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すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

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2010.03.02
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カテゴリ:1970
吉田拓郎の足跡を辿る時、僕はいつもデビューあたりの状況でつまずいてしまう。一度つまずくとなかなか先に進めない。

ウィキペディアによると、デビューにいたる経緯については下記のようになっている。

『1969年、ギター教室を持っていたカワイ楽器広島店に就職が決まっていたが、上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作する事になり参加した。音楽界の常識を無視した長いタイトルは、アングラ・レコードであったことの象徴であるが、これは全共闘の闘争資金を得るため企画されたものだった。
1970年2月頃レコーディング後、3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が発売される。自主制作のため「広島フォーク村」メンバーによる手売りで販売された。このレコード制作に関係していたエレックレコードが、拓郎の「イメージの詩/マークII」を本人に無許可でシングルカットし、関東と広島など一部地域でリリース。その内容に本人が抗議して録り直すことになったが、そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ社員契約することになり、「ダウンタウンズ」を解散し上京した。』

その後録り直した「イメージの詩/マークII」で、エレックレコードからシングルデビューする訳だ。


卒業論文のテーマに吉田拓郎を取上げて350枚に渡る『吉田拓郎論』を書いたという山本コウタローの力作「誰も知らなかったよしだ拓郎」(1974)では、このあたりの状況が証言を交えて詳しく書かれている。

『伊藤明夫はフォーク村の村長、つまり広島アマチュア・フォーク界の代表として、東京で開かれたある会議に出席していた。伊藤明夫は言う。
「この時、東京で上智大学の新聞学科に在籍していて、全共闘運動をやっていた男と知り合ったんですよ。で、その男がレコードを作りたいんだけどいいヤツがいたら教えてくれないかっていうんです。詳しく話を聞くと、実は運動の方はポシャっちゃったんだけど、仲間たちとフューチャーズ・サービスというサークルを作ってミニコミ活動をやっている。彼らはそこを拠点に<ミニからマスへ、逆流のコミュニケーション>なんてスローガンを掲げて、頑張っているんだという。このグループにSという男がいたわけ。彼がとりわけレコード作りに熱心で、既成の大会社では実現できないような手作りのレコードを自分たちの手で作りたいって、こう言うわけ。ぼくもそれなら面白かろうと思ってね。じゃあ広島にひとり素晴しい男がいるから、どうです、やってみませんかっていうことになり、Sがぼくと一緒に広島に来ることになったというわけです。」』

そのSに会った時の拓郎の証言は、
『卒業の直前だったな。でも、初めは信じられなかったよ。とにかく彼らはやたら札ビラをきって、何十人ものヤツを一緒にキャバレーに連れていってくれたり、飲めや食えやの大盤振舞いをするわけ。こりゃ喰わせ者じゃないかって思ったけど、まあ、だまされてもともとくらいの気持ちで、じゃあとにかく東京に行ってレコーディングしてみましょうってことになったんだよ』

これが「吉田拓郎ヒストリー1970-1993」(1994)では、

『「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」を製作した"フューチャーズ・サービス"という集団は、上智大学の全共闘のメンバー6人で作られていた。その中のひとりが、広島フォーク村の"村長"伊藤明夫の高校時代の同級生だった。「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」は広島フォーク村のアルバムでもあった。』となる。


エレックレコードの専務で、吉田拓郎を売出していくことになる浅沼勇の証言が冨澤一誠著「ニューミュージックの衝撃」(1979)に出ている。

『「浅沼さん、これからの日本のフォーク・ソングには、こんな歌が必要だと思うんですが…」、プロデューサー志望の、しかも初めて会った青年が持ってきたテープは、日本のフォーク界にひとりのスターを送り出すきっかけになった(そのテープにはたくさんの曲に混じって『イメージの詩』が入っていた)。『イメージの詩』を作り歌っている青年を、すぐ東京に呼んで話してみた。『浅沼さん、ラジオやテレビで流れているフォーク・ソングはもう古いと思いませんか?いや、浅沼さん自身の考えておられる歌ももう古いと思うんです。ぼくたちの本当に求めている歌はもっと違うところにあると思うんですよ。まだそれが何だかよくわからないけど、ぼくはぼくなりに歌を作り歌い続けることによって、それを見つけ出そうと思っているんです。』この青年、のっけから私の痛いところをつっついてきた。』

これが、「日本ロック大系」(1990)では、

『'70年に入って、エレックレコードの専務でもあった浅沼は、ライトミュージック・コンテストのプロデューサーとして全国を回りながら、広島フォーク村に注目し、東京に呼び寄せ、レコーディングさせた。これが、自主製作の形で発表された「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」だった。』となる。

フューチャーズ・サービスとは何者だったのだろうか?この部分で各証言・考察が食い違っている。

1976年12月号の「新譜ジャーナル・日本のフォーク&ロック10年間」での座談会で、音楽評論家・岩永文夫は、

『(1969年の後半から大阪に行ったことについて)なぜ、そこに行ったかというと、IFCとフォーク連合ていう全国連合を作ろうて、事で。この頃になると大阪の状況はさておいて僕はまず、何をしたかというと日本中を廻り出したんすよ。例えば広島のフォーク村に行ったり、九州のヴィレッジボイスに行ったり、久留米の自由の国とか名古屋の歌の宿とかにね。だから、べ平連の中にフォークが浸透したのと同じ規模で。地方に自分達でやるフォークってのがどんどん浸透してきた。で、その浸透して来たフォークっていうのは完全に関西フォークでしたけれど。それが69年に浸透が始まり出してて例えば拓郎が広島のフォーク村で、「マークII」なんて歌って、うまい、うまいなんて話が出たりね。』

同座談会で、音楽評論家・三橋一夫は、

『エートね、69年の終りか、70年の頭だったね。あの拓郎の一番最初の長ったらしいタイトルのLPの出来方てのは非常に変ってたでしょ。上智の全共闘の連中が、アイデア会ゆうのか、アイデア売る商売をやろうてんで最初にビートルズのポスター売りまくった。それが売れたんで次に何をやろうってことで二弾目にレコードやってみようって事になった。それで。何かいい事ないかって事で拓郎をめっけた。だから最初のジャケットなんかすさまじくてさ、西口フォークゲリラの写真が、こう、いっぱい入ってて、で、歌と歌の間にフォークゲリラの録音がいっぱい入っていたりしてさ。ああいうとっぴょしもないレコードを作っちゃった訳でしょ。その辺に拓郎が最初に、エレックで出したLPてのは、ものすごく時代が反映しているよね。だけど、歌ってる歌はさ、全然、西口フォークゲリラと全く関係ない歌をね、ポツ、ポツて歌ってるわけなんだけど。
あの頃は早川義夫が、テレコ持って、西口フォークゲリラに集まった人達の録音とったりしてたね。』

「日本ロック大系」の記述や岩永文夫の言うように、全国を廻ってフォークムーブメントを見ていた者からすれば、広島フォーク村という有名な団体があって、そこに吉田拓郎という男がいるというのは分かっていたことだろうと思われる。
ではなぜフューチャーズ・サービスという集団が拓郎を見つけ、アルバムを自主製作したことになっているのだろうか?

そこに出て来るのがエレックレコード社長だった永野譲の証言だ。1986年9月のインタビューの模様が86年12月に出た黒沢進著「資料日本ポピュラー史研究 初期フォーク・レーベル編」に掲載されている。

『当時、沢田さん(エレックで始めた通信教育で、ギターを教えていた沢田駿吾)も浅沼くんもヤマハのライト・ミュージックの審査員をやっていたわけ。やっぱりこれからはあの音楽じゃないのと。あれだったら、ギター持って出てくるんだから、何もいらないじゃないかと。金がかからないんじゃないかと。そういう感覚が基本的にあったわけ。
というんで、結局全国歩いてるあの2人に誰がいい?という云い方からはじまったわけね。そしたら、いろんな候補が出てきたんだけども、広島フォーク村というあの集団自体が面白いから、あそこをおさえようという話しになって。それで、一番最初にスタートしたのが、LP-1001「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」と称するやつ。
それで、広島へ飛んで、広島フォーク村の連中といろんな話しをして、個人としてではなく、集団として東京に引っぱってきたわけ。ただ、その売る自信ってのがあまりなかったわけだよ。それで、その時に噛んだのが、当時、安保のあとでまだ熱が残ってる時期で、学生運動というのが盛んで、一応組織化されてる時だったから、フォークでそういうある程度の意識を持ってるものだったら、結局、連中の資金かせぎも含めて、連中が売らせてくれってきたわけ。それは、上智の新聞学科のセクトが主体になった学生運動のグループで、そこが手売りでやらせてくれってきたわけ。
それで、このLP-1001ってのを録音して、曲と曲のつなぎにぜんぶ西口のノイズをはさんだわけだ。その西口の音ってのは、俺が朝日ソノラマの取材でとった音なんだ。反戦歌を。それを効果的に使っていったわけね。
ま、LPができて。連中に売らせて。連中だけでLPを1万2千ぐらい持ってったんだよ。それでウチで売ったのが、その当時で4千枚ぐらいかな。ところが、連中が売ったやつの金はほとんど入らないわけ。』

--このLPは、広島フォーク村が自主製作して、それをエレックが買い上げたと思ってたんですけど。の質問に対しては、

『違うの。それはそういう形をとったわけ。結局、学生に渡すためには、レコード会社の小売りやってるってんじゃ格好つかないじゃない。だから自主製作みたいな顔させて。最初のやつはジャケにめちゃ金がかかってる。中にいっぱい写真集はさまっててね。』


なんてこった!!永野譲の証言が真実であれば、商業主義のレッテルを貼られないために、フューチャーズ・サービスを使って、手のこんだ工作をしたという訳か。

1970年4月25日にはエレックの販売提携というような形でLP-1001という品番でユーゲント(フューチャーズ・サービスが作ったことになっているレーベル)とエレックのダブルネームで世に出ることになる。

それが3月の時点ではユーゲントのみの刻印で、盤のレーベルにはFSL-443-5027というもっともらしい品番も付けられている。学生運動の様子を切り取った立派な写真集と、楽譜集の表紙には「JUGEND NEWS 創刊号」と書かれ、巻末には「フューチャーズ・サービスとは?」「ユーゲント・レコードとは?」といった説明文も添えられている。

何はともあれ拓郎の歌う「イメージの詩」は素晴しい存在感を出しているし、曲間に入ったフォークゲリラを始めとする学生運動の模様も臨場感に溢れている。


しかしこうも各証言が違うと黒澤明の「羅生門」を思い出してしまう。
ちいさな嘘の口裏合わせが破綻していったということだろうか。
それとも本当はフューチャーズ・サービスがリーダーシップをとっていたのだろうか??
でもそういうメンバーが札ビラをきって、何十人ものヤツを一緒にキャバレーに連れていってくれたりはしないだろう、とか思ったりして。


さっぱりわからない。あー、わからない。

(なお、盤のレーベルのFSL-443-5027とは、ジャケ裏を見るとフューチャーズ・サービスの電話番号ではないか!)





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Last updated  2010.03.02 15:14:49
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