懐かしい安土が見えてくる。ソンジェは足を早めた。葉子の顔が早く見たい。
店を通り抜け、アトリエの前までやってきた。葉子の声がする。ソンジェは胸が熱くなった。
『昨日、井手先生が戻ってくるのがもう少し遅ければ、僕は葉子さんに何をしたのだろう?
僕の指がもう少しで葉子さんの頬に届くところだった。もし彼女の頬に触れていれば、
僕はもう我慢できなくなっていただろう。葉子さんを抱きしめ、口づけて・・・』
葉子はバケツを倒したらしい。床に流れ出た水をあわてて拭いている。
「あああ、もうドジなんだから・・・」
そのしぐさを見て、ソンジェはますます葉子を愛しく想った。
「葉子さん」
「ソンジェ・・・」
「昨日のこと、心配で」
「わざわざありがとう。志保も落ち着いたみたい」
葉子は昨夜昭彦に殴られたようには見えなかった。ほっとする。
ふと机の上を見ると、たくさんの土が丸めて整然と置かれていた。
「あの・・・」
「安岡先生、倒れちゃったの」
「え?」
「お医者様は過労だから一晩寝れば大丈夫だって。だけど注文を受けた分が間に合うかどうか。先生のね、お得意様からなんだけど、結婚式の引き出物用の茶わんの制作を100個、さ来週までにしなくちゃいけないのよ。なんとか一人で頑張っていたんだけど、私の技術じゃスピードだって遅いし、由紀に連絡して見たんだけど、つながらなくって」
ソンジェは心が躍るのを感じていた。葉子と一緒に茶わんを作りたい。ここで一晩一緒に過ごしたい。そうすれば、自分の気持ちにけじめをつけることが出来る。
「葉子さん、もう一つろくろを準備してください」
机の上の土を取り、ソンジェは力いっぱいこね始めた。
「え?だってお仕事は?大丈夫?」
心配そうな葉子に、ソンジェは笑顔を向ける。
「急いで、私たちで間に合わせるんです」
「はい」
葉子と並んで、ろくろを回す。そっと彼女を見る。葉子もソンジェを見た。微笑を交わしながら、ソンジェは幸せをかみしめていた。
葉子が、手を滑らせて茶わんの形をゆがめてしまう。
あわてて直そうとする彼女の後ろに、ソンジェはそっと寄り添った。葉子を後ろから抱きすくめるように、腕を伸ばす。葉子は一瞬体を硬くした。
『江ノ島のときのようだ』ソンジェは思った。でも今日は自分の気持ちを彼女に押し付けるようなことはしない。彼女をただ包み込みたかった。
葉子の甘い香りを感じながら、ソンジェは葉子の手を取り、茶わんの形を直しはじめた。
『葉子さん、僕はこの日を忘れないよ。貴女と一緒に土に触れた日。僕にとって貴女と陶芸はかけがえのないものなんだ。たとえもう貴女とこうして触れ合えなくても、僕の心の底にはいつも貴女がいる』
何十個目かの茶わんをろくろからはずす。とたんにソンジェのお腹が鳴った。葉子は振り向いて笑う。
「あ~、ふふふ。お腹が鳴った。ご飯交代で取りましょうか?私、コンビニで買ってくるわね」
葉子が財布を持ってアトリエを出ようとすると、和哉が入ってきた。手にはコンビニで買ったらしい弁当を持っている。
「おまたせ~」
「和哉、ありがとう」
和哉はろくろの前に座っているソンジェを見つけた。
「あ、ソンジェさん、手伝ってくれていたんだ。かあさん、大変なんだろ?俺もやるよ」
「和哉、でも明日も学校でしょ?」
「明日は終業式。夏休みだよ、もう。何をすればいい?ろくろでも何でも回しちゃうよ」
和哉のひょうきんな動作に、ソンジェは微笑んだ。
「和哉くんは、この茶わんを台に運んで」
「おし」
「僕たちも頑張りましょう」
「はい」
3人で作業にとりかかる。穏やかな時間が流れていった。
100個目の茶わんを台に置いた。
「ばんさ~い!」
和哉が叫ぶ。
「もう大丈夫」
ソンジェの言葉に葉子が微笑む。
「お疲れ様でした」
「和哉こんな時間になっちゃって、学校大丈夫?」
和哉はすがすがしい表情で、まだ頑張れると答えた。
「何言ってんの。お腹すいたしか言わなかったくせに。ねぇ」
「ねぇ」
ソンジェと葉子が顔を見合わせて笑う。
まるで家族のようだとソンジェは思った。
アトリエを片付けて、家路についた。
葉子と和哉と一緒に、陸橋まで歩いてきた。
「ソンジェ、今日はどうもありがとう」
「いえ」
ソンジェは忘れるはずもない葉子の顔を見つめた。彼女の姿を瞳に焼きつけておきたかったのだ。
「じゃあ」
葉子はそういって、和哉と一緒に歩き始める。
ソンジェはしばらく葉子の背中を見つめていたが、ふっきれたような表情で葉子たちとは反対の方向へ歩き出す。
『これでいい。葉子さんと最後に一緒に過ごせたのは、神様から僕へのプレゼントかもしれない。彼女への想いはもう僕の心の奥底に封印して、佳織と宗太と一緒に生きていこう』
そう思いながら、佳織と宗太の待つ家へと向かった。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
もっと見る