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すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

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 JG7MER / Ackee@ Re:大宮京子&オレンジ「Orange」(1980.8.5 キャニオン・エフ C25A0110)(12/28) 大宮京子&オレンジ、懐かしいですね。…
 Neige@ Re:「たむたむレコード」(1978)(04/26) はじめまして。 興味深く読ませていただき…
 じゅんこ@ Re:神崎みゆき「神崎みゆきファースト・アルバム」(1973 KING-POP SHOP/SKD-1014)(11/08) 長いことずっと気にしていたのに、インタ…
 青木です!@ Re:あがた森魚「僕は天使ぢゃないよ」(1975.12.5 bellwood OFL-34)(05/15) 私は今年の10月に還暦を迎えます、つい最…

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2010.03.01
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カテゴリ:1976
中川五郎という希有な存在。希有な表現者。


中川五郎は1949年7月25日大坂生れ。
中学3年生の時にピート・シーガーの歌に出会い、大坂府立寝屋川高校に進学するとアメリカのフォークソングに訳詞をつけたり、自ら歌を作ったりして歌っていた。
1967年3月、中川五郎はベトナム反戦の講演会に参加した際、そこで歌っていた高石友也に衝撃を受ける。僕がやろうと思っていたプロテストソングをすでにこうして歌っている人がいることに。高石に、自分もこういうことをしていますと言った中川五郎は、高石友也に誘われて二週間後にはYMCAのフォーク集会で歌い出すことになる。
1967年4月28日には高石友也のリサイタルステージにて中川五郎はゲスト出演、さらに7月末に京都の高雄で開催された第1回フォークキャンプにも参加していくことになる。
しかし彼が詞を書いたり、曲をつけた作品は高石友也が歌うことによって有名になっていってしまう。
『受験生ブルース』『主婦のブルース』『殺し屋のブルース』、あるいは訳詞を手掛けた『腰まで泥まみれ』等々・・

すっかりおいしい所を持っていかれた形の中川五郎であったが、67年9月高石事務所を作った秦政明は68年にURCレコードを設立。独自にシンガーを売出していくことになる。
1969年2月に第1回配布として「高田渡/五つの赤い風船」を発表。続く第2回としてようやくスポットが当たったのが19才の中川五郎だ。4月に「六文銭/中川五郎」としてイントロデュース的なアルバムを発表。続く6月の第3回は「休みの国/岡林信康」であった。
夏には全日本フォーク・ジャンボリーやフォークキャンプに参加、ライブ音源を残している。そして1969年11月には単独としては初アルバム「終り・はじまる」(URL-1010)を発表している。

しかし反戦=フォークソングの流れは、本人たちの意志を越えてしまったところで確立してしまう。フォークゲリラと呼ばれる運動体を、シンガーたちは大向こうに廻してしまうことになっていく。
69年9月岡林信康の失踪、12月には高石友也の渡米と、矢面のシンガーたちは消えていく。
かの中川五郎も70年には体調を崩し『歌うのがいやになった』と、シンガーを休業していくことになってしまう。

1970年。
高石事務所=URC系の機関誌といえる『フォーク・リポート』というフォーク専門誌の編集を、それまでの西岡たかしに代わって70年11・12月合併号からはジャックスを解散して裏方に回った早川義夫、シンガーであることを止めていた中川五郎、更に保住映の3人が担当することになる。

12月1日に発売されるその70年冬の号において、中川五郎は山寺和正名義で一つの短編小説を発表している。「ふたりのラブジュース」というフォーク小説だ。
それはコンサートに行った亘とかすみという17才の高校生が、帰りに自己解放を決意して、家には帰らずにラブホテルに向うという内容であったという。

4000部を売ったその号の短編小説の性描写に、時の高校生は敏感に反応し、それを問題視した高校教師の通報により71年2月15日、大坂府警はわいせつ文書の容疑で残部を回収、立ち入り捜査が行われ、取り調べは4月まで続く。
が、それから2年近くを経た72年12月、小説を書いた中川五郎と、代表の秦政明はわいせつ文書容疑で起訴されることになる。
大坂地方裁判所による公判は1973年5月に始まり、23回におよぶ公判を経て76年3月29日、「フォーク・リポート猥褻裁判」は、無罪の判決を受けた。

その間も中川五郎は、レコーディングこそなかったものの"ヴァギナ・ファック"、"中川五郎と魚"、"中川五郎とたらちねしょんしょんバンド"などと名前やメンバーを替えながらもステージ活動を続けていた。
中川五郎には優れたソングライターとしての才能があったと思われるが、高石友也・岡林信康・高田渡や吉田たくろう・加川良といった時代が生んだスターと同じステージでは、地味な印象であったろうと思われる。

"わいせつフォーク歌手"のレッテルを貼られながらも、妻となる青木ともこの協力のもと、地道に執筆、アルバイト、そして歌うことをこなしていた。

そうして結婚・子供の誕生・定期的にやってくる公判の日々に、再びレコーディングのチャンスが訪れる。
キングのベルウッドから日本フォノグラムに移籍し、ニューモーニングというレーベルを立ち上げていた三浦光紀。そのFW-5000番台のシリーズの第7弾として、中川五郎の新作を作ることになるのだ。
こうして実に6年振りとなる新作のレコーディングは75年の9月、10月に行われ、翌1976年1月
この新作「25年目のおっぱい」は発売されている。
まさに大坂地方裁判所での長い公判中のことである。



レコードに針を落とすと、そこには、裸の中川五郎がいる。


まずは谷川俊太郎の詩による『みなもと』から始まる。

『からだがからだにひかれて
 こころはずっとおくれてついてくるのだ
 はだとはだとがふれあって
 ことばはもっとあとからかたられる』

妻の中川ともこと思われる威勢のいいピアノに乗せて、中川五郎の歌が流れてくる。


中川五郎の著書「裁判長殿、愛って何?」(1982年・晶文社)はこんな言葉で始まっている。

『まず「セックスが好き」と言ってみる…』

セックスが好き、おっぱいが好きとなぜ言ってはいけないのだろう…

中川五郎の根本言論はここに集約されている。
なぜ「ふたりのラブ・ジュース」を書いたか、という第1回冒頭意見陳述に、こんな表現が出て来る。

『ぼく自身の考えを述べます。
ぼくにとって原理としての性は、価値あるもの、あたりまえで自然なこととして位置付けられています。ことさら性に対する秘密主義や、陰の部分に押し込めておこうというやり方、公けに人前で扱うべき話題ではないという考え方には反対です。』

一時フォークには、下世話な、下品な印象が付きまとっていたと思う。下ネタをやって当り前みたいなそんな感じが。
だけど中川五郎は、性について生真面目であるがゆえのストレートな表現者なのだろうと思う。

この谷川俊太郎の詩による『みなもと』は、まさにその本質をついていて、このレコードに相応しい導入部となっているのだと、そう思う。
『からだがからだにひかれて…』とは神々しいまでの男女の存在理由だろうと。


2曲目は「春一番'73」でも紹介した『祝婚歌』。
川崎洋によるその詩は、結婚・出産という新しいコミュニティの始まりを新鮮に、清潔に描いている。中川五郎と、妻の中川ともこによるデュエットボーカルも瑞々しい。


3曲目は山内清の詩による『いまはこんなに元気でも』。

『いまはこんなに元気でも
 やがて疲れてパパは死ぬだろう
 おまえに教えてあげられなかった
 ことばと
 おまえにあげられなかった
 時間を
 にぎりしめながら』

まだ小さき子に向けて歌われる美しい歌だ。
山内清という人は前作「終り・はじまる」においても『死んだ息子が帰ってきたから』『うた』等、5曲の詩を手掛けている。
中川イサト、ラストショウによる押さえた演奏も美しい。


4曲目は中川五郎の作詞・作曲による『夜はおちて行く』。

『突然目が醒めると
 午前五時 いまもまた
 夢の中で
 憧れのひととふたり 抱き合って
 甘い時を過ごしていた
 でも目がさめたいま
 横では妻が眠っている
 何て切ない気持ちだろう
 ぼくの夜はおちて行く』

正直さもここまでくると言葉がないが、誰もが思うことには違いなくて、その辺のいわゆるバカ正直な表現は良くも悪くもこのアルバムを通して一貫している。


A面最後は都月次郎の詩による『トカゲ』。

『ことばは 声にだすと
 嘘みたいに聞こえるから
 あなたはぼくのまえに立ったきり
 ずっとながいことなにもいわなかった
 なにもいわないで
 行っちまった。どこか

 あのひとたちは
 きっとしらないんだ。やさしさなんて
 つかれているし
 トカゲがいるんだ。おなかに』

まるでライ麦を初めて読んだ頃のような、不思議な感じがする。
自分に正直でいることは難しいし、それを誰かにわかってもらうことはもっと難しい。


B面はタイトル曲である『25年目のおっぱい』から。B面はすべて中川五郎の作詞・作曲によるいわば私小説、と言うよりは本当の告白だ。

『25年目の夜に きみのおっぱいは
 ぼくのてのひらの中で ぐっすりおやすみ
 25年目のおっぱいは とっても小さいけれど
 ぼくのてのひらにぴったりで とっても柔らかい
 おもえばきみが少女の頃
 ふくらみ始めたおっぱいが
 とっても痛くて
 つらかったんだってね
 25年目のおっぱいは いまぼくのてのなか
 ぼくはひと晩じゅうずっと こうしているつもり』

『きみのおっぱいの前で ぼくはいつも
 まるで赤ん坊のように なってしまうんだ
 きみのちっちゃなおっぱいの 谷間に顔をうずめ
 きみの可愛い乳首を そっと噛んでみた
 小さな頃はおふくろのおっぱい
 おとなになったらきみのおっぱい
 ぼくはいつまでも
 乳離れが出来ない
 もうすぐぼくらの赤ん坊が 生れるんだ
 ぼくはもうきみのおっぱいを ひとりじめ出来ないんだ』

眩しいくらいに神々しい。


2曲目は妻に歌った『ともこのまぶたにはとさんがとまった』。


3曲目は生れ来る子供へ歌った『水と光』。

『ママもぼくも
 待ちくたびれてしまった
 早く出ておいでよと
 呼びかけたいけれど
 ゆっくりしていていいんだよ
 うんと大きくなって
 うんと強くなって
 その時が来たら
 出ておいで』


そして4曲目は子供が生れたあとの『27年目のおっぱい』。

『おやすみ おやすみ
 うすめをあけてぼくを見ないで
 おやすみ おやすみ
 おまえが眠らないと
 ぼくは原稿が書けないんだよ
 ぼくが原稿を書けないと
 おまえはミルクが飲めないんだよ』

『おやすみ おやすみ
 そんなにぐずつかないでおくれ
 おやすみ おやすみ
 ぼくを困らせないで
 飲んだくれのぼくにあいそをつかせて
 おまえのママは出て行ってしまった
 ママのおっぱいは飲めないんだよ』

ここにもあまりに正直な表現者としての中川五郎がいる。
信じられない位の表現者がいる。


最後は死んでしまった飼い猫へ歌いかける『まがり』。

『ごめんね ごめんね まがり
 何てひどい飼い主だったんだろう
 ごめんね ごめんね まがり
 何てひどい親だったんだろう』

ひたすら猫に詫びる中川五郎。



プロテストソングの旗手だった1960年代終盤の中川五郎は、反戦・人生の悲哀を聴き手と共有することによって、その存在理由を確立していたと思われる。
が、結局歌は歌い手から離れてひとり歩きをしてしまった。
それから数年を経て、ここにいる中川五郎は、ただひたすら自分に正直でいることを求めて言葉を、メロディを探しているように思える。
共感は求めていないだろう。だから僕も共感はしない。
だけどその自己表現に耳を奪われてしまうのだ。


このアルバム発売直後の76年3月29日、大坂地方裁判所で無罪を受けた「フォーク・リポート猥褻裁判」であったが、検察側は控訴。控訴審は78年1月に大坂高等裁判所で始まり、79年3月8日、逆転有罪の判決が下り、発行人の秦政明に罰金7万円、作者の中川五郎には罰金5万円の刑が科せられる。
両者は最高裁判所に上告。が1980年11月28日、『主文、本件各上告を棄却する』という門前払いとも言えるわずか5秒の判決により、有罪が確定している。


その控訴審の公判中であった1978年5月21日、中川五郎は新作「また恋をしてしまったぼく」(bellwood OFL-48)を発表している。
そこでも中川五郎にしかできないであろう表現は続いている。


中川五郎は歳をとって輝きを増している。そんな歳の取り方をしている。
だけどあくまで控えめであるためか、なかなかその輝きに気づかない。

最近のNHK教育による「こだわり人物伝・高田渡」には音楽評論家というクレジットで登場していたが、実は誰にも真似できない表現者であると、改めてそう思うのだ。






Last updated  2010.03.01 18:23:53
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