佐藤隆「I've been walking」(1980.4.1 コロムビア AX-7248-A)
作曲家としての佐藤隆の側面はともかく、シンガーソングライターとしての活動があまり評価されてこなかったのでは、と嘆いてみる。特に1984年以降「マイ・クラシック」や「カルメン」、谷村新司との競作「12番街のキャロル」、高橋真梨子への提供曲「桃色吐息」といったヒット曲が出る前の部分が、だ。佐藤隆は1951年3月11日、東京都府中市生まれ。中央大学経済学部に進学後、米軍基地内やディスコでの演奏活動を続け、卒業の時期がきても就職を考えずに、20代は音楽でやっていこうとアルバイトをしながらアマチュア活動を続けていたという。1970年代も終わらんとしていた時、デモテープがたまたま作詞家・松本隆の手に届きデビューのチャンスを得ている。1980年4月1日、29才の佐藤隆はシングル「北京で朝食を/Mr.ロンリー」・アルバム「I've been walking」でついにデビュー。そしてそれはデビュー作とはとても思えぬ、完成度の高い独自世界を展開しているのだ。プロデュース的立場にあったと思われる松本隆が作詞を担当し、はっぴいえんど時代からの盟友・鈴木茂がアレンジを担当している。ベテランの2人に呼応するように、作曲を担当した"新人"佐藤隆のセンスと、ボーカルが圧倒的にいい。まず詞の部分で言うと、松本隆がここで繰り広げてみせたのは、ワールドワイドなポジショニングだ。コスモポリタンとでも言うべきだろうか。インドを舞台にした「アジャンタ」に始まり、映画「ジャッカルの日」を彷彿とさせる「SPY」、『シベリアあたりで生まれた寒気流(ブリザード)が』と始まる「Mr.ロンリー」、その名もずばり「メ・ソ・ポ・タ・ミ・ア」、「G線上のリンダ」と続く。B面は東京を舞台に「メトロポリス」「Any Day」と展開し、「北京で朝食を」経て、再び(たぶん)東京へ戻り「赤い靴は嘘つき」「8ビート・ドリーム」で締めくくられる。そのどれもが極めて都会的だ。時代的な流れで言うと前年1979年の、ジュディ・オング「魅せられて」、久保田早紀「異邦人」といった無国籍世界の大ヒット、あるいは加藤和彦・安井かずみ夫妻によるいわゆるヨーロッパ3部作の第一弾となる「パパ・ヘミングウェイ」の延長線上にあるのかも知れない。1980年6月21日に発表された松任谷由実「時のないホテル」にも同様の流れを感じる。やはりスパイを主人公にした表題曲「時のないホテル」、松本隆作が「Mr.ロンリー」ならこちらは「Miss Lonely」、「セシルの週末」や「コンパートメント」「水の影」といった楽曲にも無国籍世界が漂っている。詞の世界でいうとラストに並ぶ「赤い靴は嘘つき」「8ビート・ドリーム」が傑出していると思う。松本隆は靴というアイテムに青春の匂いを漂わせるのがとても上手い。思いつくだけでも『東京駅についはその日は 私お下げの少女だったの 胸ポケットにふくらむ夢で 私買ったの赤いハイヒール』と歌う太田裕美の「赤いハイヒール」('76.6)、『駅に続く道は雨で川のように僕のズックはびしょぬれ』と歌った原田真二の「てぃーんずぶるーす」('77.10)、『ペアで揃えたスニーカー 春夏秋と駆け抜け 離ればなれの冬が来る』と歌ったマッチの「スニーカーぶる~す」('80.12)。「スニーカーの紐をキリッと結ぶ指 白さが陽に透けてとてもエロチックさ 純粋すぎるから傷つけあうのって まるで女学生の下手な詩のよう Don't sing a song Red Shoes Blues Red Shoes Blues ぼくは生まれつき嘘をつくのが上手なんだ でもね嘘をつく女はとても嫌いなんだよ 大理石の床の喫茶店で会った ガラスの気持ちだけ注意深く持って 落したら割れるさ 凍りつく噴水 人魚姫のように君も氷ればいい Don't sing a song Red Shoes Blues Red Shoes Blues ぼくがいなくても君は煙草をやめないさ そして不幸へと自分の背中ポンと押すのさ DISCOの床に君は倒れてゆく はしゃぎすぎた時代の偶像が砕ける 頭の中身まで置き忘れて踊る 若さと愚かさの意味をとり違え Don't sing a song Red Shoes Blues Red Shoes Blues 君は生まれつき嘘をつくのが上手なんだ けれどサヨナラはたったひとつの真実だった Don't sing a song Red Shoes Blues Red Shoes Blues」 (松本隆作詞・佐藤隆作曲)松本隆・筒美京平・筒美京平・太田裕美ラインによる「赤いハイヒール」も、松本隆・原田真二・後藤次利・原田真二ラインによる「シャドーボクサー」も名曲であったが、この松本隆・佐藤隆・鈴木茂・佐藤隆ラインによる「赤い靴は嘘つき」も大名曲であると思う。この辺に松本隆の本気度を感じてしまうのだ。楽曲・ボーカルの持つ雰囲気は、全く同時期にデビューした佐野元春と近いものを漂わせている。そしてラストの「8ビート・ドリーム」。高校時代にビートルズのコピーバンドで始まったという佐藤隆のこのアルバムに付けられた帯のコピーは『ぼくたちが最後のビートルズ・エイジかもしれない』。ビートルズをこよなく愛する男に、武道館来日公演も体験している松本隆が贈った秀作だ。「 Love in the 8 beat dream Love in the 8 beat dream 武道館の隅へとぼくはうずくまって ジャケットを抱きしめた 闇の中を四つの 人の影が飛び去る Back to the R & R Age 若さが世界中を塗り変えてゆくのを 瞳にしまいこんだ 人に愛がないから 愛の歌が眩しい Back to the R & R Age Love in the 8 beat dream Love in the 8 beat dream Back to the R & R Age ドーナツ盤の上を人生が歩いて 今独りこう思う ぼくが生きた時代が 一番美しいと Back to the R & R Age Love in the 8 beat dream Love in the 8 beat dream」 (松本隆作詞・佐藤隆作曲)29才という一見遅いデビューではあったが、松本隆('49.7.16生れ)はこの時31才、鈴木茂は('51.12.20生れ)は佐藤隆と同学年で28才。共有できるものがあるから成し遂げられた完成度、そして熟成度であったと思う。松本隆は翌81年、トータルアルバムとしての大瀧詠一「ロング・バケーション」、寺尾聰「Reflections」で一気に爆発、松田聖子のトータルプロデュースへと繋がっていく。そしてすべてのアレンジを手掛けた鈴木茂。構築的で端正な、スキのない完成度を感じさせてくれる。そしてやはりとても都会的だ。1980年以降アレンジャーとして一気に花開いた才能の、かなり最初の部分かも知れない。その世界を手助けしているのが、林立夫・島村英二・渡嘉敷祐一・上原裕(以上ds)、後藤次利・岡沢茂(以上b)、鈴木茂・今剛・矢島賢(以上g)、吉川忠英・谷康一(以上ag)、佐藤準・田代真紀子・山田英俊・渋井博(以上key)、斉藤ノブ・ペッカー(以上per) といったいずれ劣らぬ面々だ。そして、佐藤隆。ドラマチックな歌声に、ドラマチックなメロディライン。デビューシングルとなった「北京で朝食を」が最も平凡な曲に思える位、それぞれの曲が多彩で素晴しい。特に「メ・ソ・ポ・タ・ミ・ア」で魅せる独自世界は1984年以降の活躍を予感させてくれる。が、こんなに素晴しいアルバムであるにもかかわらず、売れない時期が続いたようだ。フォークでもロックでもない括りとして"ニューミュージック"なる言葉が1970年代半ばに生まれ、やがてそれは歌謡曲以外のほとんどを指すようになっていく。が、"ニューミュージック"という括りにいまいちフィットせず、"シティポップス"という文脈でも括られなかったのが佐藤隆ではなかったか。それは長谷川きよしや下田逸郎が立っていたポジションにむしろ近かったのでは、と思う。誰にも似ていないという点において。そしてヨーロピアンへ。前述の加藤和彦は79年の「パパ・ヘミングウェイ」以降「うたかたのオペラ」「ベル・エキセントリック」とヨーロッパ路線を展開。78年の「ヌーベル・バーグ」でヨーロピアン、というよりヨーロッパ趣味を展開していたムーンラーダーズは80年の「カメラ=万年筆」でそのひとつの完成を見せ、大貫妙子が80年以降「Romantique」「Aventure」「Cliche」と続けている。ヨーロピアンの先駆者的な五輪真弓も79年の「岐路(みち)」以降そのスタンスを明確にし、かしぶち哲郎が83年の「リラのホテル」を出し、それが84年、石川セリの「ファム・ファタル」へと続いている。そんな流れと関係あるかどうか分からないが、佐藤隆もヨーロッパ路線を明確にして冒頭に書いた「マイ・クラシック」や「カルメン」「桃色吐息」と世界を確立していくことになる。が、このデビューアルバムが持つ独特な完成度…大人なのにちょっと青臭い。なのに素敵…が、実に素晴しいのだ。ムーンライダーズも無期限活動停止かぁ……