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カテゴリ:1974
![]() トップバッターは南佳孝(アルバムでは「1973.9.21SHOWBOAT 素晴しき船出」(1974.1.10-ショーボート3A-1014)に収録。以下省略)。南佳孝は72年、フジテレビ「リブヤング」のシンガーソングライターコンテストで3位に入賞、この日73年9月21日発売のデビューアルバム「摩天楼のヒロイン」をひっさげてのステージだった。このアルバムは、はっぴいえんどのドラマー松本隆のプロデューサーとしてのデビュー作でもあった。ほとんど全編を松本が作詞、南が作曲している。 摩天楼-都市をテーマに、まったく新しい日本のポップを作ったとされる。がステージではレコードとはまた違う、ピアノ引き語り+ストリングスで自作詞曲を中心に披露している。極めて都会的なハイセンスなステージ。 次に登場したのは、やはりこの73年9月21日にデビューアルバム「扉の冬」を発売した吉田美奈子。ブルースクリエーションのベーシストだった野地義行と「パフ」というデュオで活動・解散ののち、「春一番」等でソロステージ活動をしていたが、はっぴいえんどのベーシスト・ボーカルの細野晴臣、ギタリスト・ボーカルの鈴木茂が新たに結成したスタジオバンド「キャラメルママ」と共に「扉の冬」を作り上げた。細野はプロデュースにも名前を列ねている。キャラメルママ独自のポップス、あるいはファンキー感覚あふれるアルバムとはまた違う、ピアノ引き語りのまるで深い森の中をさまようような歌世界を見せている。 南佳孝、吉田美奈子ともに「風都市」がトリオレコード内に発足させたレーベル・ショーボートからのデビューだった。南佳孝の高度に洗練された都会的な世界も、吉田美奈子の心の中を覗き込むような内省的な世界も、これまでには見られなかったであろう"ジャンル"だった。 時はまさにフォーク全盛を迎えようとしていた1973年。吉田拓郎が多くの若者の心をつかんで大スターへの階段を登りつめ(翌74年には演歌の森進一に提供した「襟裳岬」でレコード大賞までさらってしまう)、井上陽水はLPの売れないこの時代に、のちに日本初のミリオンセラーアルバムとなる「氷の世界」を発表し、かぐや姫は「神田川」をリリースして社会現象にまでなっていた。自作曲の甲子園的な役割を果たしていたヤマハ・ポプコンからは次々とフォークシンガーがレコードデビューし、その他あまねくフォークコンテストであふれていた1973年だ。 この時代にあって南佳孝や吉田美奈子、そしてはっぴえんどだった面々、その他関係した人々がこの日紹介した「フォークでもロックでもないもの」は、ごく一部のリスナーを除いては受け入れにくいものだったと思われる。そのことはあとで触れてみたいと思う。 3番目の出演者は、細野晴臣プロデュースのアルバムを製作していた西岡恭蔵。すでに風都市と縁の深い大阪の「春一番」等で、特に関西フォーク界ではスターの一人だった人だ。 この日はバックに、やはり5月の「1973春一番」にも出ていた「オイルフット・ブラザーズ」の林敏明(ds)、田中章弘(b)、同「はちみつぱい」の武川雅寛(violin)、駒沢裕城(pedal steel g)、岡田徹(p)、そしてアーリー・タイムズ・ストリングス・バンドに参加していた松田幸一(mouth harp)。 西岡恭蔵は、細野晴臣pによる変化こそあれ、フォークシンガーとしての前身、ポップであれ素朴なままの歌声が受け入れやすかっただろうと想像されるが、この日の都会的な面々からすると一人浮いているようにも見える。この親しみ易さがこの人独特の持ち味なのだろう。 次のステージは、ごまのはえ改め、ココナツバンク。関西系ロックバンドの雄として活動していた伊藤銀次率いる「ごまのはえ」は、はっぴいえんどのリードボーカル・サイドギター大瀧詠一のプロデュースを受けることになり、「1973春一番」に出演後、大瀧詠一を頼って東京は福生に移住。が、7月になって大瀧詠一のプロデューサー権限によりボーカルの末永博嗣、ベースの角谷安彦がメンバーから外され、残った伊藤銀次がボーカルとギター、ピアノの藤本雄志がベースにコンバート、上原裕がドラム、加えて「はちみつぱい」の駒沢裕城を入れてバンド名も「ココナツバンク」となった。さらに本番では、この日がステージデビューとなる山下達郎・大貫妙子を擁する「シュガーベイブ」をコーラスに加えている。実にポップ感覚に溢れた楽曲を披露している。 LPには収録されていないが、このあとココナツバンクをバックにやはり大瀧詠一がプロデュースを手掛けていた布谷文夫が、はっぴいえんどのナンバー「颱風」を演ったとされる。 そして次の登場は大瀧詠一+ココナツバンク。シュガーベイブ、シンガーズ・スリーのカラフルなコーラスを従え、信じられないようなポップワールドを魅せている。 お次は、松本隆がドラマーとして加わった「ムーンライダース」。「あがた森魚と蜂蜜ぱい」として鈴木慶一らとあがた森魚のバッキングをしていた山本浩美がボーカルをとり、鈴木慶一の弟・鈴木博文がベース、鈴木順がギター、松本隆の弟・松本裕がドラムを担当してスタートしたバンド(命名は鈴木慶一とされている)だったが、この"お祭り"を機に松本隆がドラム、矢野誠がキーボードを担当している。 「月夜のドライブ」他、ブラスセクションを加えたソウルフルな熱いステージを見せている。 次には「キャラメルママ」。 すでに5月に発売されていた細野晴臣のソロアルバム「Hosono House」のために集まったメンバー、はっぴいえんどの細野晴臣・鈴木茂、小坂忠とフォージョーハーフのドラマー林立夫・同キーボードの松任谷正隆の4人で結成されたグループのお披露目ステージだ。プログレ調のインストのあと、細野晴臣のナンバー「僕はちょっと」「さよなら通り3番地」を演ったとされるが、この音源は発表されていない(らしい)。当日会場にいた人しか知らない(らしい)。 そして最後に「はっぴいえんど」登場。 すでにそれぞれの道を歩き始めていたメンバーが、一夜限りの解散記念のための演奏だ。しかもこの日のステージにはキーボードに「はちみつぱい」の鈴木慶一も加わっている。 「はいからはくち」「夏なんです」「氷雨月のスケッチ」と大瀧・細野・鈴木の持ち歌を1曲ずつ披露したあと、「抱きしめたい」「12月の雨の日」「かくれんぼ」と代表曲が続き、アンコール「春よ来い」で締めくくられる。 のちにいくつかのライブ音源が発表されたけれど、この日のライブ盤がもっともいい。というか、断トツいい。と思う。 フォークでもロックでもない新しい音楽を紹介する"お祭り"は、こうして終わった。 南佳孝のデビュー盤「摩天楼のヒロイン」、吉田美奈子のデビュー盤「扉の冬」、そして同時期にキャラメルママのサウンドプロデュースで発売された荒井由実のデビュー盤「ひこうき雲」。 どれも後に屈指の名盤として語り継がれていくことになる。が、この時点ではどのアルバムも初回プレス以上には至らなかったとされる。つまり3000枚も売れなかったという事だろう。 (やはりこの時期にキャラメルママのバッキング、矢野誠のアレンジで矢野顕子のアルバムが製作されたそうだが、発売すらされなかったようだ) 日本のポップミュージックの雄として登場したプロダクション「風都市」は、はっぴいえんど・乱魔堂・小坂忠とフォージョーハーフ・あがた森魚・はちみつぱい・ごまのはえ・南佳孝・吉田美奈子・シュガーベイブなどのメンバーを在籍させていたが、巨額の負債を抱えて解体していく。 あまりにも早いポップの出現に、時代は追いつけなかったのだ。 南佳孝が「忘れられた夏」でCBSソニーから"再デビュー"するのは、1976年のくしくも9月21日。ちょうど丸3年を要したわけだ。南佳孝の音楽が認められるまでに。 吉田美奈子の次作「MINAKO」の発表は約2年後の75年10月。 ごまのはえ改めココナツバンクは、この"お祭り"のあと、11月に解散。ダッチャの「26号線」等のバッキング音源は発表されたが、バンド単体のスタジオ音源は残せなかった。 伊藤銀次のポップセンスが日の目を見るのは76年の「ナイアガラトライアングル」を経て、名作デビュー盤「Deadly Drive」発表の77年5月まで待たなければならなかった。 ムーンライダースは主にこの日の為の再編だったため、その存在理由を失い、すぐに解体されていく。が、眠っていたこのバンド名のみが、75年突如復活することになる。 この73年11月にファースト&ラストアルバム「センチメンタル通り」を残して解散したはちみつぱいを母体に、アグネス・チャンのツアーバンドとして再スタートしたバンド名を鈴木慶一は「ムーンライダース」としたのだ。 翌76年1月ツアーの合間を縫って作り上げた、鈴木慶一のソロ作として発売されると思われたアルバムが会社側の意向で「鈴木慶一とムーンライダース」とクレジットされる。そして鈴木慶一はこの運命を静かに受け入れることになる。名作「火の玉ボーイ」と新生ムーンライダースの誕生だ。のちにライダースがライダーズに変わるが、1973年の時点でこのバンド名が36年後もまだまだ健在であろうとは、誰が思えただろうか。 キャラメルママはスタジオバッキングをする演奏集団として活動していくが、プロデューサー色を強めティン・パン・アレーと改名して自作「キャラメルママ」を発表するのが75年11月。 メンバーの鈴木茂が単身アメリカに渡って製作したアルバム「バンドワゴン」を出すのが75年6月、細野晴臣が「トロピカルダンディ」を出すのが75年6月。 大瀧詠一はCMソングライターとして頭角を現すが、エレックレコードに「ナイアガラレーベル」を発足させて「ナイアガラムーン」を発表するのは75年5月。 大瀧プロデュースのもと「ナイアガラレーベル」第1弾として遅すぎたデビューを75年4月に果たしたのは、シュガーベイブ。しかし当のエレックは10月に倒産してしまい、シュガーベイブは翌76年1月に解散。山下達郎、大貫妙子らはソロ活動へ向かう。 いずれも1973年9月21日から、ずっと後だ。 こうして一堂に集まって紹介されたフォークでもロックでもない音楽は、のちに「ニューミュージック」だの「シティポップス」だの「J-POP」だのと呼ばれながら、巨大なマーケットへと成長していく訳だ。 関西フォーク出身の西岡恭蔵は、細野晴臣の影響を強く受けながらも、独自な無国籍な世界を構築していく。「ニューミュージック」でも「シティポップス」でも「J-POP」でもない処に立っていた。が、1999年亡き妻のあとを追う様に、他界した。享年50歳。 1973年9月21日のこの日があったから今日があるんだ、と改めて思わせてくれる感慨深いアルバムである。
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