その夜、ソンジェはソウルの町に出た。
巡回の任務があったからだ。
『葉子さん、貴女はまだこの町にいるの?いるなら会いたいよ。偶然を待つしかないのだろうけど、町に出られるようになったのは、やっぱり貴女と会えるってことなのかな?』
仲間たちとジープから降りて、ソウルの町を歩く。
町を歩く女性がみんな葉子に見えた。
葉子に似たヘアスタイルの女性の肩をつかんでしまい、不審な顔をされたのは2度や3度ではない。
仲間たちは驚いていた。
「おい、ソンジェ。いったいどうしたっていうんだ?女に関心を持つなんて、いつものお前らしくないな」
「なんでもないです」
ソンジェはうつむきながら答えた。
葉子はなぜソウルに来て、しかも自分がいる基地にまで来たのか。
ソンジェはそれが気がかりだった。
昭彦がソンジェをだまして自宅に連れていった日、ソンジェをかばう葉子に激昂していた様子を考えると、葉子が平穏に暮らしているとは思えなかった。
もし、葉子がなんらかの決心をして自分に会いに来ていたのなら・・・。ソンジェは夢想した。
葉子がソンジェと一緒に生きることを決め、ソンジェに告げるためにソウルに来ているのなら・・・。
ソンジェは今の苦しい訓練も、難なく耐えられるだろう。自分の兵役期間が終わるまで、葉子にはソウルで待っていてもらおうか。部屋は?仕事は?そうだ、手紙を送ってくれていた友人に頼んでみよう。彼ならば力になってくれるはずだ。ソンジェが除隊したら、葉子と結婚しよう。一緒に暮らし、彼女に似た子どもができ・・・そこまで考えて、ソンジェは気がついた。葉子には志保と和哉という子どもがいるのだ。彼女が子どもたちを捨てて、ソンジェのもとへ来るはずがない。では2人を連れて来ていたら?いや、それはありえない。葉子の娘・志保は、ソンジェが日本にいるころ、彼に片思いをしていたのだ。
「付き合っている人がいるの?」と志保に尋ねられたとき、ソンジェは「いません」と答えた。彼女は顔を輝かせ、デートをして欲しいと言ってきた。結局志保との待ち合わせ場所には行かなかった。彼女はとても傷ついていたらしい。ソンジェが自分の母親・葉子と恋愛していると知ると、かなり荒れていたと葉子から聞いた。
そんな状態の志保を連れて、葉子がソンジェの元へ来るはずがない。
葉子はそんな女性ではない。
そんなことを考えながら軍用車に乗ろうとしたときだった。
ふと目を上げた先に、女の人が一人で立っているのが見えた。
手持ち無沙汰に、ぼんやりしている。
葉子に見えた。またか。今夜何回葉子に似た女性を見ただろう。
ソンジェは首を振りながら、もう一度その女性を見た。
『葉子さん!?』
葉子本人だった。
車に乗り込もうとする仲間に待っていてもらい、ソンジェは足早に葉子のもとへ走った。
しばらく葉子の顔を見つめた。愛しさがこみ上げてくる。
「こんばんは」
「・・・・」
何の反応もない。
「葉子さん?私、ソンジェです」
ソンジェの言葉にも答えず、ただぼんやりとソンジェの顔ばかりを見ている。
「どうしたんですか?」
鋭い視線を感じ、葉子の後ろを見ると、昭彦が立っていた。
「女房は病気でね。君が誰だかわからないんだ」
ソンジェは驚いて葉子を見る。
「だからソウルに連れてきた。こんなこともあろうかと思ってね。しかしもう君のことは覚えちゃいない」
さっと血の気が引いていくのを感じた。
『葉子さんが僕のことを覚えていない?』
「なぜこんな風になったかわかるか。女房は自殺しようとしたんだ。俺や子どもたちを裏切ったことを悔やんで、死んで償いをしようと思ったんだよ」
“自殺”の一言に、ソンジェは雷に打たれたように感じた。
「健気じゃないか。俺は許そうと思ったよ。そこまでこいつが思いつめていたなんて思ったら哀れでね」
昭彦はそこまで言うと、さらに憎々しげに続けた。
「それなのに君はまだのうのうと生きている。しかもまだ未練がましく俺の女房に声をかけてきた」
ソンジェは体の震えを覚えた。
「いいか、償う気持ちがあるんなら、今後一切女房には近づくな。それがお前の償いだ」
それだけ言うと、昭彦は無表情なままの葉子の手をとって歩いていく。
頭の中が真っ白になったソンジェは、いつまでも葉子の後姿を見つめていた。
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