かな最期を迎えさせたかったなと、そのことは心残りです。
必要なタイミングで必要な処置を受けられれば、もう少し穏やかな日々が過ごせただろうにと…。
母の最期の言葉は「くるしい」でした。
母も、遺された日々は長くないと思いながらも、まさか、今ここで亡くなるとは思ってもいなかったでしょう。
私や兄や孫たちに、言葉を残すことはありませんでした。
自分でトイレにも立てるくらい元気だったのに…。
生命を維持するのに必要な有機質などが足りなかったせいで逝かせてしまったなんて。
亡くなった母の体からは、便などの汚物はほとんど出てきませんでした。
母の葬儀の終わった翌日、母の注文していたおせちやごちそうが実家に届きました。
今、私の願うことは、2つあります。
1つめは、
必要な人に、必要な医療を提供できるようになってほしいということ。
なぜ、医療の制度は今、こんなにも患者本位ではないのだろうと思わずにはいられません。
体験した者にしかわからない落とし穴がたくさんあります。
必要な人が必要な医療を求めるだけなのに、ひどい言葉を不用意に言う医療者もたくさんいます。
切実な、切羽詰まった言葉は、モンスターペイシェントのそれではありません。
傷つく患者の気持ちのわからない医療者には、医療者であってほしくない。
医師不足、看護師不足が叫ばれて久しいですから、明らかに不適格な人でも、その人が辞めない限り職にあぶれることはありません。
供給をもっと増やさない限り、不適格者でも立ち去らせることができませんね。
2つ目は、必要なタイミングで、必要な医療(緩和ケア)を、患者さんの側も受けてほしいということです。
私は、今でも、母の最期の「くるしい」と言っていた姿が脳裏に焼き付いています。なるべく思い出さないようにはしていますが、とてもリアルに細部まで焼き付いています。
・・・それはとても悲しいことです。
十分な緩和ケアを受けて、静かな時間を、家族と一緒に1日でも、1時間でも長く過ごしてほしいです。
そして、静かな時間の中で、いろいろなメッセージを、家族に伝えてほしいです。
その時間が、そのメッセージがきっと、遺される家族にとって宝ものになると思うから・・・・。
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