浅川マキ「ブルー・スピリット・ブルース」(1972.12.1 エキスプレス ETP-9067)
年明け早々に体調を崩してしまい、すぐに良くなるだろうと思っていたのだけれど一向に良くならず、かかりつけの医者には「風邪かなぁ」で済まされ風邪薬を処方されたが全く効かず、とうとう2週間も熱が引かなかった。今はすっかり体調をとりもどしたけれど、こんなに長い期間体調が悪かったのは初めてのことだったので、「あー、それなりに無理の効かない歳になってきているのだなぁ」としみじみ感じています。そんな風にして着ぐるみ状態で机に向っていた時に、ひとつの訃報が飛び込んできた。2010年1月17日日曜日、浅川マキ、公演先の名古屋にて心不全にて逝去。享年67。その女は1942年(昭和17年)1月27日、石川県石川郡美川町に生れている。美川漁港を擁する漁師町だ。名前は森本悦子といった。家が五軒しかないという集落で、妹とともに育ったという。女は石川県立金沢二水高等学校を卒業すると町役場に就職し、国民年金の窓口という役職を得ている。しかし何か思う所があったのか、ほどなくして役場を辞め、夜行列車にて東京に向っている。法律の勉強をするためだったとも言われている。町を出たかったのかも知れない。東京にたどりついたその女は、やがてキャバレーや米軍キャンプでゴスペルやジャズを歌い始めたとされている。そして運命的な場所であろう新宿の、歌声喫茶"灯"などにも出演していくようになる。1967年、25才の時その女はビクターからレコードデビューするチャンスを得ている。しかしそのデビュー曲となった『東京挽歌』は、女が歌いたかった世界とはあまりに懸け離れていた。女は浅川マキという名前に変っていた。翌1968年、寺山修司作の舞台『千一夜物語』に歌手として出演する機会を得ている。寺山修司によってその才能・存在感を見出された女は、新宿のアンダーグラウンドシアター"蠍座"で初のワンマン公演を三日間催行している。翌1969年、東芝音楽工業に移籍したその女はエクスプレスというレーベルから『夜が明けたら/かもめ』で再デビューしている。翌1970年夏には、中津川のジャンボリーに出演して一般的にその名を知られる存在となり、9月には"蠍座"公演での寺山修司作詞・山本幸三郎作曲の作品を中心に、女自ら創った『夜が明けたら』などを収めたアルバム『浅川マキの世界』を発表するに至っている。もはや森本悦子とかつて名乗っていたその女は、黒尽くめの衣裳を纏った孤高のブルースシンガー・浅川マキへと完全に移行していたのだった。・・・・そんな松本清張風な(風にもなってなくてごめんなさい)書き出しがぴったりくるミステリアスな浅川マキ。知ったようなことを書いてしまったけれど、僕は浅川マキのことをほとんど知らない。僕のレコード棚にある浅川マキは、初アルバムとなった『浅川マキの世界』と、4THアルバムとなるこの『ブルー・スピリット・ブルース』だけだ。一般的に傑作と評される『浅川マキの世界』は、僕にとってはあまり心地良いものではない。そもそも心地良くは作られていないのだろう。一方の『ブルー・スピリット・ブルース』は、恐らく2度ほどしか聴いていなかった。それが、今回の訃報を目にして、レコード棚から引っ張り出して針を落として以来、この一週間毎日聴いている。他界の知らせを機会にやっとその良さに気づくなんて、本当に情けない。つくづく情けない。日毎に心地よさが増す『ブルー・スピリット・ブルース』。寄り添うような荻原信義のギターとのデュエット『ブルー・スピリット・ブルース』からこのアルバムは始まる。まるで目の前で歌っているかのような浅川マキの歌声。地の底から聴こえてくるような低音。絡み付くような荻原信義のギター。旧知の今田勝トリオと離れ、ブルースのパートナーに大学を出たばかりの荻原信義を迎えた浅川マキの静かなるブルース。続く『難破ブルース』はトランペットの大御所・南里文雄、ピアノに山下洋輔、ドラムにつのだひろ、ベースに高中正義を加えてのリズミカルなブルースだ。ジャズ出とはいえ、このころフライド・エッグとして活動中だったつのだひろ、同様にフライド・エッグのメンバーだった19才の高中正義、やはりロック出身の荻原信義。こうした新しい血が、浅川マキのブルース世界を構築しているのだろうか。続いては山下洋輔のピアノが生々しいビリー・ホリディのナンバー『奇妙な果実』。浅川マキが日本語歌詞を書いた先の2曲だったが、さすがにこのナンバーは原曲のままだ。ビリー・ホリディへの思いをヤングギター1971年9月増刊号で浅川マキはこのように書いている。『いしだ・あゆみちゃん、わたしは好きだ。 女のわたしを素直に表現できるひとは素敵だ。 ビリー・ホリディなんて、耐えられない程である。』また1970年の新譜ジャーナルには『・・・新宿を知り尽くした(友達の)リコに比べて、私は麻薬を知らない。だってレコードが 白くなる程聴いても、ますますのめり込んでしまうビリー・ホリディの歌に麻薬だと思う事はあっても私が唄ってる瞬間、決して美しい虹を見る事もなく、今日は調子が悪いとか、マイクが悪いとか、そんな毎日ではないのか、そうよね!・・・・』そしてA面ラストが、『あの娘がくれたブルース』。浅川マキ作詞・作曲によるこのナンバー、とても日本的だ。と言うか、これが浅川マキブルースなのだろう。荻原信義のギターに、口笛。暗い港に来て見れば 潮の匂いと外国船聞いてくれるなわたしの話を 今更出番がないものを影とふたりで今日迄来たが 遠くの灯りも又消えりゃ弱いおいらに戻ってしまうあぁ昔を想うじゃないが あの娘がくれたブルースようたを唄おうか 口笛吹こうか 酔って今夜も何処へ行く雨になるのか南の風が なんで今更あんたの暖み 影とふたりで今日迄来たが 遠い霧笛を背中に聞いて弱いおいらに戻ってしまうあぁ昔を想うじゃないが あの娘がくれたブルースよ昨日拾った手紙のなかに あのふるさとの秋の色何の未練もない筈なのに わたしのこころに船が着く影とふたりで今日迄来たが 港灯りに夾竹桃が・・弱いおいらに戻ってしまうあぁ昔を想うじゃないが あの娘がくれたブルースよ (『あの娘がくれたブルース』浅川マキ作詞・作曲)先のヤングギター1971年9月増刊号に寄せられた『おんなに生れてきた恐さ』と題された浅川マキの文章はこんな風にして始まる。『この間、中村冬夫が何枚かのレコードを、わたしにどうしても聞かせたいと言うのである。レコード盤はどうしようもなく痛んでいた。それは1930年代のブルースで、その頃のアメリカを実際に知らないわたしにも、何故かとてつもなく懐かしさを覚えるものだった。今にも破れそうなジャケットの解説によると、T・ニューマンのトランペット・ソロで絶唱とある。あの娘がうたってくれたブルースというタイトルにも、わたしはすっかりふくらんでしまって、この曲には詞がついているかどうかもわからないのに、勝手に文句を考えて、くっつけてしまった』そこには浅川マキが考えた詞も載っている。『あの娘がくれたブルース』とは似ても似つかない別物だが、このタイトルからイメージをふくらませていったのかも知れない。そしてそれは完全に、浅川マキの世界なのだ。B面はやはり荻原信義のギターとのデュエット『ハスリン・ダン』から始まる。なんという最高の歌声だろう。続いての『ページワン』は荻原信義のギターに加え、オルガンが全面的にフィーチャーされている。これはディレクターの渋谷森久が弾いているようだが、なんともいえない暖かくて緩い世界を構築している。B-3『灯ともし頃』は小気味のいいブルース。僕は中島みゆきを敬愛している。初期の中島みゆきが好んで歌っていたブルースとなんとなく似てはいるが、さすがに浅川マキの世界には及ばない。だいたい較べる事自体が間違っているし、周りをとりまくミュージシャンの環境も違い過ぎるのだけれど、本当に恐るべし浅川マキワールドなのだ。B-4『町』の荻原信義+つのだひろ+高中正義は、完全にロックテイスト。なるほど、と思わず膝を打ってしまう面子だ。浅川マキの歌も凄いの一言。そしてラストの『大砂塵』へ。曲ごとにちょっとしたニュアンスを変えていく浅川マキ節。本当に心地よい浅川マキのブルース。もっと聴きたいし、もっと知りたい。でも急ぐ必要はないのだ。art is long , life is short浅川マキは逝ってしまったけれど、浅川マキのブルースは不滅なのだから。また楽しみがひとつ増えました。