2010/12/13(月)11:29
【小田和正】 たしかなこと
「いまの説明で、わからない人いますか?」先生がそう言った。
「おーう。ちっとこっち来て、もういっぺん説明してくれねーか」
いちばん後ろの席に座っているおじいちゃんが両手を振ってる。
「さち子さん、あのおじいちゃんのサポートしてください」
先生は、アシスタントのさち子にそう指示した。さち子はおじいちゃんの席に向かった。
「おめえさん、あまりみかけない顔だね。おらア、ここんとこ、まいんち、まいんち通っとる。
ここのパソコン教室じゃ、みーんな顔見知りだ、うん。みかけねー顔だな?」
「わたし、今日がはじめてなんです」
「そうか、道理でみかけないと思った。今日がはじめてか。なんて名前だ?」
「今日からここでお手伝いをすることになりました。さち子です。よろしくお願いします」
「ほう、そうかい。さち子ちゃんか。それアいいや。さち子ちゃんみたいな美人の先生なら教わり甲斐があらーな。
おらア、光吉ってんだ。こうきっつあんって呼んでくれ」
「はい、こうっきっつあん。よろしくお願いします。」
さち子は空いていたおじいちゃんの隣の席に座った。
「で、どっから来たんだ?」
「神田の三河町からです」
「ほう、そうかい。いいところだなあ。で、彼氏はあんのか?」
「それが、このあいだ、ふられたばっかりなんですよお・・・」
「うん、そりゃいけねえなあ、おらアまた世話好きだから、いいのがあったら、ひとり世話してやろうじゃないか」
「ありがとうございます。では、こうっきっつあん。さっそく始めましょう」
さち子は精一杯の笑顔で答えた。
「画面に、矢印が動いてるでしょ? これをカーソルって言います」
「これがカーソルってのか」
「このカーソルは、わたしが今、右手につかんでる道具で動かしているんですよ。これをマウスって言います」
「マウスってったら、ネズミだろ。そのくらいおらアだって知ってるよ。なんだってネズミなんだい?」
「この形と、先っぽから伸びている長い線がネズミみたいでしょ?」
そう言うと、さち子はおじいさんの手を取りマウスを握らせた。
「ああ、そうかあ。なるほどね。うまいこと言うね。こりゃいいや。手の中にすっぽりと納まるね。
ほら見てみな、カーソルがくるくる回ってら。不思議だねえ。な。・・・・・・
みかけねー顔だな?」
「ええ、あの、今日がはじめてですから・・・」
「ああ、そうか。道理でみかけねえと思った。で、なんて名前だ?」
「さち子です・・・」
「ほう、そうかい。で、どっから来た?」
「神田の三河町です。こうきっつあーん。始まってますよー。いいですかあー。次いきますよー!」
さち子の精一杯の笑顔が引きつっている。
「カーソルを、ここのスタートってところに持っていって、マウスの右のボタンをクリックします。
クリックって言うのは、マウスのボタンを押すことですよ」
そう言うと、さち子は、おじいちゃんの人差し指の上に、自分の指を重ねて押してみせた。
「ああ、なるほど」
「ほら、メニューが出てきたでしょ。この中からワードを選んで同じくクリックします」
「おお出てきた。出てきた。これがワードってやつか。驚いちゃうね。良く出来てるねえ」
「画面にあるアイコンをダブルクリックしてもワードが立ち上がるんですよ。ダブルクリックって言うのは、
すばやく2度押す事ですよ」
そう言うと、さち子は、おじいちゃんの人差し指の上に、自分の指を重ねて、すばやく2度押した。
「ああ、なるほど。トントンってんだ。よくできてるねえ。パソコンってやつア便利だ。
こりやいいや。ほら見てみな立派にワード様が出て来たよ、ってんだ。・・・・・・
おめえさん、あんまりみかけねー・・・」
「今日はじめてなんです。名前はさち子。神田の三河町から来てみましたっ!」
「はあ、で、彼氏はあんのか?」
「ですからこのあいだ、ふられたばっかりなんですっ!!!」
小田和正 -たしかなこと -