783505 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

すりいこおど

すりいこおど

Calendar

Category

カテゴリ未分類

(3)

1967

(0)

1968

(0)

1969

(5)

1970

(6)

1971

(9)

1972

(11)

1973

(11)

1974

(9)

1975

(13)

1976

(12)

1977

(11)

1978

(5)

1979

(5)

1980

(4)

1981

(1)

1982

(0)

1983

(0)

1984

(1)

after1985

(0)

LPジャケットギャラリー

(3)

歌紀行

(8)

Comments

 J佐藤@ Re:KEEBOW「GIVE ME A KISS」(1975.11.21 ポリドール MR5069)(07/15) 私も高校の同級生から本盤を76年にもらい…
 石川Q右衛門@ Re:「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」(1970.3 ユーゲント)(03/02) 何度もこの記事を読んでますの。正解も出…
 ごむてつ@ Re:ノラ「ノラ VOL.1」(1973.5.10 アードヴァーク AV-3004)(11/10) デビューした頃、テレビ神奈川のヤングイ…

Freepage List

Favorite Blog

まだ登録されていません
2009.08.03
XML
カテゴリ:1975
かつて広大なアメリカを舞台に活躍した"ブラウン・ライス"というグループがいた。

知らない事だらけのこのブラウン・ライス。ちょっと知りたい。


リーダーだった惣領泰則は1949年2月28日、富山県高岡市生まれ。
68年"スパローズ"というグループで杏林フォーク合戦に出場、準優勝したようだ。

69年には"シングアウト"を結成してリーダーとなり、69年7月25日に行われた合歓ポピュラーフェスティバル'69で「涙をこえて」を歌い、伊東ゆかりと共に作曲グランプリを獲得している。合歓ポピュラーフェスティバルとはヤマハが主催した、作曲者に発表の場を与えるためのコンテストだったようで、「涙をこえて」は中村八大作曲(かぜ耕士作詞)、伊東ゆかりが歌った「青空のゆくえ」は宮川泰作曲(安井かずみ作詞)となっている。69年を第1回に、72年の第4回まで続いたようだが、いわゆるポプコンとは別物のようである。

当初のメンバーが、惣領泰則・原田時芳・向山照愛・池田美和・江崎和子・麻布高校在学中の樋口康雄・玉川学園高等部に在学中の石川セリ・ビル-クラッチフィルド等。
11月RCAより「涙をこえて」でデビュー。この前後に石川セリは脱退したと思われる。

11月3日NHKの特別番組「ステージ101」放送にあたり、"ヤング101"というユニットが組まれることになり、中村八大が音楽監督をしていたこともあり、シングアウトのメンバーはこのユニットの主要メンバーとして活動することとなっていく。
70年1月10日には「ステージ101」がレギュラー番組として本放送開始。歌い踊る若者の為の音楽番組としての地位を築いていくのだ。
というか、合歓ポピュラーフェスティバルで中村八大作曲の「涙をこえて」を歌う時点から、NHKと絡んでいたのかも知れない。その辺のことはよく判らない。
シングアウトはアルバム「愛のつばさを」を発表。


しかし惣領泰則は世界を舞台に活躍することを夢見ていた。
71年3月、シングアウトは樋口康雄を除いて、ヤング101を卒業。惣領泰則はベースの金田一昌吾、ボーカルの池田美和(よしかず)・国立音楽大学に入学したばかりのキーボード兼ボーカル吉原智子・(おそらく)ボーカルの浜芳江の5人でブラウン・ライスを結成して、本格的にプロのグループを目指すことになるのだ。
5月にアメリカMGMレコードの社長だったマイク・カーヴが来日、ブラウン・ライスはオーディションを受けて見事合格。7月に本契約し、渡米とスポンサーを約束される。
8月、ブラウン・ライスは渡米、著名アレンジャーであるドン・コスタのもとで音楽修行。特に惣領泰則はアレンジを学び始める。
9月からはロスのクラブ"Bombey Bicycle"に定期出演、ハリウッドのMGMスタジオでドン・コスタのもと6曲をレコーディング、「ON THE ROAD SIDE」を発表している。
(ちなみに五つの赤い風船がハリウッドのRCAスタジオで録音するのが72年3月、五輪真弓がカリフォルニア録音するのが72年6月、はっぴいえんどがロス録音するのが72年10月のことだ。
同じ71年にはフラワートラヴェリンバンドもカナダに渡っている)

72年1月からオリジナル曲のレコーディングを開始するが、6月にはメンバーの浜芳江がロサンゼルスの通りで交通事故に遭い亡くなっている。
悲しみを乗り越えて、10月には日系三世の高橋真理子をメンバーに加えて活動を再開、日本に戻ってレコーディングを続けている。

73年5月にはMGMレコードの社長マイク・カーヴの要請で再度渡米、日本人として初めて米ユニオンのライセンス(労働許可)を取得。
ポール・ウィリアムスの「I'll Never Had It So Good」をレコーディングし発売。スマッシュヒットとなる。
7月にラスベガスUNION PLAZA HOTEL出演を皮切りに全米各地・ベネズエラ・カナダ・メキシコをツアー。
9月にはなんとポール・マッカートニーから「COUNTRY DREAMER」というオリジナル曲をプレゼントされMGMから発売、日本でも阿久悠の詞をつけて「カントリー・ドリーマー」として発売されている。

74年に入ると渡米してきたドラムスの市原康、キーボードの江夏健二(現在名ウォン・ウィンツァイ)をメンバーに迎えている。
2月にはイギリス人歌手エンゲルベルト・フンパーディンクに認められ、全米30週間におよぶツアーのオープニングアクトを契約。計70万人を動員。ロサンジェルスではフランクザッパ、WARと共にコンサートを公演している。
4月ツアーの休みを利用して、ラスベガスに一軒家を購入。自分達の手で3ヶ月がかりでスタジオに改造している。
9月に日本の音楽関係者のツアーが組まれ、彼等のステージは絶賛を浴びたという。

しかし活躍の代償に待っていたのは、高額な税金だった。ついには活動中止を余儀無くされてしまう。
10月にはその自分達のスタジオでオリジナル曲のレコーディングして、このLPの制作を開始。
12月にそのテープをもって、帰国。日系三世の高橋真理子はアメリカに残った。


こうして3年半に及んだブラウン・ライスのアメリカンドリームは終りを告げる。

75年4月に制作され、7月に発売されたこのアルバム「旅の終りに」をもって、解散していくことになってしまうのだった。


このアルバムはブラウン・ライス(玄米、ですね)の目映いばかりの瑞々しさであふれ、そして終りゆく喪失感で満たされている。



何もかもすてて アメリカに来た
この広い国を 端から端まで イェーイェーイェー イェーイェーイェー

何も分からず チンプンカンプン
青いバスを買い 楽器をつめこんだ イェーイェーイェー イェーイェーイェー

ところがこの国はむずかしい国で
歌を唄うにも お許しが必要
そこでこまった どうしようかな
あきらめて お家に帰ろかな

それでも どうにか
許可をもらって
この広い国で 唄い始めた イェーイェーイェー イェーイェーイェー

マツ毛の凍る カナダの山奥から
サボテンのメキシコまで
もう何度も往復したから
そろそろ様子を知らせようか

うれしいじゃないか
スバラシイ事さ
どこへ行っても拍手はやまず イェーイェーイェー イェーイェーイェー

うれしいじゃないか
スバラシイ事さ
どんな人間も歌を愛する イェーイェーイェー イェーイェーイェー 
(U.S.A.#1 惣領泰則作詞・作曲・編曲)


目くるめくアレンジワーク、ファンキーな演奏、分厚いコーラス。凄い。



今はもう何も言えないあなたの気持ちを
見えない耳でそっと聞いてあげましょうか
夢をもう一度 あなたに
アー 灰色の世界 七色のペンキでぬり直そうか
アー 夢のないこの頃 ステキな夢を唄ってあげよう

旅を続けるあなたのクツがすりへり
笑うことさえ忘れそうな時に・・・・それでも
(夢をもう一度 惣領泰則作詞・作曲・編曲)


等身大の気持ちを表現したような曲が続く。この素晴しい混成コーラスワークは、のちに出て来る"サーカス"などに影響を与えていると思われる。
特に英語曲「バタフライ」(シングアウトの盟友、ビル・クラッチフィルドの作詞)のコーラスは信じられないくらい感動的だ。



もう何もしたくない とても疲れました
あなたのヒザに眠り 忘れたい

数えきれぬ諺 星程もある言葉
この私を迷わせる 教えられたあの諺

アー 人は皆 自由に生きたい
いつ終るかもしれない この旅を
(教えられた夢 惣領泰則作詞・作曲ドン・コスタ編曲)

この曲の英題は「SONG FOR HAMA」。交通事故で亡くなった浜芳江に捧げられている。
師匠ドン・コスタのアレンジはシンプルでいて感動的。



インスト曲「チャガログ」ではジャズを学んできたドラムスの市原康、キーボードの江夏健二、そしてアメリカでもスタジオミュージシャンとして活躍した金田一昌吾のベースが冴え渡る。



長い旅もここまで来たわ
地図を捨てて ここに住みたい
淡い夢とあの友達は
今はどこへ消えてしまった
夢と愛をもう一度
私は砂漠 アー誰か私を抱いて

庭にバラの花を植え
部屋には あなたのギターがある
夜は 2人で話すでしょう
ラジオ聞いて笑うでしょう

あれからもう3年になるわ
世界中の涙を見たわ
あんなに大きかった夢は
今は どこへ消えてしまった
夢と愛をもう一度
私は砂漠 アー誰か私を抱いて
(旅の終りに-AT THE END OF THE TOUR 惣領泰則作詞・作曲・編曲)



このアメリカ土産を最後に、ブラウン・ライスは実質的に解散。
惣領泰則はアメリカで得たそのアレンジャーとしての才能が開花。がむがむ、福沢恵介、ふくやまゆきお、高山厳、山下成司、ラム・・・次々と仕事が舞い込んでいく。

ベースの金田一昌吾、ドラムスの市原康、キーボードの江夏健二はセッションミュージシャンとしてその手腕を高く買われ、時に"アフター・ブラウン・ライス"という名で、惣領泰則と共に活躍していく。江夏健二はアレンジャーとしての能力も発揮。

ボーカルの吉原智子は惣領泰則と結婚して惣領智子となり、77年には"惣領泰則とジムロックシンガーズ"結成に参加。この混成コーラスグループには"ステージ101"の有志としてザ・バロン-ワカとヒロを経た河内広明(のちに芹沢広明となって大活躍)、広美和子、牧ミユキ、ブラウン・ライスも共にした池田美和、アレンジを手掛けたラムの比山貴咏史がメンバーとなった。
79年には"惣領泰則とジムロックス"を結成している。

平行して惣領智子はソロシンガーとしても活動し、78年にはブラウン・ライスのメンバーだった日系三世の高橋真理子とデュオを組み"TINNA"という名で活躍した。




アメリカで確かな経験を積んで来たブラウン・ライスの各人。
人がやれないことをやった人達だ。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2009.08.04 10:44:49
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.