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すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

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2010.03.31
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カテゴリ:1977
"休みの国"こと高橋照幸(あるいは高橋照幸こと"休みの国")という人もまた、60年代後半から70年代初頭にかけては伝説的な人物であると思う。

高橋照幸は1948年3月10日、静岡県浜松市生れ。
県立浜松西高時代は美術部・映画研究会に所属していたり、友人とグループを組んでポップスを歌っていたという。同じ美術部にはのちにイラストレーターを経て絵本作家となるスズキコージがいた。1966年4月、新設されたばかりの和光大学芸術科に進学している。
同じ和光大学の1年生(新設校なので1年生しかいない)に、和光高校時代からppmのコピーを中心にしたナイチンゲイルというグループを組んでいた早川義夫と高橋末広がいた。彼らはその夏フジテレビの「フォークソング合戦」に出演の際ウィンド・ミルズと名を変えるが、女性ボーカルで浪人中だった松原絵里が受験のためにグループを抜けることになり、早川義夫と高橋末広の二人はジャックスと名乗るようになる。
翌1967年1月、高橋照幸の同級生で、高橋照幸にギターを教えていた谷野均がジャックスに加入、3人組となる。5月には和光高校のひとつ後輩で、東京芸大の打楽器科に進学した桂重高(のちの木田高介)が加入。リードギターだった高橋末広が抜けてしまうが、桂重高とは和光高校の同級でこの春和光大学に進学してきた水橋春夫をリードギタリストとして迎えている。ジャックスは活動を本格化させていき、9月には第1回ヤマハライトミュージックコンテスト全国大会で2位および特別賞を受賞している。その時演奏したのは「からっぽの世界」と「マリアンヌ」。
高橋照幸は、ジャックスのベーシストとなった友人の谷野均と一緒にいるうちに、ジャックスそのものと行動を共にするようになり、作詞・作曲も始めている。
1968年3月にはジャックスが「からっぽの世界/いい娘だね」でタクトレコードよりデビュー。9月には東芝エキスプレスからアルバム「ジャックスの世界」でメジャーデビューを果たしている。
これと前後してリードギターだった水橋春夫が脱退、11月にはつのだひろがドラマーとして加入している。
1969年3月、河口湖畔で1週間の合宿をすることになったジャックスに運転手として同行した高橋照幸だったが、練習の合間にジャックスのメンバーをバックに自作曲をテープに録音している。

これをジャックスが所属していた高石事務所の秦政明にどのように伝わったのかは分からないが、新設されたばかりのURCレコードからデビューすることになっていく。
4月に早川義夫を除くジャックスのメンバーや、ハーモニカで加わった遠藤賢司等をバックにアオイスタジオにてレコーディング。6月にURC会員第3回配布分として「休みの国/岡林信康リサイタル」として世に出ている。会員2000名限定ということになっている。が、高田渡著「バーボン・ストリート・ブルース」によると『二千枚限定の配布とされていたが、それは表向きの話で、ほんとうは五千枚ないしは一万枚という数のレコードをどんどん出していたのである。なのに事務所は「二千枚限定」と大ウソをついて、上前をはねていたのだ。これはのちに発覚したことであるが。』とあるので、実際の枚数は分からない。

が、岡林信康の面に問題曲があったこともあり(あるいは岡林信康の権利をその後本人が持って行ってしまったこともあり)、のちに再発を重ねていったURCレーベルにおいては、数少ない再発されない一枚となってしまった。

なにはともあれジャックスがステージでそのアルバムの収録曲であった「第五氷河期」や「追放の歌」を取上げたこともあって"休みの国"の評価は高まり、11月にはURCからシングル「追放の歌/楽しいさすらい人」を発売している。このジャケットのイラストを手掛けたのが、高校の美術部仲間であった鈴木康司(スズキコージ)。スズキコージはその後高田渡の「ねこのねごと」(1983.10)や友部正人「カンテ・グランデ」(1984.4)等のジャケットイラストレーションも手掛けている。

話が相前後するが、1969年6月頃には急速に解体へ向っていたジャックスは8月の第1回フォークジャンボリー出演を最後に解散。メンバーはそれぞれの道を歩み始めている。

1970年に入ると"休みの国"こと高橋照幸はロック叛乱祭や第2回フォークジャンボリーに出演しているが、11月には谷野均等と渡欧。それは1年にも及んだ。
1972年3月には元ジャックスの木田高介・つのだひろ・谷野均等をバックにセカンドアルバムとなる「フィ・ファーン」をレコーディングするが、5月には再びスウェーデンに渡り、日本に戻ったのは1年半後の1973年12月。つまり日本の音楽シーンが大きく動いた1971年から1973年にかけての3年間、高橋照幸はほとんど日本にいなかったことになる。

発売されると少なくとも本人は思っていたであろうセカンドアルバム「フィ・ファーン」は、岡林信康の戦線離脱によってすでに幻のアルバムとなっていた1969年6月の「休みの国/岡林信康リサイタル」の"休みの国"面全8曲中7曲に、1972年3月録音の「フィ・ファーン」用の新曲5曲を加えた形で、URCが本人の居ぬ間にアルバム「休みの国」として1972年9月に発売してしまう。ジャケットはなぜかラクダのイラストになっていた。

つまり初アルバム「休みの国/岡林信康リサイタル」も、セカンドアルバム「フィ・ファーン」もまさに幻となってしまった訳だ。残された音盤はURC独自編集による「休みの国」のみ、という状態が何年か続くことになる。

帰国後の1974年からは多少の音楽活動に、ヨット造り・再渡欧といった生活。
貧乏性の僕には、この人はいったいどうやって喰っているのだろう?と思えてしまう。
すでにURCレコードも解体(というか別の経営陣)していたし、海賊という愛称で呼ばれていた高橋照幸はヨット造りと共に音楽にも執念を燃やし、1976年の秋からは自主製作によるアルバム作りに着手している。それが1977年夏にようやくレコーディングに漕ぎ着け、発売まで辿り着いたのはその年の末。実に1年以上を要して製作されたのがこのアルバム「トーチカ」だ。


このレコーディングに集まったメンバーが、1975年9月発売の斉藤哲夫「僕の古い友達」でもおなじみの渡辺勝(アレンジ・key)に竹田裕美子(コーラスアレンジ・p)、斉藤哲夫のバックバンド・スペースサーカスにいた武藤雄二(b)、斉藤哲夫もコーラス参加している。更には旧知のつのだひろ(dr・par)、金子マリとバックスバニー在籍中の永井満男(g)、そして高田渡とヒルトップストリングスバンド在籍中のマルチプレーヤー佐久間順平という面々。


これが針を落とす度に味わいが増す、つまりはいいアルバムなのだ。
相変わらずどちらかと云えばぶっきらぼうな、生れ持って声そのものがディミニッシュモードを含んだような、ちょっと不可思議な歌声ではある。
唯一聴いたアルバム「休みの国」でのディミニッシュ具合は、本当に不安を助長する調子だったように思えたが、このアルバムではそれが心地よさに変っている。
詞の世界でも「休みの国」ではなぜか不安になることが多かった。ジャックスのスリリングな演奏が、余計にその不安な世界を助長させているように僕には思えていた。

それがこのアルバムでは違う。渡辺勝と竹田裕美子が紡ぎ出すどちらかというとかなり「まったり」としたゆったり感が関係しているだろうとは思う。高橋照幸のこの時の波長とうまく噛み合ったのだろう。
『私の暮しに二つの町が 行ってはもどる あの町とこの町』と歌う1曲目の「フラリフラフラ」のゆったり感、心地よさは格別だ。
高橋照幸の独自世界「半分大佐の歌」「カワウソ」においても不安ではなく心地よさが漂う。すっきりとしたリズム隊、歯切れのいいギター、いきなりカントリー調に変る下り。いい。


もう何も夢見なくなったみたいに
静かに座っていようか
心に一筋の光もささないように
これから生きてみようか
愛した日々のぬくもりからは遠く
それでいて淋しくもない
ただ時たま頬をなぜてみて
まだ生きていると思ってみようか
とっても早く雲が流れてく
とっても早く人も流れてく
とっても早く僕も流されていくのか
とっても早く君も消えていくのか
(「夕焼地帯」作詞・作曲/高橋照幸)


A面ラストのこの無常観がまた、とても心地いい。


続くB面は、あまりに美しい「夏の日」で幕を開ける。


君の田舎は北の果て 君の田舎も今は夏
なくした時間はとりもどせないが 君を想って歌います
夏の日の光の中で
(「夏の日」作詞・作曲/高橋照幸)


あまりに美しい叙情。あまりに美しいギター、ピアノ、キーボード、コーラス。
素晴しい名曲だと思う。

「オレはのら犬」を経て、「おまえの頭の上」は、本当にこの人しか作り得ないだろうという世界。不思議なメロディラインと一風変った詞が、静かに心に入りこんでくる。


そしてラストナンバー「オールライト」へ。
まるで子供のように力強く、決意表明を歌ってみせる。その人生を冒険列車と名付けてみせる。


自主製作であったことを考えると、それほど多くの人には届かなかっただろうと思う。
が、驚くくらい完成度が高く、程よく熟成された美しいレコードが1977年の暮れに、そっと存在していたのだった。



1972年に出るはずだった幻のセカンドアルバム「フィ・ファーン」。
URC独自編集による「休みの国」に収められなかった曲と、B面に1974年のライブを加えて「FYFAN」としてLPを限定発売したのが16年後の1988年。
(1974年にURCの編集盤「埋もれ火のアンソロジー」で、未発表曲のうち「朝のダウンタウン」だけが「追放の歌」と共に収録されたことはある)
オリジナルの形で「フィ・ファーン」がCD発売されたのは1991年。製作から実に19年後のこと。
同時にこのアルバム「トーチカ」もCD化されたが、名義は高橋照幸から"休みの国"へと変更されている。

またこの自主製作LP「トーチカ」には『休みの国ディスコグラフィ』が紹介されているが、そこに載っているのは「休みの国(片面岡林信康ライブ)」と、シングル「追放の歌」と、そして発売されなかった「FY FAN(フィ・ファーン)」だけ。
そこには1972年3月製作 URCレコード・番号不明(URG-4014…URC独自編集による「休みの国」のこと…とはまったく異なります)と書かれている。






Last updated  2010.03.31 15:25:56
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