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カテゴリ:1977
![]() 伊藤銀次はシティポップ派(?)には珍しく、関西の出だ。 伊藤銀次は1950年12月25日、大坂住吉区生れ。本名は伊藤一利。 歯科医の長男として生れ、小学校から高校まで学芸大学付属校に通っていた。高校2年からギターを弾き始め、ビートルズ、シャドーズ、ドアーズ等様々なロックに刺激を受けてはバンドを作っていたようだ。 1969年に大坂歯科大学に進学すると、オリジナル曲も作り始め、1970年4月25、26日福岡風太が初めて企画した天王寺野外音楽堂でのアマチュアコンサート「BE-IN-LOVE-ROCK」に"ウッドブロック"というバンドで出演している。英語詞のオリジナルが中心であったという。 夏には「BE-IN-LOVE-ROCK」に"ハウス・グラス・ホッパー"というバンドで出ていた上原裕(ds)、末永博嗣(vo)、永井充男(g)、朝倉徹(b)と"グラスブレイン"を結成、京都に引越して大学は辞めてしまった。 "グラスブレイン"は8月12、13日の「ロック合同葬儀」、71年5月2、3日の第1回「春一番」等に出演している。その間にドラマーの上原裕は"村八分"に参加するため、抜けている。 「春一番」後、"グラスブレイン"は解散。"はっぴいえんど"のような日本語によるオリジナルロックを目指して"ごまのはえ"を結成している。 メンバーは伊藤銀次(g)、末永博嗣(vo)、藤本雄志(key)、角谷安彦(b)。ドラマーがなかなか定まらずにいた1972年1月、上原裕が"村八分"を辞めて訪ねてきたので、メンバー入りしている。 1972年5月の第2回「春一番」に出演した"ごまのはえ"の音源は発売されている。 9月25日にはベルウッドレコードからシングル「留子ちゃんたら/のぞきからくり」でデビュー。 12月には大坂高槻市の学園祭に出演していたところへ、ベルウッドの三浦光紀と"はっぴいえんど"の大瀧詠一がやってくる。大瀧詠一と伊藤銀次は意気投合して、大瀧詠一が"ごまのはえ"のプロデュースを引き受けることになる。 翌1973年、1月に福生に引越していた大瀧詠一を頼って、"ごまのはえ"の面々は3月に上京、福生に住み着いている。 5月5日の第3回「春一番」では大瀧詠一プロデュースのステージを披露している。 が、7月になって大瀧詠一のプロデューサー権限によりボーカルの末永博嗣、ベースの角谷安彦がメンバーから外され、残った伊藤銀次がボーカルとギター、ピアノの藤本雄志がベースにコンバートされ、上原裕がドラム、加えて"はちみつぱい"のスティールギタリスト駒沢裕城を兼任で入れてバンド名も"ココナツバンク"と変えている。 9月21日の「City-Last Time Around」でデビューした"ココナツバンク"は、この日がステージデビューとなる山下達郎・大貫妙子を擁する"シュガーベイブ"をコーラスに加えて、さすがは大瀧詠一プロデュースという、実にポップな楽曲を披露している。 が、そのコンサート後、"ココナツバンク"は解散してしまう。伊藤銀次はギタリストとして岡林信康のライブに出演したり、いとうたかおのLPで演奏したり、あるいは"布谷文夫とココナツバンクス"として活動したり。 1974年以降は主に"ハイファイ・セット"のバック・バンドに参加したりしていたようだが、1975年3月頃、翌月にアルバム「SONGS」を出すことになる"シュガーベイブ"のドラマー野口明彦とベーシストの鰐川己久男が脱退し、山下達郎からの要請で上原裕と、"ハイファイ・セット"のバック・バンドにいたベーシストの寺尾次郎と共に、"シュガーベイブ"に参加している。 が、伊藤銀次は8月頃には"シュガーベイブ"を脱退。スタジオミュージシャンとしての活動に入っていく。 1976年に入ると、坂本龍一(key)、吉田健(b)、上原裕(Dr)、斎藤ノブ(Per)と共に"りりィ&バイバイセッション・バンド"で活動している。 3月には大瀧詠一、山下達郎とのユニットで「NIAGARA TRIANGLE VOL.1」を発表。4月には伊藤銀次作の「幸せにさよなら」がシングル発売されている。 それ以降もスタジオ、バックバンドが続いていく伊藤銀次がそっと残した初のソロアルバムがこの「デッドリィ・ドライブ」だ。 バックを務めるのは、"ハックルバック"、"ティンパンアレー"にも参加していた関西ベーシストの雄・田中章弘 (b)、旧知の上原裕(Dr)、"バイバイセッション・バンド"の同僚・斎藤ノブ(Per)、ソロになった山下達郎や大貫妙子のバックもしていた緒方泰男(key)。 更には"バイバイセッション・バンド"の坂本龍一(key)、"シュガーベイブ"の同僚・村松邦男(g)、ジャズテナーサックスの高橋知己、トロンボーンの向井滋春、マウスハープの妹尾隆一郎、フルートの国吉征之、ドブロの島田耕。 コーラスには大貫妙子、"スターキング・デリシャス"の大上留利子、そして"シュガーベイブ"と交流のあった"センチメンタル・シティ・ロマンス"まで参加している。 このアルバムが、とても心地いい。特に今日のような雨の日にはうってつけだ。 大貫妙子との共作詞になる「風になれるなら」から。 田中章弘 (b)、上原裕(Dr)、緒方泰男(key)によるバッキングが飾り気がなくてとてもいい。 大貫妙子のコーラス、坂本龍一アレンジによるストリングス、高橋知己のソプラノサックスが絡み付いて行く。そして何より伊藤銀次のなんとも言い難い爽やかで、素っ気無いボーカル。とっても心地いい。 カバー曲「I'm Telling You Now(好きなんだ)」は1982年以降のシティポップ路線を予感させる。 『ウキウキ ドキドキ』の歌詞通りのナンバーだ。 タイトルナンバー「Deadly Drive」は村松邦男との共作で、2人のギターバトルがスリリングなインストナンバー。効果音満載で楽しめるし、さすがのバック演奏陣。 そしてA面ラストは「こぬか雨」。 "シュガーベイブ"ではソングライターとしても活躍していた伊藤銀次の名曲。"シュガーベイブ"時代には山下達郎との共作詞であったが、ここでは詞を書き直して伊藤銀次の作詞作曲ナンバーとして登場している。 淡々とした雨の情景。坂本龍一のピアノ、大貫妙子のコーラスをバックに淡々と雨を降らせてみせる伊藤銀次の表現が瑞々しく沁みてくる。 ファンキーな「KING-KONG」に続いては、ラテンアレンジの「あの時はどしゃぶり」。 そして再びファンクナンバー「Sweet Daddy」。大上留利子をフィーチャーして、演奏名人達の掛け合いが続く。 まさにクロスオーヴァーという言葉がぴったりの構成が続く。 そしてラストは最小ユニットでじっくり聴かせる「Hobo's Lulluby(ホーボーズ・ララバイ)」。 やりたいことをやったら、こんなんなりました、みたいないろんなこと満載アルバムであるにもかかわらず、やっぱり伊藤銀次というパーソナリティはぶれずにひとつである証拠か、まったくもって心地いい。 なんで好きかと問われれば、なんとなく、としか言いようがないのだけれど、なんとなくしょっちゅう聴いている。 1983年、学校の帰り道の貸しレコード屋で大瀧詠一にはまっていた頃、伊藤銀次や山下達郎を何枚か聴いている。とりわけ僕は伊藤銀次のソロ復帰作「Baby Blue」(1982.4)が気に入ってしまい、伊藤銀次は僕のシティポップの王子様となる。 同時期、山下達郎の「SPACY」を大人なアルバムとして心から愛していたが、考えてみると山下達郎が「SPACY」を作ったのは24歳の時で、伊藤銀次が「Baby Blue」を作ったのが31歳の時。だけど、伊藤銀次はやっぱりいつでも僕のシティポップの王子様なのだ。
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